第3話 応竜宮の様子

(それにしても、応竜宮って無駄に広くない……?)


 あちこち歩き回った感想はこの一言に尽きる。初めて来た応竜宮はとにかく広かった。鳳凰宮も広かったけれど、それよりずっと広い気がする。


(竜妃様って、もしかして竜に変身できたりするのかな)


 そんな馬鹿なことを考えてしまうほどだだっ広い部屋もあれば、大勢の下女がいたと思われる大部屋もあった。侍女たちが生活していたに違いない小綺麗な部屋もいくつもあり、衣装部屋らしきところもそれなりの広さだった。


(ま、衣装部屋には衣装箱一つなかったけど)


 代わりに竜妃様の部屋に衣装箱らしきものがあった。棚に無造作に置かれている装飾品にはギョッとしたけれど、片付ける侍女がいないからそのままになっているのだろう。「ここが一番掃除が大変そうだ」とため息をつくわたしとは違い、竜妃様は乱雑な部屋でボーッとどこかを見ていた。

 そうして最後に向かったのが台所だった。得体の知れないものがないかおそるおそる覗いてみたものの、謎の物体らしきものは一つもない。水場もかまども綺麗なもので、使われた形跡はまったくなかった。それを物語るように鍋や食器にはうっすらと埃が積もり、天井の隅には蜘蛛が巣を張っている。


(どこもかしこも、結構な時間使ってないって感じだよなぁ)


 そう思ってしまうくらいの状態だ。それに宮全体が殺風景で、人が住んでいるとは思えない雰囲気すら漂っている。


(まずは食材を何とかしないと)


 何にしても食べることが一番だ。そう考えたわたしは、各宮に食材を届けている宦官の詰め所に向かうことにした。

 宦官は後宮に出入りできる男性のことだ。アレがないのだから男性と呼んでいいのかわからないけれど、見た目は間違いなく男性で侍女や下女とは違う役割を担っている。

 宦官の半数以上は後宮の警備を担う武官だ。残りは文官で、こちらのほうが宦官の中では人気が高いらしい。地位の高い文官は妃たちへの献上品の検分だけでなく、後宮勤めの宦官や侍女、下女の採用から首切りまで差配している。そういう意味では後宮の実質的な権力者と言ってもいいだろう。


(そんな宦官も、いまじゃ侍女よりずっと数が少なくなったんだっけ)


 昔は侍女よりも宦官のほうが多かったらしいけれど、いまは侍女の半分くらいしかいない。ここまで数が減ったのは、何代か前の皇帝が宦官のほとんどを追放したからだ。

 当時の宦官はとんでもない権力を持っていたらしく、なかにはアレを持ったまま宦官になる者までいたらしい。後宮で使われる金銭の多くを宦官自らが使い、皇帝陛下のまつりごとに口を出す宦官もいたのだそうだ。

 それを嫌った当時の皇帝が「宦官はいらぬ」と言い、十数人を残してほとんどが後宮から追い出された。当時は大騒ぎになったらしいけれど、一年が過ぎる頃には宦官がいなくても後宮は困らないということがわかった。

 それでも宦官が少しずつ復活したのは、後宮で一生を過ごすことになる多くの侍女や下女たちの保養のためだと言われている。


(目の保養、心の保養、ま、ほかにもあるのかもしれないけど)


 そんなわけで後宮には宦官の詰め所が復活し、いまでは数十人の宦官が働いている。鳳凰宮にいたときは面倒くさそうな宦官に会いに行くなんて考えたこともなかったけれど、食材を手に入れるためには行くしかない。


「すみませーん、応竜宮から来たんですけど」


 詰め所の入り口でそう告げると、入り口にいた宦官がギョッとした顔でこちらを見た。


「あの……?」

「いま、応竜宮と言ったか?」

「はい、言いましたけど」

「……まさか応竜宮の侍女か?」

「今日付けで竜妃様の侍女になった阿繰あくりです」


 そう答えたら隣にいた宦官までもが変な顔でこっちを見る。チラッと視線を動かすと、少し離れたところにいる宦官たちも変な顔をしていた。


「あの、食材のことを相談したいんですけど」

「食材って……あぁ、そうか、おまえの分か」

「いえ、竜妃様の分と合わせて二人分です」

「え!?」

「はい?」


 二人分だと伝えた途端に宦官が目を見開いた。「いやいや、竜妃様に食事は必要ないだろう」と言われて「どうしてですか?」と聞き返す。


「竜妃様は竜の化身だろう? それに食事が必要だという話は一度も聞いたことがないぞ。少なくとも俺が勤めるこの二十年でそんな話は聞いたことがない」

「はぁ?」


 思わずそんな声を出してしまった。


(食事が必要ないって、そんなわけないでしょうが)


