第5話 遣り甲斐のある現場

そんな二人の関係を露とも知らず、糺は倭との針刺し訓練を喜び勇んで続けていた。


「筋肉注射が中々うまくいかないな。奥まで刺す時、血管が見えてくれると助かるんだけど。」


静脈注射は浮いた血管が目に見える形で現れるが筋肉注射は見えない血管を避けて刺


さなくてはならない。


どこでも刺すわけではないのだ。


その日、集中して訓練を終えた糺。


それに対して倭は気の入らない時間を過ごし疲れたと言い訳をしながら、杏美の待つ


部屋へといそいそと向かうのであった。






「どうして糺さんと分かれないの?」


杏美は倭に自分のものになるよう問い詰めた。


倭にとっては一番触れられたくない事だった。


倭の心には既に何も残っていない。


特定の誰かを愛し続ける事等、もうどうでもいいのだ。


ただ、今の一瞬が自分の気持ちに素直であればそれでよかった。


杏美でも糺でも誰でもいい。


自分のアイデンティティーが満たされるものならば・・・


「どうだろう」


倭は杏美への返事を心の呟きに変えた。


「私じゃ駄目だから?」


しつこく問う杏美を強引に抱き寄せ自分の性を彼女に放つ倭だった。


そして杏美はその全てを受け入れた。


その日以来、倭は杏美に心を奪われていった。


何故ならば糺はまだ倭とのセックスで性を受け入れていないのだ。


糺にとって子供という存在は結婚後だと決めていた。


煮え切らない倭を見ていると踏ん切りがつかないでいるのだ。


それとは対照的に倭と杏美は遮る物の無いセックスを重ねていった。


男と女が愛し合えば当然肉体的にもが恋愛セオリーだ。


そこに遮る物が必要と考える糺に対して、自然にあるがままにと考える倭。


どちらにも正しいとか間違いとかはない。


人間の営みを考えれば遮ろうとするものこそ邪道ではないだろうか?


セックスが只、子供を作るだけのものになっては余りにも味気なく虚しい。


子供を想像しながらやる二人の自慰と変わりがないではないか。


糺は倭が杏美とそういう関係になっている事にも気付かないまま、針刺し訓練を終え


又、院内業務にいそしんだ。


そんな時、糺にも禁断と言える恋が芽生える。


隠花病院にインターンとして働く事になった和多蕗わたぶき |純爾《じゅん


や》、22歳。


日本でトップとも言える難関の東征とうせい医科大卒のエリート医師である。


父親は大手製薬会社を経営し医療関係者のあいだではでは有名人だった。


曾祖父の代から東征医大をトップの学力で卒業している。


その曾祖父はやっぱり医者だった。


そんな良いとこのボンボンが糺に一目ぼれをした事で隠花病院の看護師コミュケは大


混乱。


倭と糺、そして和多蕗の三つ巴の争いをチームワークで折り合いをつけなくてはなら


ない。


看護師会議が昼食後の井戸端会議でも催された。


「どうしたらいいの?あっちをクリアーしてもこっちがって、私がやってるゲームよりも難しいよ。」


困った表情の看護師達のすぐ横では和多蕗医師が執拗に糺を口説いている。


それを横目で見ながら看護師長は。


「いい、この難局を乗り切るには類稀とも言える看護師のチームワークしかないのよ。」


と苦悩している看護師達に発破をかける。


「はい。」


決断力は違う意味でのナースソウルに火を付けた。


倭と糺が二人の時には和多蕗を誰かが二人から遠ざけ、和多蕗が糺を口説くときには


また誰かが倭を二人から離す。


三人にしないように最低でも二人にするよう心がけた。


「和多蕗先生と倭君が二人の時はどうしたらいいの?男同士だからそういうのは無いでしょう。あぁん、でもわかんないかも。」


看護師達も面白がっているところもあった。



糺はそれなりに悩んでいた。


煮え切らない倭に物足りなさを感じているのた。


「食事ぐらいなら良いかな?」


和多蕗の誘いを幾度となく受け入れた。


しかし、それは倭を裏切る行為に発展させるものとなってしまう。


食事を重ねているうちに和多蕗の人間性に糺は包み込まれてしまい、とうとう一線を


超えてしまった。


それでも固い意志で遮る物はしっかりあった。



愛すると言う事は無限の世界に入る事だと思った。


相手云々では無く、私の愛が果てしも無く続く。


それが愛するという事だと思った。



糺は改めて倭との関係、和多蕗との関係を自分の中で整理する事にした。





和多蕗わたぶき 純爾じゅんやの話は理屈っぽいが面白みを感じる。


ある時彼は


「愛っていう言葉に対して僕は持論を持ってる。そのままでは抽象的だろう?だって家族への愛、ペット愛、子供への母の愛。でも僕の糺に対する愛は家族でもペットでももちろんまだ見ぬ子供への愛とも違うよ。女性に対するラブであり女編に愛と書くあいだよ。」


