第2話 竜妃

「誰?」


 そう問いかけられて、わたしのほうこそ首を傾げた。背丈はわたしと同じくらいで年も近いように見える。もしかして下女か侍女だろうかと思ったところで、やけに身なりがいいことに気がついた。


(……もしかして)


 まさかと思いながら全身を見る。黒い髪は結い上げられていないものの、真珠のような耳飾りと胸には青い色の宝石が輝く首飾りがあった。服は濃紺の上質な生地に細かな刺繍が入っているもので、白い肩掛けも上質な絹地で作られているように見える。


「あの、もしかして竜妃様でいらっしゃいますか……?」


 おそるおそるそう尋ねると、わたしをじっと見ていた黒目をきょとりと動かした少女が小さく頷いた。


「ご無礼いたしました」


 慌てて荷物を近くの椅子に置き、胸の前で両手を組み頭を下げる。


(まさか竜妃様本人が出てくるなんて、どういうこと?)


 いくら人手が足りなかったとしても宮の主が一人で出てくるなんてあり得ない。たった二年しか後宮勤めをしていないわたしでもわかることだ。

 頭をほんの少し上げて竜妃様の周囲に視線を向ける。視界に入るのは竜妃様の服だけで、ほかの人の靴も服も見当たらなかった。つまり、この時点でも竜妃様しか出て来ないということだ。


「……あの、」


 本来、わたしのような下女が妃に話しかけることは許されていない。でもここには竜妃様しかいなのだし、それなら本人に尋ねるしかない。そう決意し、頭を上げてから改めて口を開いた。


「侍女はいらっしゃらないのでしょうか」

「……さぁ」


(いやいや「さぁ」ってどういうことよ)


 下女のことはわからなくても、自分の周りにいる侍女のことくらいはわかるだろう。それなのに「さぁ」と首を傾げるのは一体どういうことだろうか。


「応竜宮を取り仕切っていらっしゃる方はいらっしゃいませんか?」

「……さぁ」

「では、台所を取り仕切っていらっしゃる侍女は」

「……さぁ」


 首を傾けっぱなしの竜妃様に頭を抱えたくなった。見た目は同じくらいの年かと思ったけれど、もしかしたらわたしより若いのかもしれない。


(いくら若いと言っても、こんなふうじゃ妃の勤めなんて果たせないような気がするんだけど)


 そう思い「あぁ、だからか」と納得した。竜妃様がこんなだから「応竜宮は後宮の墓場だ」なんておかしな噂が流れているに違いない。

 昔、応竜宮に勤める侍女は後宮でもっとも優れた侍女たちだと言われていたらしい。それもそのはずで、現人神あらひとがみに直接仕えることができるのは誉れ高いことだからだ。

 とくに家柄のよい侍女たちにとって竜妃様に仕えるのは生家のためにもなる。竜妃様の覚えめでたければ皇帝の目にも留まるだろうし、運が良ければ妃の一人になれるかもしれない。そうでなくても生家が取り立てられる可能性だってある。

 しかし、目の前の竜妃様はあまりにも幼く見えた。これでは皇帝陛下の話し相手も満足にできないだろう。そういえばお渡りもないという噂もある。


(そういう竜妃様に仕えたい人なんていないか)


 ただの下っ端下女のわたしでも、この二年余りで後宮の仕組みは何となく理解できた。自身の出世や生家の利益を考える侍女や貴族出身の上級侍女たちなら、竜妃様に仕えることが損か得かすぐに見極められるに違いない。


(この竜妃様なら、仕えるのは損だって判断しそうだし)


 つまり、わたしのような立場の人間が近づいても咎める侍女はいないに違いないということだ。そう判断したわたしは、それならと遠慮せずにじっくりと竜妃様を観察することにした。

 身につけているものは妃らしい高級品に見えるけれど、長い髪を結い上げていないのは結ってくれる侍女がいないからだろう。建物の中をぐるりと見渡すと、ところどころ埃が被っているのがわかった。おそらく掃除をする下女や侍女もいないに違いない。


