十六歳 夏
十六歳 夏
「もらえません。こんなの」
あずさは弓道場で正座をしたまま、首を横に振った。あずさの前には一本の弓が置かれていた。グラスファイバー製。つややかに黒光りするその弓は、どう見ても新品だった。
「そう言わないで。少し誕生日には早いけど、私たちの気持ちよ」
あずさの前に正座する香織は微笑んだ。隣に座する三島もうんうんと黙って頷く。そして言った。
「夏の特訓、よく頑張ったな」
夏休みが終わった。あずさは秋の大会に向けて、全力で練習に打ち込んだ。バイトを全て夜に集中させ、日中の練習にはフルで参加した。2年生に混ざって、ただひたすら弓を引いた。
それだけではない。毎朝4時起きで道場に通った。登校日ならともかく、夏休みに朝練をする物好きな部員などあずさ以外にいない。そもそも朝の練習をするためには鍵を持つ部長に付き添ってもらわなければならなかった。そして現部長は三島であった。
三島は毎朝のように練習に付き合ってくれた。射を見てもらい、構えのアドバイスをもらう。三島が来れない日にはなんと引退した香織が来てくれた。恐縮するあずさに「私としても受験勉強の息抜きになってうれしいわ。早起きできるしね」と笑った。香織には主に試合での作法を教わった。団体戦で射る順番が最初の大前だったらどうするか。最後の大後だったらどうするか。1年の自分がそんな大役を任せられるはずがないとあずさは思ったが、香織曰く、チームプレイなのだからメンバーの各ポジションの立場を知っておくことは大事だそうだ。入退場の仕方も叩き込まれ、緊急事態、弦が切れた時の対処まで教わった。
あとはひたすら弓を引いた。時には香織、三島、あずさで団体戦を模して並んで射を行った。自分より高レベルな相手との猛特訓で、あずさは自分の技量が確実に押し上がっていくのを感じた。
そして、今日、夏休みが終わる。三人での特訓も終わりだ。あとは一ヶ月後に待つ試合に備えるだけだ。
最後の特訓終わりに改めてお礼を言おうと弓道場の床に正座したあずさの前に、その弓は置かれた。
「だって、こんな高価なもの・・・・・・」
あずさは床の上でつややかに光る弓を見つめた。弓の材質はいくつかある。代表的なのは竹、カーボン、グラスファイバーなどだ。今、あずさの前に置かれているのはグラスファイバー製で、比較的安価である。それでも数万円はするはずだ。
「大丈夫よ。弓具店がサマーセールをしててね。かなり安く買えたわ。それに、三島も半分出してくれたしね」
あずさは驚いて三島を見た。あのケチの三島先輩が? 三島は香織の後ろでふふんと得意げな顔をしている。
「ほんとは私が一人で買う計画だったんだけど、三島にばれちゃってね。お金は出し合うことにしようってなったの。その時も多めに出すっていったのに、絶対折半だって譲らなくてね」
苦笑する香織に、三島は「あたりまえだろ」と鼻息を荒くした。
「二人の気持ちなんだから。二人できっちり分けるのが大事だ」
あずさは三島について少し勘違いしていたようだった。三島は奢るのが嫌なのではない。きっちり二つに分けないと気が済まないのだ。
とはいえ、ファミレスで多めに食べた分は自分で払って欲しいが。三島の主義とは全く別の問題なので。
「で、でも、流石に受け取れません。むしろお礼をしなくちゃいけないのは私の方で・・・・・・」
「あずさちゃん」
香織は声色をすっと変えた。友達としてではなく、弓道部の元部長としての声色だった。あずさの背がすっと伸びる。
「私は半年前に言ったわ。弓がなくても大丈夫。道着が無くても大丈夫。あなたが努力さえすれば、ひたむきな心を捨てなければ、弓はできる。弓を引かせてあげる。部長の私が保証するって」
香織はおもむろに床に置かれた弓を手に取った。
「そして、あずさちゃんは努力を見せてくれた。家のことも色々大変だろうに、弱音一つ漏らさずに誰よりも頑張った。これ以上ないほど。あずさちゃんを見てると、自分がどれだけぬるい気持ちで弓道をしていたか思い知ったわ。だからあずさちゃんには感謝してるの。あなたに会えなければ、努力の本当の意味も知らずに卒業してしまうところだった」
買いかぶりだ。あずさは恥ずかしくなった。確かに自分はバイトを掛け持ちしながらも誰よりも練習している。しかし、香織が言っているような立派なものではないと思う。自分が他の人よりも金銭的にも家庭的にも恵まれていないから、その分頑張らなければいけないと思ったから、迷惑をかけたくなかったから、必死になっていただけなのだ。だからそれはなんというか、香織の言っているような、なんだか高尚な努力だとか鍛錬だとかとは似て非なるものであるようにあずさは感じた。
微妙な表情で床を見つめるあずさに、香織は「それなのに・・・・・・」と続けた。弓を持つ手に力が入ったように見えた。
「私は、私たちは、あなたに弓を引く、適切な・・・・・・正しい・・・・・・環境を用意できなかった。約束したのに。あずさちゃんはこんなに頑張っているのに」
弓を持ったままうつむいた香織の後ろで、三島が床に両手をついて、頭をさげた。
「すまん! あずさ! 現部長の俺の力不足で・・・・・・」
あずさは慌てて身を起し、「やめてください!」と叫んだ。
