第6話 淫靡な誘惑
「チクっとしますよ。」
とか、昭和の初期には
「注射が怖いのか?」
などと家庭内で子供を強くしようという努力が見られた。
しかし、それらは大きな間違いで医療の患者負担の軽減が図られていない事を現している。
「命が取られないからこの程度は。」
と言うのは医療側の甘えでしかない。
人間が五感でで物事を認知する生き物だと先に研究結果が出てしまっているのだから。
「先生、生体情報モニターが異常値を示しています。」
「いかんな、血流が閉塞している、t-PAの投与。」
頷きと同時に点滴準備を始めた糺はアドレナリンが体の隅々まで強烈な流れを作っていた。
「お疲れ様でした、綿好先生。」
「おっ、お疲れ。あっ、省略語だった、すまん」
「いえ。」
糺はこの瞬間、医師に対して全てを許せるような気持ちになる。
この時が、今の自分にとって、唯一の恋愛時間なのだ。
「休憩に入ってください。私は片付けに戻ります。」
糺の言葉に綿好は右手を後ろ向きで振って去っていく。
「素敵。」
糺はこのあと訪れる綿好への冷めた感情が信じられないでいた。
「皆さーん、北山倭君です。若いイケメンが入ってきましたー。よろしくお願いしまぁーす。」
特別養護老人施設カルロの施設長、
倭はずらりと並んだベテラン女性の前で挨拶をした。
しどろもどろの挨拶だったが、腰の据わった高齢者に温かく迎えられほっと一息ついたところだ。
朝のレクの前に何時もの様に若い介護師に当たりを付けていたが、施設長のスタッフ朝礼の際の言葉で心が折れた。
「北山君、安心してね。ここの職員は全員子持ちだから。」
項垂れまいとおろおろする倭は周囲の女性スタッフに「かわいい。」と子供扱いされた。
そんな二人だが現実とは分からないもので…。
「まさくん、入浴後の利用者さんの髪を乾かして。」
「分かりました。」
倭にそう伝えた介護師、
訳が分からない倭はとにかく急いで髪をドライヤーで乾かしていた。
「まさくん、ちょっとこっちお願い。」
倭はどうしたものかと迷ったが、とりあえず呼ばれた方へ行く。
「男性の利用者さんのトイレ介助お願い。髪の方は私が。」
と
マスク越しにも倭の目が大きく開いたのが分かった。
「もう、かわいいんだから。」
と耳元で囁かれた。
二人は30代で共に同期。
カルロの創設当時からいるベテランだ。
二十歳を迎えたばかりの倭は骨抜きになりそうな自分を叱咤激励して、仕事に取り組むタイプではない。
とことんそこにのめり込んでしまう。
初めて人妻との淫靡な世界に入り込んでしまった。
仕事のやりがいそして達成感や悲しみ、一日の時間が足りないような生活を続ける糺。
しかし、人間とは欲を言えば切りが無いもので。
「まさくん、どうしてるかな?」
ふと救急患者の事を忘れ、集中力が途切れた瞬間、点滴静注の針刺しでまたやってしまった。
「綿好先生!先ほどの心肺停止の患者さんに針刺し事故です!処置お願いします!」
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