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 月明かりが、長い石の階段を青白く照らしていた。


 あずさはその一段一段を踏みしめるように登っていた。ふと、上を見上げる。


 雪は止んでいた。どす黒い雲のわずかな隙間から月が顔を出している。あずさはそのまま進行方向に目をやる。長い石階段の終わりが見えた。古びた鳥居が立っている。


 山登りも、これで終わりか。


 霊山。蛇神山。あずさが目指すその山頂には廃墟と化した神社があるらしい。もう誰も詣でることのない、廃神社。


 その境内に、翁が待っている。


 あずさは右手のウィンチェスターライフルを握りしめた。


 終わる。この馬鹿げた二日間の騒乱も、もうすぐお開き。


 どちらが勝とうが、明日の朝、山を下りていけるのは一人だけだ。


 今にも崩れ落ちて行きそうな石段だった。まるで自分の身の上を暗示しているようだとあずさは思った。


 考えれば、ここまで本当にギリギリだった。いつ死んでもおかしくない、いや、今生きているのが実際におかしいほどに極限の戦いを続けてきた。


 翁。私は奴に勝てるのだろうか。


 見たこともない男だ。いまだ声を聞いたこともない。だが、殺人鬼たちを恐れおののかしている本物の化け物らしいということだけはわかっていた。


 あずさ一人で、勝ち目などあるのだろうか。


 月明かりに浮かぶ鳥居が徐々に大きくなっていく。あずさが確実に近づいているのだ。


 山頂が近い。残酷な殺人鬼が待つ、残虐な山頂が。


 あずさはあと数メートルと言うところで立ち止まった。後ろには登ってきた長い朽ちかけた石階段が遥か下まで続いている。立ちくらみでも起せば、そのまま真っ逆さまであろうと思われた。


 風が強かった。レインコートが、胸元のみを留めたマントのようなコートが強風に煽られてバタバタとなびいた。


 あずさはもうリュックは背負っていない。


 必要だと思われたものは全てその身体に身につけた。


 銀のオイルライター。先の丸いはさみ。ひしゃげたコイン。


 どれも私を守ってくれた。その全てに些細な、でもあずさにとって忘れがたい記憶が刻まれている。決して思い出して気持ちのいいものばかりでは無かった。むしろ目を伏せたい思い出の方が多い。


 でも、これが私なのだと、あずさは思った。


 どんな過去があっても、その過去があってこその神城あずさなのだ。


 三島の顔が浮かんだ。香織の顔も。祖母の顔も。三ツ矢葉月の顔や、義理の母の顔すらも脳裏に浮かぶ。


 全ての記憶の先に今の私がいるのだ。


 あずさは目を閉じた。自分に言い聞かせるように、言葉を口に出す。


「かましてやれ。神城あずさ」


 あずさは目を開く。その瞳はまっすぐに山頂を睨み付けた。


 あずさは足を踏み出す。一段ずつ。一歩ずつ。だが確実に前へ。


 戦うために。


 生きるために。




 あずさの足が、鳥居をくぐった。








 山頂の神社はものの見事に寂れていた。


 岩畳の参道は、石の隙間から雑草が飛び出している。狛犬の像などもいくつか立っているが、劣化が激しかった。片方の犬は首が無い。その奥の本堂は遠目にも柱が折れかけ、いつ倒壊してもおかしくないのが見て取れた。明らかに屋根が傾いている。


 そんな本堂だったものを背景にするようにして、荒れ果てた境内の真ん中で一人の老人が焚き火をしていた。


 火の明るさは月明かりをかき消すようにして暗闇のぼんやりと浮かんでいた。その焚き火のすぐ後ろに老人が古びた皮のリュックを椅子にしてちょこんと座っている。肩には散弾銃が立てかけるように置いてあった。


 あずさは焚き火にゆっくり近づいた。銃は構えなかった。老人は不意打ちなどしてこないだろうという妙な確信があった。


「来たか」


 焚き火を見つめていた老人は顔を上げ、にたりと笑った。


 下方からの火の光に怪しげに映し出されたその笑顔を見て、能面のようだと、あずさは思った。


「待っておったぞ。まあ、座れ」


 焚き火を挟んだ老人の向かい側に、老人は丸太を用意していた。あずさは素直に座った。老人と同じように、肩にウィンチェスターを立てかける。ポンチョを羽織った老人と、マントをなびかせたあずさが、向かい合った。