と言っていた。


「女偏の愛。じゃぁ、女性の男性に対する愛は男編の愛?そんな字あったっけ?・・・」


「それは僕には分からない。だって僕は女性にしか愛を感じないから。」


糺は倭には無い和多蕗の知的なトークに心揺さぶられ続けた。


針刺し研修から事故が少なくなった糺は徐々に自信を取り戻し、針刺し業務をこなせ


るようになった。


糺は生活習慣からミスを犯さないよう努めた。



研究結果によると普段ミスをしやすい人ほどついうっかりと言うアクションスリップ


を起こしやすい事が分かっていると研修時に教わった。


常に自分の把握に努めた結果だった。


しかし、実力が上がり重要な医療行為などがこなせるようになると恋愛から心が遠ざ


かっていった。


和多蕗とは医師と看護師の立場でからみが多くしょっちゅう顔を合わせる為、立場上


の関係にしか思えなくなっていった。


倭ともシフトの関係もあって何日も顔を合わせる事のない日が続いている。


ある日、看護師長から呼び出され、緊急医療チームへの転属を言い渡された。


大出世である。


その頃には糺の気持ちに迷いはなく即答で了解した。


詰まり倭と逢う機会はほぼ0となったのだ。




糺をよそに倭は杏美との同棲に陰りが見え始め、杏美が倭の子供を身ごもると別れ話


を倭が切り出した。


「子供いらないから。」


杏美に対しての言葉は冷たく凍りついた矢の様だった。


倭がそう言いきれたのも「自分には糺がいる」という驕りがあったからだ。




「・・・・・・いつかあなた刺されるわよ。」


杏美の倭に対する最後の言葉は後悔の念に包まれていた。








何故か糺の気持ちは弾んでいた。


悩んだり苦しんだりする事に意味があると思えたからだ。


目の前の患者がどういうサポートをしていけば病の闇から生ある光の中に戻る事が出


来るのか?


そして救急センターへの配属が日常には無い緊張という刺激を生み、命を守ると言う


遣り甲斐を彼女に植え付けてしまった。


人を性的対象に考え無くなっていった。


「南さん、桜町から5分後に救急車が1台入ります。硬膜下出血の可能性です。綿好わたずき先生に連絡をお願いします。」


「分かりました。」


隠花共立病院の救急病棟は、コミュニケーション術を全面的に適用する。


言葉尻に気を付け省略語は禁止である。


常に正確かつ的確な言葉を使うように教育されている。


文学を愛する院長ならではの方針だ。


それに反して、手術に関しては言葉を使わず、互いのアイコンタクトと頷きで医療行


為は成されるのだ。


それは互いのコミュニケーションが正確に取れているからこそ成立している。


「綿好先生患者です、硬膜下出血の可能性ありとの事です。」


「分かった、輸血の用意とサポートには君も入ってくれ。」


「はい。」


糺は輝いた目を前を走る綿好医師の白衣の背中に向け、後を追いかけた。








「北山君、君は又、医療用手袋の着用をせず注射器の廃棄を行い針刺し事故を起こしたね。」


院内管理者福多部は度重なる倭のミス事例にある罰を加える事にしていた。


「君に異動辞令が来ている。」


倭は生唾を飲み込んだ。

福多部はあざ笑うかのようにこう言い放った。


「北山倭、特別養護施設カルロへの転属を命ずる。」


「と、とくよう?」


倭の眼がしらが真っ赤に染まったのを見て福多部の怒りはその夕日と共に冷めていっ


た。


「こんなふざけた男でも悔しさはあったのか。」


と心で呟いた。


項垂れている倭に福多部はこう言って下がる様に命じた。



「若い子の気持ちを知るにはまずベテランの話を聞きなさい・・・」





針刺しに関して、患者の身体的負担、医療従事者の精神的負担、それともう一つ器具


に対する双方の負担がある。


針=危ない物。


この条件反射の様にのけぞる先端の恐怖は安心して医療を受ける又は行為をする事に


反比例するものだ。


勿論、メス等も刃によって切られる切るというとどうしても安心医療とは言えない部


分がある。

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