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 梓の木から切り落とした枝を、梓は折りたたみナイフで懸命に削った。流石はというか、当然と言うべきか、なかなかに固い。少しの量を削るにも驚くほど時間がかかった。


 本来ならば和弓を作りたい。しかし、それでは2メートル以上の大きさになる。道具も時間も経験もない中、あずさは不可能であると判断した。だから、目指すは西洋弓のような小ぶりのタイプ。大きさは一メートルほどを目指す。その代わり、和弓よりも太くすることで、弓力、つまり弦の強さを底上げする。


午前中に切り出した枝を古墳の内部に持ち込み、ひたすら削る。削る。削る。


 そうして、またしても陽が傾こうとしていた。石室の中がオレンジ色に照らし出されていると気づいたところで、急にめまいが襲ってきた。あやうく自分の指を削りそうになる。視界が揺らぎ、あわてて地面に手をつき、目をつぶる。


 無理もない。昨日、あれほど血を流したのだ。しかも、昼におにぎりを囓って以降、何も食べていない。今、身体が動いているのも奇跡であると言ってよかった。


 なにか、なにか食べないと。


 しかし、食料などない。竹藪を出て探せばキノコぐらいはあるかもしれないが、武器が出来ていない状況で奴らに見つかったら、ひとたまりもない。


 最速で、弓を作るしかない。


 あずさはうなり声をあげて首を振ると、再び木材に向き合った。


 その時、上方からしゅるしゅると音が聞こえた。


 まるでロープがこすれるような音。


 あずさが見上げると、天井の隙間から一匹の蛇が石室に入ってきたところだった。あずさのことを不思議そうに見ている。


 三角形の頭。黒いまだら模様。


 マムシだ。


 マムシはぼとり地面に落ちてきた。フタマタの赤い舌をチロチロさせながら、床をさぐり、やがてあずさの方に近づいてくる。


 マムシは毒蛇だ。出血性の猛毒を持ち、噛まれたらすぐに血清を打たないと命に関わる。しかも、大変好戦的で、動きも素早い。相手に飛びかかる時は一メートル近く跳躍する。


 だが、あずさは焦らなかった。好戦的であろうと、自然界の生き物はこちらが何もしなければ攻撃してこない。だからあずさは微動だにしなかった。


 シューと独特の息遣いの音を立てながら、マムシがあずさの伸ばした足の上を通る。あずさのスーツのパンツの生地の上を蛇の白い腹が滑る。


 野生の生き物の俊敏さに人間は敵わない。マムシに正面からケンカをうったら、まず間違いなく噛まれて終わりだ。だから、とるべき行動は一つ。


 先手必勝だ。


 風の音が起こるよりも早く、あずさの右手がマムシの首根っこを掴んだ。


 マムシが驚いてあずさの右手上腕に瞬時に巻き付く。こうされると、縄のような蛇の身体が実は全身筋肉であることが否応なく思い出される。手に巻き付く力は内出血を起しそうなほどに強かった。マムシは牙をむき出しにして暴れる。しかし、首の根元を握られている以上、どこにも噛みつくことが出来ない。


 あずさは左手で折りたたみナイフを構えると、石室の床をまな板代わりに、蛇の首をゴキリと切り落とした。転がった首は虚空に噛みつこうと言うのか、しばらくパクパクと口を開閉していたが、やがて動かなくなった。


 身体の方はいまだにあずさの腕を締め付けていたので、無理矢理引き剥がす。頭を失った胴体は床の上でばたばたと暴れた。いつ見てもすさまじい生命力だ。


 その命、私がもらいます。


 あずさは一旦外に出て昼間に用意していた薪を回収した。午前中に周辺で拾った枯れ木を日向に干していたのだ。それを石室内に取り込み、焚き火を組む。オイルライターで火を起す。杉の葉や松ぼっくりも見つけておいたので着火剤には困らない。


 少し大人しくなってきた蛇の胴体を手に取り、首の切り口から皮を剥く。少し固いが、力を込めれば靴下のようにズルズルとむけていく。残り数センチのとこで皮がむけなくなる。ここまでが胴体。ここからが尻尾ということだ。尻尾は固いので切り落とす。腹側にある内蔵もつまむとすぐに取り出せる。ちなみに毒蛇ではあるが、毒腺は頭にあるので、胴体を食べる分には心配がない。


 白とピンクの間のような色になった肉を手頃な枝に巻き付ける。あずさが巻くまでもなく。蛇の肉は勝手に巻き付いていったのだから驚きである。こんな姿になってもまだ動くのだ。


 手頃な石を使って焚き火の側に棒を立てかける。時々回転させて、じっくり三十分ほど時間をかけながら焼いていく。


 ついでにたまった雨水をくんでおいたステンレスの水筒を焚き火に入れ、雨水を煮沸しておく。 


 手慣れたものだなあ。とあずさは自分で思った。我ながら、今の状況にあまりにスムーズに適応している自分に驚きを感じていた。


 だが、当然のことでもあった。その素地を、あずさは十二分に持っていたのだから。


 活用している知識や技術はほとんどが祖母に習ったものだ。現代の社会では一切役にたたない知識だとあずさは思っていたけれど、ここに来て日の目を見た。人生は何があるかわからないとはこのことだ。