「竜妃様、ここには侍女や下女はいないんですか?」


 わたしの言っていることがわからないのか、また首を傾げた。


「ここに来た人で残っている人はいますか?」

「……誰も」


 なるほど、全員が辞めたということか。


(さて、どうしたもんかな)


 どうやら竜妃様に仕える侍女はわたし一人らしい。自分のことは自分で何とかするからいいとして、これまで一度もやったことがない妃のお世話なんて一人でできるものなんだろうか。


(貴族の作法一つ知らないわたしに務まるとは思えないんだけど……あ、そうか。皇帝陛下のお渡りはないのか)


 そんな竜妃様のもとを訪れる妃もいないだろう。つまり、ここは後宮であって陸の孤島のような場所ということだ。


(……いける)


 それなら行儀作法を知らなくても問題ない気がする。面倒くさそうな侍女の作法を叩き込まれることもない。ここが後宮である限り生きていくのに困ることはないだろうし、二人だけでの生活ならわたし一人でも何とかなりそうだ。

 いつの間にか緊張していたらしい全身から力が抜けるのを感じた。竜妃様がこんなふうなら気が楽だと思ったところで、ふと疑問が湧く。


(いつから侍女がいないのかわからないけど、いない間の食事ってどうしてたんだろう)


 さすがに妃自ら台所で料理をするとは思えない。何より目の前の少女に料理ができるとも思えなかった。


「少々お尋ねしますけど、食事はどうしていたんですか?」

「食事?」


 黒目がパチパチと瞬いた。それから再び首を小さく傾げながら口を開く。


「必要ないけど」


(んなわけあるかーい!)


 思わず心の中で叫んでしまった。いくら現人神あらひとがみと言われているとは言え体は生身、飲まず食わずで生きていられるはずがない。もし食事を作れなかったとしてもお菓子くらいは口にしていたはずだ。


「ええと、ではお菓子を食べていたとか?」

「お菓子……」


 今度は黒目が少し上を向いた。何かを思い出しているのか、口元に右手を添えて宙を見ている。そうして「あ」と小さく声を上げてからわたしを見た。


「前に聞いたけど、そのまま」


「そのまま」の後に「放置」という言葉が続くのだとしたら、今頃台所ではとんでもないものが育っているに違いない。「どうか下女が処分していますように」と祈りながら竜妃様を見た。


「まさか、ずっと何も食べていない……なんてことはないですよね?」


 あり得ないと思いつつも、念のためそう尋ねてみた。すると不思議そうな顔をした竜妃が「必要ないから」と答える。


「いやいや、いくら現人神あらひとがみの竜妃様でも、さすがに飲まず食わずは死んでしまいます。ということは、下女や侍女は最近までいたってことですよね?」

「……さぁ」


 また首を傾げる様子を見て一つ理解できた。竜妃様は周囲の人たちに興味も関心もないに違いない。だから侍女の入れ替わりも辞めたこともわからないのだろう。


(ま、わたしとしてはそのほうが都合がいいけど)


 そうでなければ、本来侍女になれるはずのないわたしなんてすぐに追い出されてしまうはずだ。それなら侍女も下女もおらず、周囲に関心がない妃のほうが都合がいい。


(気になることは追い追い確認すればいいか)


 そう決意し、再び胸の前で両手を組んで頭を下げた。


「今日から応竜宮に勤めることになりました阿繰あくりです。一応、竜妃様の侍女になりますので、今日からよろしくお願いします」

「……そう」


 竜妃様の足音が遠ざかっていく。きっとわたしへの興味がなくなったのだろう。「やれやれ」と頭を上げてから大きなため息をついた。


(まずは掃除からだろうなぁ)


 新しい職場と自分の部屋を整えることから始めるかと、椅子に置いた風呂敷包みを両手に抱えた。

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