第4話 杏美

隠花共立病院に衝撃が走った。

針刺しの名手と言われる才木看護師がヘッドハンティングで隣町の病院へと旅立った。

一番頭を抱えたのは院内感染管理者の福多部だ。


「良い人材をせっかく育てても結局裏切られる。病院の理念が恨めしい。あいつらがヘッドハンティングされれば良かったんだ。問題ペアめ。」


テーブルに落胆の握り拳をぶつける。


 才木を失った隠花共立病院は針刺しに対するクレームが頻繁に入る様になった。

普段当たり前にこなしていたベテラン看護師にもミスが目立つようになったのだ。

看護師長が朝の訓示で針刺しについて触れれば触れるほどプレッシャーが拡散しSNSでも全国一の下手な針刺し病院と悪いうわさが広まった。


「あなたね、この病院の評判を下げた張本人は。」


静脈注射を担当している美坂 遊里は高齢の女性患者にそう言われ思わず


「あー、それは私じゃなく南さんよ。内緒だけど。」


と言ってしまった。

それ以来患者に総スカンを食らったのは彼女自身、美坂遊里本人だった。

同僚を売る女と。

外来、入院両方の患者に完全なる無視をされ看護服にはチューインガムや中には精液を付ける者もいた。

性根の座った彼女だったがストレスに負けうつ病を発症し病院を去った。

彼女が糺の事を漏らした老婆は告げ口好きの昭和で言う意地悪ばあさんだったのだ。

遊里と倭の関係も自然消滅し糺は倭を取り戻した?のだった。




「まさくん、今日シフト一緒ね。明日遅番だから昼間まったりしようか?」


「明日、シフト代わった。」


「またあ?もう。まさくんは人が良すぎなのぉ。」


倭はまだ懲りずに今度は医療事務の女性とのデートをゲットしていた。






「まさ、今度さあ、私の実家に来てよ」


「んん。」


倭の今度の相手は香美城 かみしろ杏美あみ

隠花共立病院の受付兼医療事務を担当している。

毎日が現実しかなく1円のミスも許されないストレスしかない仕事。

患者を扱うと言うよりもお金と順番という個人の満足の為に働いている気がして悶々とした不満を抱えていた。

そんな時、脳天気な倭に誘われクラブに行きはち切れそうな気分の爽快感を味わう事が出来た。

それ以来、杏美は倭に夢中になった。

解放感は彼女を劇的に変えた。

院内での性交。

倭は彼女の淫乱さに身も心もとろけてしまい病室で、手術室、レントゲン室、しまいには受付での性交渉に明け暮れた。

遂に倭と杏美の二人は同棲という糺を無視した行動をとった。

悲しい事に糺は全く気付かずシフトがなかなか合わない事に寂しさを抱えていた。






「今日こそ一緒に過ごせると思ってたのに用事があるって何の用なんだろう。私より大事な用があるって言うの!」






倭は杏美のアパートで2人の夕食を慣れない包丁さばきで作っていた。


「ええ、まさって料理やるんだ。」


「ああ。」


倭はどや顔で自己満足の料理を杏美に食べるよう勧める。

しかし、二人共一口食べて食事を辞める事にした。


「不味い・・・。」


心の中は同じ気持ちだった。

結局ピザのデリバリーが夕食となった。


「まさ、今度旅行行きたいね。」


倭は返事をせず杏美の唇を求めた。

杏美はそのまま彼に身を任せた。


倭と杏美は本当に旅行に来ていた。

といっても医療の職場でましてや準看の倭が長期休暇など取れようはずもない。

東京から千葉までディズニーに来ただけだ。

それでも深夜のラブホまでたっぷり二人は楽しんだ。


「ねえ、まさ、糺さんの事はどうするの?」


ラブホテルのベッドの上で裸のまま杏美は尋ねた。

倭は一物を掛け布団に仕舞い返事をしない。

付き合う女に違う女の事を聞かれるのは自尊心を崩されそうでいやだからだ。


「やっぱり糺さんと私の二股でずっといるつもりなんだ。」


杏美は倭から視線をそらし「私はいいのよ。」と彼の乳首にキスした。

その言葉に安心したのか倭と杏美はこの日最後の欲情を使い果たした。







「まさくん、昨日のお休み何してたの?」


