第8話 まさかの事実

 竜妃様は湯浴みをしたことがないに違いない。そう考えたわたしは大きめの桶三つに湯を用意するだけにした。立派な湯船もあるけれど、湯を張ったところで竜妃様が入るとは思えない。それなら湯船を満たす労力は竜妃様を洗うことに使ったほうがいい。


「ということで、湯浴みをします」

「……ゆあみ」

「湯を使って体や髪の毛を洗います」

「……あらう」


 竜妃様の眉が寄っている。やっぱり湯浴みをしたことがないのだ。


(わたしでもやったことがあるのに)


 湯船を使ったことはないものの、湯で体や頭を洗ったことくらいはある。夏は水浴びで済ませられるとしても、寒い冬に水を浴びるなんて死ぬようなものだからだ。


「さぁ、脱いでください」

「……」

「脱いでください」

「……」

「脱がせますよ」


 問答無用で上着を剥ぎ取った。唖然とする竜妃様を尻目に下も脱がせて肌着も奪い取る。匂いがしないということは、もしかして自分で拭ったりしていたんだろうか。そう思いながら体を見て驚いた。


「……は?」


 目の前には素っ裸になった竜妃様がいる。そう、ここにいるのは妃のはず。


「なのに、何で胸がないの?」


 ぺちゃんこ、という意味じゃない。女としての胸がないのだ。

 思わず食い入るように見つめてしまった。しかし何度見ても女の胸には見えない。小さな子どもならわかるけれど、十八でこれはさすがにおかしい。そのくらいぺったんこなのだ。


「……まさか」


 おそるおそる視線を下に向ける。


「さすがに違うか」


 もしかしてと思っていたものは付いていなかった。もし男のアレがついていたら、さすがにどういうことだと混乱したに違いない。


「っていうか、つるつる……?」


 わたしにさえ生えているものがないことに気づいた。もしかして妃というのはこういうものなんだろうか。いやいや、この竜妃様が自分で剃ったりするとは思えない。


「ええと、つまりどういうこと? そもそも胸がないなんて変だし……」


 額を押さえながら唸っていると「くしゅん」という声が聞こえてきた。湯船に湯が張ってあれば暖かいのかもしれない湯殿でも、桶の湯だけでは冷える。


(考えるのは後にしよう)


 目の前にいるのは竜妃様で、わたしが仕える主だ。ただそれだけを考えながら全身を洗うことにした。石鹸をたっぷりと泡立て、布で優しく丁寧に擦っていく。

 途中、浮いたあばら骨を見ながら「やっぱり肉を食べさせるべきかな」と改めて思った。同時に「濡れると鱗がはっきりするんだ」という新たな発見もあった。鱗は鎖骨あたりから両脇に広がっていて、肩の骨の下あたりまで続いている。全身にないのは竜の特徴なんだろうか。


(竜の特徴なんて知らないけど)


 取りあえず鱗がある場所と痩せすぎていることはわかった。続けて長い髪の毛を洗ったものの、意外にも泡立ちはよく油っ気もすぐに消えてしまった。「こういうのも竜の化身だからなのかな」と思いながら全身を拭い新しい服を着せる。といっても子ども用のものだからちんちくりんになってしまった。

 パチパチと瞬きする竜妃様に「いつもの服は洗濯するので我慢してください」と言って肩掛け代わりの布をかける。そのまま部屋に連れて行き、濡れた髪を布で丁寧に乾かすことにした。


(ものすごく気になってるんだけど、聞いていいのかな)


 答えてもらえなかったとしても聞かずにはいられない。手を動かしながら駄目元で尋ねることにした。


「つかぬことを聞きますけど、竜妃様は女性ですよね?」

「……じょせい」


 まさかそこから説明しないといけないんだろうか。「いやいや、それはさすがに」と思いつつ「性別のことです。男とか女とか、動物だと雌とか雄とか言いますけど」とつけ加える。すると少しだけ視線を上げた竜妃様が「蛇は雄だった」と答えた。


「ええと、蛇のときは雄だったってことですか?」


 小さくこくりと頷く。


「じゃあ、竜になったいまも雄なんですか?」


 それにしては股には何もついていなかった。もしかして竜は外に出ていないんだろうか、なんて馬鹿なことを考える。


「竜は雄も雌もないから」

「……はい?」

「雄じゃない」

「じゃあ、雌ってことですか?」

「雌じゃない」


 意味がわからない。それでは男でも女でもないということになってしまう。それとも性別がないのが竜の特徴なんだろうか。


(……って、すっかり竜だって信じてるし)


 いつの間にか竜だと言われても変だと思わなくなっていた。竜の前が蛇だと言われても「へぇ、そうなんだ」くらいにしか思わない。そもそも学のないわたしに難しいことはわからなかった。


(真実はわからないけど、鱗があるのは本当だしなぁ)


 ……よし、この際だから全部本当だと信じることにしよう。

 竜妃様は昔は蛇で、何かがあって竜になった。だから後宮に入ることになった。蛇だったときは雄だったけれど竜になったら雄でも雌でもなくなった。それがいいのか悪いのかわからないけれど病気でないなら問題ない。


(そもそも何も食べないで生きられる人なんているわけないんだしね)


 そのことで嘘をついているとも思えなかった。もし嘘をつくならもっと上手につくはずだ。それができるなら侍女や下女が一人もいなくなるなんてことにもならなかっただろう。


「わかりました。竜妃様は蛇から竜になった竜の化身で、雄でも雌でもありません。わたしは竜妃様の話を信じることにします」


 そう言いながら長い黒髪を布に挟んでぎゅうっと水気を取る。おとなしくされるがままだった竜妃様が、不意に顔を上げて横に立つわたしを見た。


「こうしゅん」

「はい?」

「名前」

「もしかして竜妃様の名前ですか?」


 こくりと頭が動いた。なるほど、こうしゅんという名前だったのか。

「そういえば名乗ってなかったかも」ということに気づいたわたしは、手を止めてキョロキョロと周りを見渡した。そうして水差しの水をコップに注ぎ「行儀悪いけど、まぁいいか」と指を突っ込んで乾いたテーブルに文字を書く。


「わたしは阿繰あくりと言います」


 この名前はわたしが生まれたとき、たまたま近くを通りかかった学者に付けてもらったのだと聞いている。貧乏人のわたしにとって、この名前だけが価値があるような気がした。だから名前だけは書けるようにと小さい頃から何度も練習した。

 すると竜妃様まで同じようにコップに指を突っ込み、テーブルに文字を書き始めた。どうやら自分の名前は書けるらしい。


虹淳コウシュン。竜が付けた名前」


 竜妃様が竜になったときに同じ竜に名付けてもらった、ということだろうか。少し歪な字だけれど、それが竜妃様らしくて微笑ましくなる。

 わたしは消える前にとテーブルに書かれた文字を必死に覚えた。どちらの文字も近所の看板で見ていたから覚えられなくはない。


「それじゃあ、これからは竜妃様じゃなくて虹淳コウシュン様と呼びますね。せっかく竜に付けてもらった名前があるなら、呼ばないともったいない気がしますし」


 わたしの言葉にくるっと顔を向けた竜妃様……改め虹淳コウシュン様は、一瞬見開いた黒目を次の瞬間には細めてにこっと微笑んだ。「これは間違いなく美少女だなぁ」と思いながら、艶々になった黒髪をせっせと乾かし続けた。

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