6




 水浸しのスーツ姿で扉を開けるのは初めてではない。


 営業先で水をぶっかけられ、とぼとぼと帰社し、ガラス製の重い扉を開き、同僚に嗤われる。苦い思い出だ。


 しかし、今回あずさが開けたのはオフィスの玄関ではなく、「タケル百貨店」の木製の引き戸だった。


 バアン! と勢いよく引き戸が開け放たれた音に、カウンターに座ってパソコンを眺めていたタケルは「うわあ!」と叫んで後ろに倒れそうになった。カウンターと後ろの壁にに慌てて両手を付き、なんとか転倒を免れる。そんなタケルの狼狽ぶりに構わず、あずさは叫んだ。


「警察! 警察に通報してください!」


「え? は? なに? 警察?」


「早く!」


 あずさは肩を押さえながらカウンターにずかずかと迫った。タケルが立ち上がってまるで脅されたように両手を上げる。


「なになになに? どうしたの?」


 ああ、もう、じれったい。


 あずさは濡れそぼって重くなった髪をかきむしった。


「殺人鬼に! 襲われたんです!」


 タケルはぽかんと口を開けた。そして「へ? 何言ってんの?」と半笑いになる。


 あずさも自分の口から出た説明の滑稽さに泣きたくなった。こんなホラー映画でも言わないような陳腐なセリフを自分が叫ぶことになるとは。


「ま、まあ。落ち着きなよ。えっと・・・・・・川にでも落ちた? あ、それでその時に頭とか打った?」


 あずさは焦れったくて叫びそうになった。それをなんとか堪える。


 ダメだ。こっちも冷静にならないと真剣に聞いてもらえない。


 あずさは落ち着こうと店内を見回し、そこで、自分が引き戸を開けっぱなしにしていることに気が付いた。慌てて駆け寄り、引き戸をきっちりと閉める。


 大丈夫。こんな所まで流されてきたんだ。すぐには追ってこないはず。まず、あずさがどこに流れ着いたかも見当が付かないだろうし。まだ時間はある。


 あずさは閉じた引き戸に向かって「ふー」と息を吐くと、いまだ半笑いのタケルに向き直り、再びツカツカと近寄っていった。


「あのね。一回、落ち着こうよ」


 そうヘラヘラするタケルに、あずさはリュックの左の肩紐をずらす。スーツの上着に手をかけ、一気に押し開いて鎖骨の辺りを晒した。


「え! なになになに?」


 驚いて後ずさったタケルは、すぐにあずさの左に鎖骨付近に釘付けになった。


 ヨシツネがカッターシャツの上から大雑把に巻いた包帯が露わになっていた。川の水で一旦洗い流された白い包帯に新たな血が滲んでいくのが見えたのだろう。タケルの顔色が変わった。


「う、撃たれたの?」


「はい。散弾が一発あたったみたいです」


 タケルは「えっと、えっと・・・・・・ どうしよう」と店内を見回し始めた。


「あ、そ、そうだ。あっちの棚に救急セットをおいてたはずだからそれで治療を・・・・・・」


 あずさは思わず怒鳴った。


「救急車でしょ!」


 タケルがびくりと肩を振るわせる。「う、うん。そうだね。そうだよね。ごめん」


 だめだ。冷静にならないと。落ち着け。落ち着くんだ。


「・・・・・・怒鳴ってごめんなさい。えっと、傷は一旦大丈夫なので、警察に連絡しないと。猟銃を持った男に襲われたって。助けに来てもらうんです」


「う、うん。そうだ。そうだね」


「スマホ、貸して下さい」


 この店に駆け込む前に確認したが、あずさのスマホは浸水したせいで完全に機能を失っていた。


「あ、スマホ、もってない・・・・・・」


 はあ? そんなことある?


 目を剥いたあずさにタケルがおろおろと言い訳をする。


「だって、ここらへん、どうせ圏外だし・・・・・・ ぼくは俗世間と縁を切って、自然の中で・・・・・・」


 そうか。圏外か。あずさはタケルの言葉の後半は完全に無視しながらも歯がみした。


「じゃあ、車! 車で街まで送ってくれませんか?」


 しばらくは大丈夫だろうが、いつ殺人鬼が追ってくるかわからない。早くこの森を離れないと。


「あ、ぼく、車、持ってないんだ・・・・・・」


 めまいを起しそうだった。


「なんでですか!」


「いや、だから、俺は俗世間とは断絶することで、人間本来の・・・・・・」


 あずさはその場にしゃがみ込んだ。


 そうだ。この店を始めて見たとき、感じた違和感。砂利の駐車場はあるのに、車が一台も停まっていなかった。客がいなくても、店主の車は絶対にあるはずなのに。


 ここは歩いて街まで行けるような場所じゃ無い。数時間どころか丸一日かかるだろう。このFIREだかなんだか言ってるエセナチュラリストはどうやって普段移動しているのだろう。あずさと同じようにバスを使っているのだろうか。一日に2回しか来ないあの・・・・・・