 そしてもう一つ。大きな要因がある。あずさの行動には一切の迷いがなくなっていたのだ。


 元来、あずさは空気というもの読むのが苦手だった。相手の本音を読み取るのが難しかったし、言葉の裏を考えるのも不得手だった。周りの雰囲気もいつもよくつかめず、集団行動からは取り残されがちだった。それはきっと現代社会を生きる上で、致命的な能力の欠如であったのだろう。


 だから、あずさは弓道部でいじめられた。ちょっとの行動の違いで、少しの立ち回り方の工夫であんなことにはならなかったはずなのに。だが、あずさにはそれが出来なかった。ただ、愚直に練習に取り組むことしか出来なかった。それがより一層、周りの鼻についていると言うことにも気がつけなかった。


 それは結局、会社でもそうだった。もっと上手く出来たはずだった。あそこまで環境が悪化したのは、あずさの責任ではないけれど、あずさが悪かったのだとは限らないけれど、社会人としの現代社会においての能力不足であったことは否めない事実だとは思った。


 だが、それはあくまで、現代社会の中では、の話だ。


 この、今あずさがいる森の中では、逆にそんなものはなんの役にも立たない。誰かに気を遣う意味など無く、周りと足並みを揃える必要もさらさら無く、ただ、生き残る。そのたった一つの目標のために行動すれば良いだけだ。最適解は一つしかない。あずさには迷いようがない。


 そして、迷いをなくし、一つのことを突き詰めたとき、あずさの右に立てる者などいないことは、高校の弓道大会において証明されている。


 あずさは焼き上がった蛇の肉を石の上に置いた。両手を合わせ、目をつぶる。


「いただきます」


 誰が見ている訳でもない。でも、あずさは大きな声でそう言った。


 命を食べるのだから、それぐらいすべきだ。そう思ったのだ。


 蛇の肉は、鶏肉を引き締め、さらにうまみを凝縮したような味であると、あずさは記憶していた。マムシはアオダイショウよりもうまいと祖母に言った記憶もある。だが、今のあずさには味覚がない。ただのタンパク質として機械的に口に運ぶ。まあ、塩も香辛料もないために臭み消しも出来ていないので、ある意味良かったのかもしれない。


 ふと、三島が横たわる石室の奥を見る。


 先輩、蛇とか苦手そうだなあ。


「先輩。食べます?」


 そう呼び掛けてみるが、返事は返ってこなかった。やはり、昨晩が特別だったんだろう。


でもきっと、あずさが聞こえないだけで、「食べるかあ!」とノリノリで返事をしてくれているに違いない。


 あずさは背骨を残して蛇を食べ終え、「ごちそうさまでした」と手を合わせると、再び弓の作成に入った。


 削り、眺め、バランスを整えるためにまた削る。


 時折、三島に話しかけながら、あずさは夜通し、梓の枝を削り続けた。








 明け方、竹林に囲まれ、大木の枝葉の覆われた空間の中、葉の隙間から差し込む白い光に照らされる一人の女の姿があった。長い黒髪が朝のそよ風にわずかになびいていた。


 彼女は森に全く似つかわしくないリクルートスーツの上下を着込み、手にはこれまたスーツに極限に似合わない一本の弓を持っていた。


 その弓はまるで素人が削った木彫り細工のように細かい凹凸があり、大きさは一メートルあるかないかだった。和弓と言うには短く、西洋の弓を連想させた。弦は麻紐を編んだものが張ってあり、そのテンションで弓はわずかにたゆみ、歪曲していた。右手には黒い矢を持っていた。弓とは対照的な近代的なカーボン製の矢。それを持つ右手には赤いチェック柄の生地が特殊な結び方で巻き付けてあった。


 


 あずさは、左手にお手製の弓を構え、右手に持った矢をつがえた。この矢は、あずさのリュックに突き刺さっていたものだ。クロスボウ用なので弓道で使っていた矢よりも随分と短い。だが、弓もそれを計算に組み込んで設計したつもりだ。弓道場のように弓張り番があるわけないので、石室の壁の角に弓を押しつけ、たゆむ力を何度も確かめながら試行錯誤し、弦の長さも最適を見つけ出したと思う。弦は三島が首を吊るために持ってきたであろう麻縄をほぐして作った。


 足踏み。胴造り。弓構え。打ち起し。


 射法八節をゆっくりと行う。たとえ種類が変わっても、弓は弓だ。正しく射れば中るはずなのだ。


 引き分け。


 身体全体を使って弓を押し開く。弓力が強い。左肩の傷が鈍い痛みを訴えた。だが、耐えられないほどでは、ない。


 会。


 カーボン製の矢の羽は頬には届かなかった。短いのだから仕方ない。それでも、目線はぶれずにまっすぐ前を見据える。視線で射貫くつもりで。


 離れ。


 矢が、右手を離れた。


 パキン!