「・・・・・・あなたが、翁ね」


 老人は答えなかった。にやついた顔で、逆にあずさに「お主は何者なんじゃ」と問いかける。


「あずさよ。神城あずさ」


「違う。違う。そうではない」


 翁は大仰に首を振った。


「何者かと、聞いておる。兎か? オオカミか? 毒蛇か? それとも奴らのように偉人の名を借りるか? 巴御前はどうじゃ。いっそジャンヌダルクでもよかろう」


 老人は子どものように無邪気な笑い声を上げた。


 その老人の笑いを、あずさは「くだらないわね」と一蹴した。


「私はあずさよ。あずさとして生きてきた。私は私の過去を背負って、今、私として、神城あずさとしてここにいる」


 あずさは老人の顔をまっすぐに見つめた。


「他の名前を借りる必要なんて、ない」


 老人は少しきょとんとした表情を浮かべたが、すぐに「つれないのお」とまた笑みを浮かべた。


「みんな、死んだか」


 老人はまるで友人に近況を聞くような気さくさであずさに聞いた。


「ええ。死んだわ」


 あずさは無感情に答える。


「全員、殺した」


 風が吹き、焚き火を揺らした。夜の境内。暗がりの中、唯一の明かりは焚き火だけ。その焚き火を挟む二人以外に、誰もいない。この大きな山で、広い森で、生きている人間はあずさと翁だけなのだ。


 老人は手を打って笑った。可笑しいというよりは喜んでいるような笑い声だった。


「なんて女じゃ。本当に、全員を狩りつくしよった」


 その笑声を遮るようにあずさは言う。


「まだ、あなたがいるわ」


 老人がピタリと笑い声を止めた。


「なあ。あずさとやら」


 翁は膝の間に両肩を入れるようにして、ぐうっと身をかがめ、あずさの顔をしたからのぞき込んだ。


「なぜ、逃げなんだ。クロダたちを殺した段階で、車に乗って山を降りれば良かったのではないか? わざわざ山頂なんぞに登ってこなくても。ん?」


 あずさはその顔を冷ややかに見返した。


「私がそうやって逃げたら、あなたはいずれ追ってくるでしょう」


 老人は身を起して、あずさをまっすぐに見つめ直した。


「当たり前じゃ。儂は狩人だからのお。狙った獲物は絶対に逃がさんよ」


「なんのために?」


 老人の細い目がさらに狭められ、皺だらけの顔に埋もれる。


「意味など無い。ただ狩るのが好きなのだ。獲物を追いかけ回し、殺す。それが好きでたまらないのじゃ。貴様が殺した男共は儂から見れば小童にしか見えぬが、そんな奴らですら根本は同じじゃ。金のためだの、銃が好きだの、適当な理由を並べてはいるが、結局は本能にしたがっているだけじゃ。弱者を食い物にするために追いかけ、殺す。人類の歴史が始まる前からその身に刻まれている欲求に奴らも、儂も、とらわれているのじゃよ。人類は皆、狩りの欲求からは逃れられん」


生気を感じさせない枯れ木のようだった老人の顔が徐々に上気し始めた。


「肉を食うため、毛皮を手に入れるため。遥か太古はそうであったろう。だが、今はものがあふれる現代じゃ。もうそんな必要はない。だが、儂は狩りをする。食いたいわけではない。毛皮にも興味が無い。ただ、狩りたいのじゃ。追いかけ回し、追い詰め、殺したいのじゃ。それが動物だろうが人間だろうが、儂には関係ない」


 老人が身を乗り出す。目が開かれ、爛々と輝き始める。


「始めは鹿や猪じゃった。だが、すぐに飽いた。だから熊を狙った。何匹も何匹も殺した。そして人間じゃ。必死に逃げ回る奴ら、死に物狂いで向かってくる奴らを儂は撃った。撃ち続けた。そのうち、儂に見合う獲物はいなくなった。寂しかった。悲しかった。もうあの興奮は得られないのかと。落胆し、失望し、絶望した」


 老人はニタアとあずさに笑いかけた。


「そんな時、お前が現れた。ヨシツネとかいう男の亡骸を見たとき、すぐにわかった。お前は同類じゃ。狩人じゃ。逃げ惑う獲物ではない。狩る側の人間じゃ。事実、お主は男共をその手で狩り尽くした。なんて幸運じゃ。この歳で、お主のような逸材に出会えるとは」