 バス。


 あずさは左手の腕時計を見た。安物の時計は川の濁流の中で何かにぶつけたのか、山で転がったときか、はたまた散弾の一部が当たったのかわからないが、時計盤がバキバキ割れていた。


「今、何時ですか」


「へ?」


「十六時にバスが来るはずなんです! 今、何時ですか」


「ぼく、腕時計は付けない主義なんだ。あれって、社会に縛られる手錠みたいっていうか・・・・・・」


「もういいです!」


 あずさはカウンターの上に手をつき、飛び越えた。無理矢理、狭いカウンターの内側、タケルから見て左側に滑り込む。


「ちょ!」


 タケルを右側に押しのけるようにしてパソコン画面を覗く。


あった。右下に小さく現在時刻が表示されている。十五時五十五分。


 よし。間に合う。


 思わず顔がほころんだあずさは、ふと画面の中央を見て、表情が凍り付いた。


 画面の中央、小さくされた一つのウインドウに画像が映し出されていた。


 あずさは、半ば無意識にマウスを操作し、そのウインドウを最大化した。画像が画面一杯に広がる。


 林道をかなり上からの角度で撮影した写真のようだった。遠くから撮った写真をむりやり引き伸ばしたようで、画質が荒い。木々の間の小道の真ん中に一人の人間が立っており、怪訝そうにこっちを見上げている。その顔が強引にズームにされている。


 山に不釣り合いなリクルートスーツ。リュックサック。降ろした長い黒髪。


 あずさだった。


「え、なにこれ・・・・・・」


 そう呟いてあずさはタケルの方に振り向いた。


 刹那、左頬に衝撃を受けた。


 あずさはカウンターの奥に倒れ込んだ。角に背中をぶつけ、座り込む形になる。頬に手を当てて呆然と見上げる。タケルが荒い息を吐きながらあずさを上から睨み付けていた。


 殴られた。


 呆気にとられて動けないあずさに、タケルは足を振り上げた。右手でカウンターの縁を掴み、左手は壁についてバランスを取りながら、角に座り込んでいるあずさを足の裏で踏み潰すように蹴りつけた。


 あずさは悲鳴を上げた。とっさに両手でガードしたとはいえ、大の大人に体重をかけて蹴られたのだ。平気な訳がない。タケルが足に履いているのが靴ではなくゴム製のサンダルだったのが唯一の救いだった。


 しかもタケルはその態勢のまま、あずさの身体を何度も躊躇無く蹴り続けた。


 一回。二回。三回。


 あずさは攻撃から逃れようと必死で身体をくねらせた。あずさのすぐ右手に店の奥に繋がるドアがある。しかし、タケルの猛攻で近づくことが出来ない。あずさはがむしゃらに両手を振り回した。すると、手がパソコンの電源コードに触れた。あずさはそのコードを全力で引っ張った。


 引っ張られたノートパソコンがあずさとタケルの間にガシャンと転がり落ちた。一瞬、タケルの足が宙で止まる。


 ナチュラリストを気取っていても、パソコンは惜しいのね。


 あずさは片足を上げたまま動きを止めたタケルの軸足の向こうずねを、思いっきり足の裏で蹴りつけた。


「あが!」


 タケルは声にならない叫び声を上げて、バランスを崩した。壁とカウンターで身体を支えていたおかげで転倒は免れたようだが、カウンターにしがみつくようにしてその場にしゃがみ込んだ。


 その隙にあずさはカウンター背後のドアノブにしがみついた。ドアノブをひねり、扉を開けると這うようにして店の奥に逃げ込む。そこは昼間に覗いた工房だった。作業用の大きな机があり、その上に木材と工具が散らばっている。その向こう側にさらに廊下がある。きっと裏口もあるだろう。


