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 翁は、あずさの目を静かに見つめた。表情は無くなっていた。


「そうか」


 老人はおもむろに立ち上がった。


「では、見せてみろ。牝鹿よ」


 次の瞬間、翁の肩の上で、水平二連式散弾銃がくるりと回転した。銃口がこちらを向いた瞬間に火を噴く。コンマ一秒のタイミングで、あずさは切り株の後ろに倒れ込む形で被弾を回避し、同時にウィンチェスターを発砲した。老人の姿が視界から消える。


 すぐさま身体を回転させて身を起す。そのあずさが身を置いていた地面の土が間を置かず轟音とともに弾け飛んだ。


 バシャリ! 


 焚き火が消える。翁がバケツの水をかけたのだ。


 あずさは素早くレバーを稼働させて排莢すると、次弾を撃ち込んだ。月明かりに浮かんだ老人の陰が素早く動いてそれを回避する。速い。老人とは思えない速度でその背中が遠のく。


 逃げるのか?


 そんなわけあるか!


 あずさは直感で走り出した。その勘は正しかった。翁が振り向きざまに発砲した。いつの間にか装填されていた弾があずさのいた空間に撃ち込まれる。


 あずさも翁もそのまま走り続けた。あずさは翁と水平に、五メートルほどの距離で併走するように走った。あずさが発砲する。当たらない。あずさは地面に滑り込むようにして身をかがめた。頭上を翁の弾丸が通過し、背後の狛犬の像を破壊した。


 その狛犬の台座の陰にあずさは滑り込んだ。その瞬間、台座の角が消し飛ぶ。くそ。スラッグ弾だ。


 あずさは台座に背をピタリとつけ、ウィンチェスターの右側面の開口部に30インチライフル弾を押し込む。


 相手の装弾数は二発しか無いはず。だが、弾を入れ替えるスピードが速すぎる。


 レベルが違う。強者を求めて人間狩りに人生を捧げた男。


 チートかよ。


 微かな足音をあずさの耳が拾った。回り込んできた?


 あずさはまたしても直感を信じる形で台座の陰を飛び出した。刹那、台座が吹き飛ばれ、石が飛び散る。あずさは叫び声を上げて後方に弾を連射した。レバーをガチャガチャと操作し、狙いなどはなからつけず、弾幕を広げる。その時、さっと木の陰に身を隠す翁のポンチョの裾が見えた。


 そこか。


 あずさはウィンチェスターを構えた。見失ったら終わりだ。ここで、確実に仕留める。


 その時だった。


 どす黒い雲が、月を覆い隠した。


 唯一の光源であった、月明かりが突然に失われる。


 境内は、漆黒に包まれた。


 まずい。何も見えない。


 あずさはとっさに忍び足で数メートルほど移動した。同じ場所にいれば翁に弾を撃ち込まれると考えたのだ。しかし、翁は発砲してこなかった。本能的に悟る。


 翁も移動した。


 あずさは墨のようにまっ黒な闇の中、銃を握り締めて辺りを必死に見回した。


 どこだ。どこにいる。








 翁は完全な暗闇の中、ほくそ笑んでいた。


 狩人同士の戦いであるという翁の興奮は共有できず、それは残念だったが、翁はそれはそれで構わないと考えを改めた。自分を獲物側だと言うのなら、別に否定はしまい。こちらもこちらでいつも通り狩りをするだけだ。


 それに、あずさという女の動きは翁を満足たり得るものだった。ここまで何度も翁に引き金を引かせて、それでもなお生きている獲物など、ついぞ見ていなかった。


 すばらしい。すばらしいぞ神城あずさ。


 翁は空を見上げた。辛うじて見える雲の動きを予想する。


 この暗闇が続くのはせいぜいあと数十秒といったところか。


 その間、お互いに何も見えない。相手のいる場所は勿論わからない。翁にも、あずさがいる場所は大まかにしかわかっていなかった。あずさからしたら尚更、翁のいる場所など見当も付かないであろう。