 いくら竜の化身だ、現人神あらひとがみだと言われていても皇帝陛下の妃だ。それに竜の化身だと言われているだけで本物の竜じゃない。たとえ竜だったとしても飲まず食わずで生きられるはずがない……と思う。


「とにかく二人分の食材を応竜宮の台所まで届けてください。ついでにお茶っ葉やお菓子もお願いします。内容はほかの宮と同じで結構ですので」


 正直、洗濯や掃除ばかりだった下っ端下女のわたしに台所事情なんてわからない。だから「ほかの宮と同じでいい」とつけ加えた。そう言っておけば、少なくとも鳳凰宮の朱妃様が食べるものと同じ食材を届けてくれるはず。あとは届いたものを見て、わたしでも調理できそうなものを選べばいい。


(まぁ、蒸したり煮たりくらいしかできないけど)


 あとは適当に焼くくらいだ。それに魚なら少しだけさばける。味付けなんて気にしたことはないけれど、塩があれば大抵何とかなるはず。まだ驚いた表情をしている宦官に「調味料一式もお願いします」と頭を下げ、さっさと応竜宮に戻ることにした。

 結局この日は台所の掃除をしただけで夕方になってしまった。竜妃様の部屋は明日の朝一から掃除するとして、まずは夕餉をどうにかしなくては。


「思ってた以上に豪華だなぁ」


 思わず感嘆の声を上げてしまうほど立派な食材が台所に届いた。一通り見たけれど、立派すぎて何の料理に使うものかよくわからない。取りあえず鶏の手羽と芋を手にし、用意しておいた蒸し器で蒸すことにした。


(貝も蒸していいのかな)


 ……わからない。わからないけれど貝なら汁物のほうがいいのかもしれない。昔食べたことがあるアサリよりずっと大きい貝でも湯に入れれば出汁は出るだろうし、根菜か葉物野菜でも入れて塩で味を付ければ汁物っぽくなるはずだ。


(こんなものを竜妃様の口に入れていいのかわからないけど、しょうがないよね)


 ここにはわたし以外の下女も侍女もいない。もし口に合わないようなら、どこかの宮で作ったものを分けてもらえないか宦官に相談することにしよう。

 そんなことを考えながら蒸し鶏肉と蒸した芋、それに貝の汁物、炊いた白米を膳に並べて竜妃の部屋に向かった。「竜妃様の部屋って随分奥にあるんだな」なんて思いながら、冷めないうちにと急ぎ足で部屋に向かう。


「竜妃様、夕餉を持ってきました」


 声をかけたけれど返事がない。もしかしていないのだろうかと思い、行儀が悪いと思いつつ右足を使って引き戸を少しだけ開いてから中を覗く。


(なんだ、いるじゃない)


 今度は右手と胸で膳を支え、「失礼します」と言ってから左手で戸を開けた。先に膳をテーブルに置いてから戸を閉め、改めて「夕餉です」と頭を下げる。


「……ゆうげ」

「はい、夕餉です」


 黒目がじっと膳を見ている。やっぱりこういうのじゃ駄目だったかと彩りに欠けた料理を見ていると「必要ないのに」という声が聞こえてきた。


「はい?」

「食事は必要ないのに」


 もしかして「こんなものは食べられない」と言いたいのだろうか。


(それともお菓子でも食べたからお腹は空いてないとか?)


 そう思って見える範囲の棚を見回したものの、それらしいものは見当たらなかった。匂いもしないからこの部屋に菓子類はないに違いない。それならお腹が空いていてもおかしくないはずなのに、どういうことだろうか。


「見た目は、まぁちょっとあれですけど、何も食べないよりはましだと思います」

「……必要ないから」

「明日からはどこかの宮で作ってもらえないか頼んでおきますので、今夜はこれで我慢してください」

「……必要ないのに」


 頑なな竜妃様の言葉には、さすがにカチンときた。「そりゃあ高貴な人の舌には合わないかもしれないけど」と思いながら「食べないと倒れてしまいますよ」と我慢強く声をかける。


「……食べなくても倒れない」

「いやいや、そんな細い体で食事を抜いたりしたら倒れますって」

「……中に宝珠があるから」

「……はい?」

「宝珠があるから、食事はいらない」


 聞いたことのない単語に、わたしはぽかんとした顔で竜妃様を見た。

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