「先輩方のせいじゃありません! 私が、私がみんなとうまくやれないから・・・・・・」
弓道部の活動において、あずさへの嫌がらせは日々、エスカレエートしていた。
あずさが弓を引き始めた直後からはじまったそれは、大会メンバーが決まった時に一気に拍車がかかった。あずさがメンバーになったことで、団体戦に出られなくなった2年の女子たちが主犯だった。それは徐々に2年女子全員に伝播し、自ずとあずさの同級生である1年も同調した。
始めはあずさに聞こえるか聞こえないかの距離で陰口をこそこそ言われる程度だったのが、やがてあからさまに嫌味や嘲笑を受けるようになった。部員が的中を出すと皆で「よし!」とかけ声を出すのがこの弓道部の伝統だが、あずさが的に中てた時だけ、かけ声は上がらず、しらけた空気が漂う。あずさが的を外したときはクスクスと嘲笑が聞こえる。あずさにとって弓を引きやすい環境とは言えなかった。
部長の三島は頑張ってくれていた。なんとか部の雰囲気を変えようと奔走してくれた。そして、幾分か改善した所もある。三島は男子部員からの信頼が厚い。三島が個別に話を付けてくれたらしく、ある日を境に男子部員たちは皆、一様にあずさに優しくしてくれるようになった。
それが、余計に女子部員の神経を逆なでした。
さらに三島は女子部員とも話をしてくれた。しかし、三島は女心がわかるタイプとはお世辞にも言えない。どうやらバカ正直に正論をぶつけてしまったらしい。「後輩をいじめて恥ずかしくないのか」「自分より弓が上手いからって嫉妬するな」「そんなに悔しいならあずさと同じくらいお前らも練習すればいいじゃないか」「努力してないやつが頑張ってるやつを妬むんじゃない」
正論だ。だが、時に正論は火に油となり得る。三島がそれに気がついた時にはもう手遅れだった。事態を知った香織も慌てて動いてくれたようだったが、時すでに遅し。覆水盆に返らず。あずさと他の女子部員の確執は決定的なものとなった。
女子部員はあずさと口も聞いてくれなくなった。あずさは男子に混じって練習するようになった。女子の中では練習にならないのだ。これで女子団体戦のメンバーとは聞いて呆れる。チームワークもへったくれもない。
そしてついに、あずさは弓を手に取ることもままならなくなった。
あずさは備品の弓を借りている。数本ある弓はそれぞれ弓を引く際に必要な力、弓力が異なる。なるべく自分に合った強さの弓を使うことが大切だ。だが、いつもあずさが借りる弓を、同級生が狙ったように先に持って行ってしまうようになった。1年生は自分の弓をもっていない人はあずさ以外にもいるので、仕方がないことではある。しかし、あずさは体格のわりに比較的弓力が強いものを使う。他の部員が選ぶとは考えにくかったので、単に嫌がらせだろう。しかたなく、これも練習だと割り切っていろんな弓力の弓を日替わりのように使っていたが、先日、ついに全ての備品の弓を持って行かれてしまった。自分に合わない弓を使っても仕方ないだろうから、彼女らは自分の練習内容よりもあずさへの嫌がらせを優先したと言える。自分のせいで部がおかしくなってしまっている。そう考えると流石に悲しくなった。
あずさは改めて香織の手の中の弓を見つめた。
きっと、香織と三島は、元部長と現部長としてのあずさへの償いの気持ちもこめて、この弓を用意してくれたのだろう。
二人が悪いわけではない。コミュニケーション能力が低い自分が悪いのだ。嫌味を言われても、口答え一つ出来ない自分の弱さが原因なのだ。あずさは自分が情けなかった。
「お願い。受け取って」
香織があずさの目をまっすぐ見つめた。その瞳がわずかに揺れているの見て、あずさは腹を決めた。
私が二人の気持ちに応える方法は一つだけ。
中てるんだ。
あずさは香織から弓を受け取った。標準の弓よりも少し小ぶりに見える。七尺弓だろう。身長が高いとは言えないあずさにはちょうど良い。
弦は三島が用意してくれていた。あずさは弓道場の壁に設置してある弓張り番に弓の先を押しつけて弓をたゆませ、弦を張った。
矢を取り、教わった手順で的前まで移動する。
的に対して肩を向ける形で横向きに膝をつき、座射の態勢になる。顔の前で弓を構え、矢をつがえ、ゆっくりと立ち上がる。
弓道には、射法八節という最も基本的で一番大切な動きの型がある。文字通り、矢を放つまでの一連の動作を八つの項目に分けたものだ。
足踏み。胴造り。弓構え。打ち起し。
あずさは春からひたすら練習し続けたこの動きに、二人に夏いっぱいを使って教わった全てを乗せるつもりで一つ一つ、これでもかというほど丁寧に行った。
引き分け。
身体全体を使って弓を押し開く。備品と比べて弓力がかなり強い。だが、あずさにとってはこれまでで一番引きやすい弓だと感じた。
会。
矢の羽を頬に付け、的を見据える。
離れ。
自然と右手を離れた矢が、吸い込まれるように的に飛んでいった。
パアン!
的中音が響いた。
残心。
「よし!」
三島と香織のこれ以上ない大声のかけ声が、弓道場に響き渡った。
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