 音を出せば、もちろんのこと、相手に場所が割れる。だが、あずさはそんなミスはしないだろう。翁も同様だ。


 しかし、唯一、相手の場所が確実に、しかも正確にわかる好機がある。


 発砲の瞬間だ。


 言わずもがな、銃声と、暗闇を照らす銃口の火花。閃光。それは否応なく銃の持ち主を照らし出す。


つまり、どちらかがしびれを切らして引き金を引いた瞬間、勝負は決するのだ。


 これは、一策練らせてもらおうかのう。


 翁は一切の音を立てずに移動する術を身につけていた。木々を手で撫でながら、翁は滑るように移動する。翁はこの境内の地形を完全に把握していた。狩り場の掌握は基本である。


 目当ての木を手探りで探し当てた翁は、その根元に隠していたものを音を立てないように引き寄せた。


 クロスボウ。


 ヨシツネが愛用し、死後、あずさが山小屋のトラップに使用したあのクロスボウである。矢もすでにつがえてある。


 普段であれば、翁は武器を変えるなど姑息な真似はしない。だが、それはあくまでその必要がないからしなかっただけである。だが、あずさという女に対しては別だった。翁は彼女を強者と判断した。そうなれば一切の手加減をしない。使える手段は全て駆使して確実に狩る。それが翁の狩人としての矜恃であった。


 翁は猟銃を左手に持ち、右手にクロスボウを構えた。


 翁の水平二連式散弾銃は引き金を軽くするため、撃鉄が降りやすいように細工がしてある。だが、その代償として、大きな衝撃を加えると、勝手にロックが外れ、撃鉄が降りて暴発してしまう。危険極まりなく、通常の神経を持っていればすぐに修理しようと慌てふためくような代物だった。だが、その仕様を翁は深く気に入っていた。


 例えば、ほら。こうやって使えるしの。


 翁は銃をぶんっと宙に放った。


 猟銃は数秒後、翁とは何メートルも離れた地面に落下し、衝撃で暴発するだろう。


 女は当然、その場所に向けて発砲する。


 その銃火に向けて、翁は音もなくクロスボウを撃てばいいのだ。


 翁は暗闇の中、ニタリと笑ってクロスボウを構えた。


 さあ、どこにおるんじゃ。教えておくれ。


 宙を舞っていた翁の投げた銃が、地面にぶつかり、瞬間、ひとりでに轟音を上げた。


 そして、ほぼ同時に。弾かれたように。女が銃を発砲した。銃口が閃光を上げ、その身を自ら照らし出した。








 あずさは目を閉じていた。


 一秒。二秒。三秒。


 目に光を貯める。


 七秒。八秒。九秒。


 あずさは目を開けた。


 十秒。


 境内の景色が、うっすらと浮かび上がっていた。


 完全な闇など存在しないのだから。


 そしてあずさの目に映ったのは、宙に投げられた猟銃だった。


 その先に、クロスボウを構える翁の姿を、あずさは捉えた。


 数メートル先で地面に落ちた猟銃が轟音を上げる。あずさは見向きもしなかった。


 銃をまっすぐ翁に向けて、あずさは引き金を引いた。








 女の放った銃弾が翁の腹を貫いた。


 その瞬間の翁の脳裏をよぎった思いは、驚きでも、畏れでも、怒りでも無かった。


 いつぶりじゃろうな。この身に弾を食らうなど。


 そんな感慨だった。


 と、同時に、翁は思った。


 撃つなら、心臓を撃ち抜かんかい。


 翁は後ろに倒れかけた身体をがっと後ろ足で支え、銃火が上がった方向に向けて、クロスボウの引き金を引いた。発射された矢が音もなく暗闇に吸い込まれる。


 ドスリと鈍い音が響いた。


 ふむ。刺さったな。


 翁がそう確信した直後だった。


 月が顔を出した。


 女の姿が月明かりに青白く照し出される。


 女はとっさに胸をかばったのであろう。左の上腕に矢が突き刺さっていた。だらんと、脇に左手がたれている。


 翁は走った。クロスボウを投げ捨て。自らのトップスピードで女に突進した。内臓が損傷しているのだろう。喉元に血がせり上ってきていたが、全く意に関せず、腰から軍刀を引き抜く。