倭と糺の仲は病院内で公認されている。

病院の食堂で向かい合わせに会話中の二人を周囲は上手くいっていると思っていた。








隠花共立病院の針無し注射導入はいったん見送られる事になった。

コスト高、注射器本体圧力の不鮮明さが表向きの理由だ。

本当の理由はこの病院の理念にある。

注射器一つ満足に打てない看護師を甘やかすのか!である。

技術の継承、育てる理由はそれにある。

どんな技術も努力次第。

人に優劣など無いとするのがこの病院の考え方だ。


「南さん、ちょっと来て。」


看護師長の呼び出しに糺は自分の落ち度を反芻しながら看護師長室に入った。


「ごめんね、業務中に。」


「いえ。」


糺の脳内は自分の行動が走馬灯の如く繰り返されミスした個所を自身で諫めていた。


「実はねあなたの針刺し技術の事なの。」


看護師長の言葉は糺が自身で責めた個所に引導を渡した。


「私、首になるんですか?」


と言った糺の切羽詰まった表情に投げかけられた言葉は意外なものだった。


「ふふ、あなたを首に出来る権限なんてこの病院では一人も持たないのよ。この病院の理念を忘れたわけではないでしょう?」


糺は、潤んだ瞳を瞬きで消し去り


「人には上下は無い、です。」


「そう、私にも院長先生にもあなた達より立場があるなんて思った事はありません。皆で一緒にこの病院を守り患者さまに元気になって頂きたい、ただそれだけですよ。それに、今時、首っていう言葉はノーマライゼーションの世界にはありえません。」


「はい、すみません。」


糺は自分の安心には気付かず、自己満足なものの言いようしかできない自分に腹が立った。


「それはそれとして、実はね、あなたの針刺し技術の向上の為に特訓をやろうと思うの。」


糺はありがたいとは思ったが、又サービス残業が増えて倭と一緒にいる時間が無くなるなと残念な気持ちで了承する返事を返した。

すると看護師長が意外な言葉を吐きだした。


「あなたのその暗い表情は北山君の事よね?」


又、糺は痛い所を突かれ一瞬白い気持ちになった。

看護師長は続ける。


「安心していいのよ。特訓はサービス残業になってしまうけど、倭君にもこれは受けてもらう事になってるから。」


糺の表情は恥ずかしげも無く口角を吊り上げるほど幸せな笑顔だった。





その反対に、倭は看護師長からの通告にショックを隠しきれない。

自分は針刺しには自信があるのにどうしてと。





特訓は業務終了後の18時より行われた。


「なんでおれもなのかな?」


倭は納得がいかないと糺に看護師長の真意を尋ねる。

糺は「どうしてなのかな?」と二人の関係に配慮してという言葉を飲み込んでとぼけてみせる。

更に糺は倭に「私といるんだからいいでしょ!」と束縛パンチを浴びせる始末。

倭はグロッキーになりながらも嬉しさを表現しなければならず毎回へとへとで帰宅した。

それでも深夜行動は倭の栄養剤となり杏美との関係の方が糺よりも上手くいっていた。



隠花共立病院ではこのところの感染症バブルにより好景気が続いている。

人手不足だと言われている医療の世界ではあるが企業とは違い国からの高額な補助で金には困らない。

ある意味、医療界にあって経営破たんなどしようものなら能力不足を問われるのだ。

医者は金持ちという決まり文句にある様に絶対的な宿命だ。

糺や倭も感染症バブルがもたらした恩恵を十二分に受け取っていた。

当然、お金があれば女性との関係も良好になるわけで・・・

倭も杏美との関係を糺にばれずに上手く続けられていた。






「まさ、二人の部屋が欲しいね。」


杏美は糺の事はマヒでもしている様に眼中にはない。

夢中さは周囲の存在という認識さえも消し去ってしまう。


「二人の愛の巣、借りちゃおうか?」


平気で言う倭の言葉に、杏美は餌を貰う犬がしっぽをくるくるさせるように、はしゃぎ喜んだ。

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