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 会社のガラス扉を両手で勢いよく開けたあずさは思った。


 あれ、このドア、こんなに軽かったっけ?


 何事かと振り向いた同僚たちは目を丸くした。何をそんなに見ているんだと思ったら、みんながみんな、あずさを凝視していた。


 ああ。髪切ったから、びっくりしたのかな。


 それとも、私服で来たからだろうか。




 あの山を降りて一週間ほど経っていた。


 病院でしかるべき処置も受けた。その傷口の異様さに、医者は根掘り葉掘り、状況を聞いてきた。が、程なくしてなぜか突然に担当医が交代した。その仏頂面の医者は何一つ詳しい話をあずさに求めることなく淡々と処置を行った。きっと脚本家が手を回したのだろう。


 今は肩にも左手にも包帯がぐるぐる巻かれているものの、左手を使わなければ特に日常生活に支障はない。




 あずさは今、洗濯したあの日のTシャツとジーンズに適当な上着を羽織っていた。


 そして、右肩には、古びた皮のリュックを背負っていた。


 あずさ自身にはわからなかったことだが、同僚たちはあずさの髪型や服装に驚いたわけでは無かった。あずさのその立ち居振る舞い自体に恐れを感じていた。殺人鬼6人を一日にして殲滅した神城あずさは、知らず知らずのうちにただならぬ雰囲気を滲ませていた。その覇気は、現代の会社員たちの退化した本能すらも十分に震え上がらせた。


 あずさは立ち尽くす社員を見回しながら、成田課長の姿を探した。


 いた。いつものデスクに座って、いつもの長電話をしているようだ。あずさの事にはまだ気がついていないらしい。楽しげに電話に向かって笑っている。


「そうそう。先週行った釣り場がね。それはもう穴場でねえ」


 あずさはスタスタと課長のデスクに歩み寄ると、通話中の固定電話のフックスイッチを押し、強制的に会話を終了させた。


「私的な通話を社用電話でするのは、よくありませんよ。課長」


 課長は突然切られた電話に驚き、受話器を耳に当てたままあずさを見上げた。怪訝な表情を浮かべる。


「・・・・・・どちらさま?」


 寝ぼけているのか?


「神城です。長らくお休みして、ご迷惑をおかけしました」


 課長はしばらく呆気にとられたようにあずさの顔を見つめていたが、目の前の女が、自分が知っている新入社員とようやく結びついたのだろう。受話器を固定電話に叩き付けて、勢いよく立ち上がった。