 風変わりな的中音が響いた。


 残心。


 カーボンの黒い矢は、一本の竹に突き刺さっていた。竹には縦に大きな亀裂が入り、今にも一本まるごと真っ二つに割れそうだ。


「よし!」


 あずさは自分でかけ声を上げた。


 ここまで何射も繰り返し練習した。和弓とは似て非なるものではあるが、備品の様々な弓を代わる代わる使って練習していたあずさは、弓の個性に射を適用させることは元々得意だった。個性がとがりまくった弓だと思えばいいのだ。それを踏まえてもかなりの問題児ではあるが、数十と射を繰り返すうちに大体の特性を掴むことが出来た。


 矢の飛距離はせいぜい二十メートル、命中精度を一定保てるラインを考えると、射程はせいぜい十メートルといったところだ。クロスボウや散弾銃は五十メートルを軽く超えてくるはずなので比べるべくもない。


 だが、戦える。戦いにはなる。




 あずさは古墳の中に戻った。


 差し込む細い朝日の筋の中、荷物を整理する。大した量ではないが、どこに何をしまうかは大事だ。


 オイルライター、折りたたみナイフなんかの有用性が高そうなものは、ジャケットの内ポケットやパンツのポケットなど、すぐに取り出せる場所に入れる。


 先が丸まった子ども用のはさみ。これは麻紐を切るときに重宝したが、安全重視で先が丸いために武器にはなりそうもない。リュックに放り込もうかと思ったが、弓の弦の手入れの際に必要かもしれないと思い、腰の後ろに差し込んでおくことにした。それこそ先が丸いので自分が怪我をすることもないだろうし。


 余った麻紐。予備の弦も一つ作ってジャケットのポケットに入れているが、一応持って行こう。そこでふと思いついて、適当な長さに紐を切った。あずさは手を後ろに回して、自分の長い黒髪を一つにまとめた。そして紐でぐるぐると巻く。途中でほどけてしまっても困る。コンパクトで確認すると、小さな鏡の中ではそれなりに様になっていた。


 最後に三島のリュックに入っていた漫画雑誌を拾い上げ、あずさは笑った。おそらくタケル百貨店で購入したのだろう。法外な価格設定だと言うのに。


 大好きだった漫画。最後に読みたかったのだろうか。


 あずさはそれもリュックに入れた。




 三島の前に再び膝をつく。


 この二日間、あずさは三島がいたから乗り越えることができたと思った。ここにもし一人だったら、傷の手当てを抜きにしても孤独と恐怖で発狂していただろう。三島に一方的に話しかけるだけでも、あずさは救われていたのだ。


 約束した。一緒に森を出ると。一緒に帰ると。


 だが、三島を遺体ごと運ぶことは出来そうもない。


 でも、約束したのだ。


 あずさは三島の握りしめたスマートフォンをすっと持ち上げた。握りしめられていたはずのそれは、まるであずさに手渡すように、受け取ってもらうのを待っていたかのように、自然と三島の手を離れた。


 そしてもう一つ。あずさは「お預かりします」と頭を下げて、薬指から指輪を抜き取った。


「必ず、奥さんに届けます」


 自身が生き残れるかもわからない状況で、あずさは断言した。


「必ず」


 立ち上がろうとしたその時、三島の太ももがキラリと光ったのに気がついた。何だろうと顔を近づけると、三島が止血のために自ら巻いた、止血帯に差し込まれた棒だった。木の枝を使っていると思っていたが、朝日の中でよく見ると木の棒ではなかった。


 ボールペンだった。黒と銀の。


 あずさがあの日贈った、決して高級とは言えないボールペン。芯を入れ替えさえすれば一生使えるボールペン。


 面倒くさがり屋の先輩だから、どうせ使わないんだろうなあと思いながらも、悩みに悩み抜いて選んだボールペン。


 ずっと、持っててくれたんですね。


 あずさは、つんと鼻の奥が熱くなる感覚を必死に押さえながら、震える手でそれを抜き取った。自分の胸の内ポケットに大事にしまう。


「では、先輩」


 あずさは言った。できるだけ、明るい声で。力強い声で。


「行って参ります」




 石室を出る。そこで、梓の木と古墳に向けて一礼する。


 お邪魔しました。守っていただき、ありがとうございました。


 あずさは顔を上げると、ご神木に背を向けた。歩き出す。一歩一歩。


 竹藪につく。そこをかき分けて入ろうとしたとき、背後から声が聞こえた。聞こえるはずなんかない。どうせ空耳だ。幻聴だ。でも、あずさにははっきり聞こえた。


『あずさ』


 あずさは振り向かなかった。もう、振り向かない。


『あずさ』


 高校生。弓道の大会。誰も味方のいない孤独な的前で、彼だけが応援してくれた。彼だけが叫んでくれた。


 三島が、にかっと笑う。


『かましてやれ』


 前を向くあずさの視界がどうしようもなく揺らいだ。あずさは右手に巻き付けた三島のシャツの切れ端で涙を拭い、そして、前を向いたまま「はい!」と叫んだ。


 わかった。わかりましたよ。


 あずさはゆっくりと目の前の竹をかき分けた。


 かましてやりますとも。




 あずさは踏み出した。外の世界へ。過酷な未来が待つであろう、現実の世界へ。


 戦場へと、踏み出した。




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