 女は翁を睨み付けた。だが、銃は撃てまい。そう翁は判断した。女の銃はレバーアクション。片手では次の弾を装弾出来まい。


勝負、あったな。


 だが、神城あずさはそれをやった。


 右手に持った銃を前方に振り出し、反動を利用して銃全体をくるりと一回転させた。その際、レバーに右手をかけておくことで、回転の勢いでガチャリとレバーが開かれ、一発目の薬莢が飛び出し、次弾が装弾される。


 スピンコックか。


 回転する銃。その美しい動きに、一瞬、ほんの一瞬、翁の目は奪われた。


 その一瞬で、十分だった。


 あずさは回転を終えた銃を即座に発砲した。30インチのライフル弾が突き出していた翁の右手の拳を軍刀ごと粉砕した。飛び散った翁の指とともに、折れた軍刀の刃が宙を舞う。


 その刃を、翁は上空で、左手で逆手につかみ取り、そのままあずさの左胸に突き立てた。血しぶきとともに、刃がマントの上からあずさの胸に突き刺さりブスリと音を立てる。


 穫ったああああ!


 翁は勝利を確信した。そしてそのせいで失念した。


 あずさが「最後まで戦い続ける」と言っていたことを。


 ドスッと鈍い音とともに翁の首の左側に衝撃が走った。


 この女、刺しおった。


 ナイフだろうか。女が右手に逆手に持った何かが翁の首に突き刺さっている。それが頸動脈を切断している事を翁は悟った。このまま女が引き抜けば、大出血。瞬く間に死に至る。


 道連れにする気か。


 だが、翁は即座にあずさの胸に突き刺した刃から手を離し、がしっとその突き刺さったものを掴んだ。抜かせるものか。


 そこで翁は気がついた。突き刺さっているのはナイフではない。丸い棒状。矢よりも太い。これは・・・・・・


 ボールペン?


 カシャン。


 聞き慣れぬ音とともに、あずさの右手が翁を離れた。


 その右手には、ワンタッチで外された、ボールペンの芯が握られていた。


「なに・・・・・・」


 次の瞬間、翁の首から血が噴き出した。翁が必死に握りしめたボールペンは芯が抜かれて空洞になり、その先から、まるでストローのように翁の血液を吐き出していく。


 翁は何が起こったのかわからず、しばらく呆然とまき散らされる自らの血を見た。そしてボールペンを引き抜き、膝を着く。


 やられた。


 翁は完全に生気を失った土気色の顔で、あずさを見上げた。


「あ、相打ちじゃな・・・・・・」


 だが、あずさは冷ややかに言い放った。


「いいえ。違うわ」


 あずさはマントのボタンを外した。その胸には、軍刀の刃が突き刺さっていた、わけでは無かった。


 胸の上に固定され、マントでかくされていた、漫画雑誌の上に突き刺さっていた。


「クロダから聞いていたの。あなたは確実に心臓を狙うって」


 翁の膝元に、ばさりと刃が突き刺さった漫画雑誌が落ちた。飛び散った血は、全て、翁の左の掌が刃で切れた際のものだった。


「信用してたのよ。あなたの腕を。だから、心臓を守った」


 翁はしばらく呆然と漫画雑誌を眺め、それからふっと笑うと、そのままバタリと後ろに倒れた。左手で首を押さえてはいるが、手遅れだろう。地面に血だまりが広がっていく。


「・・・・・・楽しかったのう」


 翁はごぽりと血のあふれる音を交えながら呟いた。


「お、お主も・・・・・・たのしかった、じゃろう・・・・・・?」


 あずさは悲しみを湛えた目で、老人を見下ろした。


「・・・・・・いいえ。ちっとも。楽しくなんか、ないわ」


 老人は「かはっ」と笑うと目を閉じた。


「つれないのお」




 翁が、死んだ。




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