「ご、ご迷惑じゃないよ! どういうことだよ! こんだけ無断欠勤続けて、どの面下げてきたんだ! そもそもなんだその格好は! 会社舐めてんのか!」


 唾が飛んできそうで、あずさは眉をしかめた。


「この面です。あと、うるさいんで、大声出さないでくださいますか」


 成田課長の表情がぴしりと固まる。何を言われたのかわからなかったようだ。いや、聞き取れてはいたのだろうが、理解できなかったに違いない。


 あずさは、そんな課長のデスクに、ぽんと、投げるように封筒を置いた。


「辞表です。やめます」


 課長は思考が停止したようで、半ば無意識であるかのように、その退職願いと書かれた白い封筒を持ち上げた。それを見つめた課長の額に青筋が浮かぶ。


「ふざけんな! 非常識にもほどがあるだろ! こういうもんはな、数ヶ月前にあらかじめ相談しておくもんだ! そんな社会人としての最低限の常識も・・・・・・」


 あずさは、遮るように言った。思いの外声が低くなり、静まりかえったオフィスに重く響いた。


「会議当日の朝に資料丸投げするような奴が、常識を語ってんじゃねえよハゲ」


 課長はすっと封筒を持った手を下ろした。


 今の言葉があずさの口から発せられたとは思えなかったのだろう。他に人がいないか探すかのようにキョロキョロと辺りを見回したあと、またあずさに視線を戻す。


 あずさは課長の顔をまっすぐ見ながら思った。この人、こんな顔だったったけな。


「い、いや。でもだね・・・・・・」


 すっかり毒気を抜かれた課長の情けない声を、またしてもあずさは遮った。


「その辞表を受理してくれないのであれば、スマホに残っている課長の留守電メッセージをしかるべき場所に提出します。それでいいですか」


 課長は「え? あ、え? いや」としばらくもごもご言ったあと、すとんと自分の椅子に座り込んだ。


 あずさは課長を見下ろした。自分より弱いものの前でしか虚勢を張れない、小さな中年がうなだれていた。


 そのデスクのペン立てから、あずさは自分のはさみを抜き取った。


「これ、返してもらいますね」


 あずさは課長に背を向け、改めて同僚たちを見回した。


 彼らは騒動に驚いたのだろう。デスクの周りに集まって来ていたが、あずさに一瞥されるとびくりと肩をすくめた。


 あずさはすっと周りを見回した。このオフィス、こんな安っぽい壁紙だったっけ。


 あずさは怯えた目であずさを見つめる同僚たちを見た。


 こいつら、こんなに小さかったっけ。


 知らなかった。ずっとオフィスではうつむいて過ごしていたから。


 あずさはその同僚たちの中に四宮の姿を見つけた。


「あ、四宮先輩」


 あずさはすたすたと四宮に近づく。


「な、なんだよ」


 四宮は後ずさり、側の机に腰を打ち付けた。そのまま机の縁に背を押しつけ、顔を引く。


 その顔の目の前まであずさは自分の顔を近づけた。四宮は眼鏡の奥の顔を強ばらせた。


 こんな顔だったか。私、この人の顔すらもろくに見れてなかったんだ。


「この前は、手切れ金の三万円、ありがとうございました」


 その言葉に、「手切れ金?」と周りがざわめく。


 そりゃ、新婚だもんね。


 四宮は狼狽した表情になり、そして、焦ったのか、半笑いの表情を浮かべた。


「は? はあ? お前なにいってんの? 頭おかしいんじゃ」


 あずさは四宮が言い終わらないうちに、右手を肩越しにリュックの隙間に突っ込んだ。中を探り、適当に紙幣の束を鷲づかみにする。数十万ぐらいだろうか。


 そしてそのまま引き抜いた手で、四宮の顔面を思いっきり殴りつけた。


 四宮の眼鏡が宙を舞い、上質なスーツに包まれた四宮の細身もまた、縦に一回転する。デスクの上のパソコンやファイルや本立てを盛大に巻き込みながら、派手な音ともにデスクの向こう側に姿を消した。


「私からの手切れ金と結婚祝いです。ご結婚おめでとうございます」


 あずさの拳から離れた一万円札が、紙吹雪のようにオフィスに舞い上がった。




 オフィスが沈黙する。同僚たちは全員が声を失ったかのように固まっていた。


 あずさが振り返った先に、朱美の姿があった。


 彼女は事態が飲み込めないようで、「え? なに? 手切れ金? え?」と半泣きで周りを見回していた。近くの同僚たちに説明してくれと言わんばかりの目線を必死に送っているが、誰も目をあわせようとしなかった。


 そんな朱美にあずさは言った。


「朱美先輩。すみませんが、私のデスクの私物、全て捨てといてもらえませんか。ああ。富士の水も先輩にお返しします。もともと先輩の担当の品ですしね」


 そして思いついたようにさっき取り返したはさみを朱美の足下に放る。


「これ、上げます。領収書を切り取るのに使ってください。もう私は代わってあげられないので」


 愕然として口を開ける彼女に、あずさは言い放った。


「どうぞ。お幸せに」




 あずさは出口に足を向けた。そこで気がつく。集まった社員たちが邪魔で通りにくい。


「すみません。通してもらえますか」


 しかし、あまりの出来事に圧倒されたのか、同僚たちは呆然と立ち尽くし、動こうとしない。


 あずさは小さくため息をつく。


 そして怒鳴った。


「道を開けろっつってんだろうが!」


 弾かれたように社員は左右に動いた。まるでモーセの海割りのごとく、社員たちは両脇に別れて道をつくった。その先に出口のガラス戸が見える。


 たいした花道だな。そう思った。


 あずさはゆっくりとその花道を通り、出口に向かった。震える課長にも、うめき声を上げて転がっている四宮にも、泣き出してしまった朱美にも、必死に下を向く同僚たちにも、だれにも一瞥も向けずに。


 あずさは扉を開け放った。


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