 老人の口角が上がる。口が裂けるのでは無いかというほど大きく。


「狩りをしようではないか。狩りあおうじゃないか。お互いの命を狙って魂が燃えるような、心の臓がひりつくような、狩りをしようではないか」


 老人はあずさの前で両手を合わせた。まるで祈るように。まるでいただきますとでも言うように。


「それが、狩人の、本懐であろう」


 パチリと、焚き火が爆ぜた。


 あずさは考えていた。うつむいて、火を眺めながら。思いを巡らせた。


 自分は狩る側なのだろうかと。


 あずさはふっと笑った。


 そんなはずがない。事実、私はこれまで、あらゆる人間に虐げられてきたじゃないか。


 田舎のいじめっ子たちに。義理の家族に。弓道部の部員に。ネットの奴らに。会社の同僚に。四宮に。朱美に。上司に。 


この社会に、食い物にされてきたじゃないか。


 私はどう見繕っても、獲物側の人間だ。社会に適応できず。弱者のレッテルを貼られ、蹂躙される。そうやって身を縮めて隅の方でうずくまって生きてきた。


 ふと、祖母のことを思い出した。


 あずさと同様に、社会で上手くやっているとは到底言えなかった祖母だ。


 祖母は夏のいじめっ子の一件で、悟っていたはずだ。あずさが人間社会でうまくやれるタイプではないと。周りから孤立し、疎まれる存在になるだろうと。きっと祖母自身のように。


 祖母はあずさを何度も狩りに連れて行った。


 何を伝えようとしたのだろう。


 あずさに、狩る側になって欲しかったのだろうか。奪われる側よりも、奪う側に回れと。




 あずさの頭をがしがし撫でる祖母の笑顔が脳裏に浮かんだ。


あの、雪山での最後の狩り。祖母と鹿が命がけで戦った、あの日。


『鹿だよ。あの牝鹿の方だ』




「私は、狩人じゃ、ないわ」


 あずさはそう呟いた。翁の表情が固まる。


「私はずっと虐げられてきた。社会的に優位に立つ奴らに、ことごとく見下され、バカにされ、食い物にされてきた。きっと、それはこれからも同じ」


 あずさは顔を上げた。じっと、静かに、老人の目を見る。


「子どもの頃、鹿を見たの。トラバサミで足を挟まれて、銃を持った人間に囲まれた、哀れな牝鹿」


 今でも、鮮明に脳裏に浮かぶ。


「牝鹿は最後の最後、どうしたと思う? 逃げようとするわけでも、あきらめるわけでもなく、トラバサミを無理矢理引き抜いて、戦ったのよ。牙も、角も無い。蹄も無くなってる。そんな状態で彼女は最後まで戦い続けた」


 三島の姿を思い出した。矢を刺され、追い詰められても、彼は。


「戦い抜いたのよ」


 あずさは両の手を握りしめた。雪がまた降り始めていた。山の空気が冷たい。


 でも、あずさの身体はどんどん熱くなっていく。


「私はわかってる。自分は弱い。場の空気は読めないし、集団の雰囲気はわからないし、情弱だし、優柔不断だし、おべっかも使えなければ、弱音を吐くことすらやり方がわからない。現代社会に置いて最弱よ。どうしようもない。でもね」


 あずさは言った。力強く。まるで言い聞かせるように。翁にではなく、自分自身に。


「だからって、私は、あきらめない。誰かが私に悪意を持って向かってきたら、たとえ相手が誰であろうと、私は抗う。牙が無くても、角が無くても。蹄がなくても。あきらめるものか。負けるものか。私を軽んじる奴、利用する奴、辱める奴、貶める奴、陥れる奴、その全員と戦ってやる。いい? たとえどれだけ弱者でも、戦う権利はあるのよ。抵抗することが出来るのよ。黙ってやられるものか」


 あずさは叫んだ。何かを振り払うように。声の限り、叫んだ。


「最後の最後の最後の最後の最後の最後の最後まで! 全力で! 抗ってやるわよ!」


 自分の全存在をかけて。


 私は、戦う。


「そうね。いうなれば、それが」


 あずさは、言葉を切り、翁の瞳をまっすぐに見つめていった。


「餌食の、本懐よ」


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