「待てよ! くそが!」


 タケルも足を引きずりながら工房に入ってくる。あずさは四つん這いのまま机の反対側に回った。机の天板に掴まり、身体を起す。横幅は2メートルに届きそうな大きな作業台を挟んで、タケルと対峙する。タケルは歯を食いしばり、あずさを睨み付けている。さっきまでとは別人だ。


 あずさは横目に廊下を見た。その方向に身体をずらそうとすると、同時にタケルも行く手を阻むように机の周りを移動してきた。あずさは慌てて反対方向に身をずらす。工房と称した部屋は狭く、机と壁の間はほとんど無い。机の周りを、壁を背に移動するしか無いのだ。机を真ん中にして、あずさとタケルは膠着状態に陥った。


 ふと、タケルが机の上に目をやった。あずさもつられて視線を落とす。


 様々な工具が無造作に並べられていた。


 二人はほぼ同時に動いた。手元にある工具をひっつかみ、構える。選ぶ暇など無かった。あずさに関してはもう手探りで手に当たったものを引き寄せただけだ。


 タケルが手に取ったのは、鉈だった。刃渡り30センチはあるかという分厚い鉈。


 対して、あずさの手に収まったのは。ノコギリだった。それも、20センチあるかないかの、片刃のノコギリ。木を切断するための、刃がペラペラタイプのやつだ。今も持ち上げた勢いで刃がたわんでビイーンと間抜けな音を立てていた。


「は!」とタケルが勝利の笑みを浮かべる。


「降参するなら今のうち・・・・・・」


 タケルが言い終わらないうちに、あずさは机に身を乗り出して、ノコギリを振るった。刃先が辛うじてタケルの顔にかすった。わずかに鮮血が散る。タケルが叫んで鉈を振るう。しかし、重い鉈ではどうしても鈍重になる。鉈がブンと振り切られるその寸前にあずさは身を反らせることができた。持ったのが軽いノコギリで無ければここまで素早くはうごけなかっただろう。


「てめえ!」


 タケルが怒りの声を上げる。タケルの鼻の頭は真横にぱっくりと切り裂かれて血が流れ出ていた。


 あずさは鉈を避けたときの勢いをそのままに。背中を壁に押しつけた。そして、膝を引き寄せるように足を曲げ、さっきの仕返しとばかりに机の縁を足の裏で蹴りつけた。


 机は床に固定されていたわけではなかったのだろう。勢いよく滑り、タケルの腹部に直撃して、そのままタケルの身体を壁に押しつける。タケルは作業台と壁に挟み込まれて三度悲鳴を上げた。


 タケルの胸ポケットから見慣れない機器がこぼれ落ち、あずさの足下に転がった。


 トランシーバー?


 あずさはそれをひっつかむと、立ち上がり、廊下に駆け込んだ。間髪入れずヒュンっと鉈があずさの肩越しに飛んできて、側の壁にダアン!と刺さった。あずさは構わず走り抜け、裏口を見つけると、ぶつかる様にして扉を開いた。


 薄暗い閉鎖空間から解放されたあずさは、あまりの開放感に泣き叫びたくなった。だが、立ち止まるわけにはいかない。あずさは朽ちかけたアスファルトの上を走り出した。わずかな勾配がある車道を駆け下りる。すっかり勢いが強まった雨があずさの身体を打った。


 あずさは一心不乱に走りながら、手にしたトランシーバーのボタンを手当たり次第に押し、起動音を確認すると、発信ボタンを親指で押さえつけて叫んだ。誰に繋がっているかも考えず、無我夢中で叫んだ。


「助けて! 殺人鬼たちに追い回されてるの! 聞こえてる? 助けて! 警察に通報して! 誰か!」


 しかし、何の声も返ってこない。そこで気がついた。電話のように双方向通話ではないのだから、相手の返答を聞くには発信ボタンから指を離さないといけない。あずさはもう一度、「お願い! 答えて!」と叫んでから、発信ボタンから親指を離した。


 しばらくの沈黙。あずさは思わず立ち止まり、土砂降りの中、トランシーバーに耳をそばだてた。


 一言だけ。妙に冷静な男性の声で。ぞっとするほど落ち着いた声で一言だけ。


「・・・・・・Good luck.」


 グッドラック? あずさはその冷たい声色と場違いな意味の英語に強烈な恐怖を感じ、悲鳴を上げてトランシーバーを放り捨てた。再び走り出す。


 雨が道に降注いでいる。あずさの運動靴はいくつもの水たまりを踏みつける。行きしなはあんなに短く感じたバス停までの距離が今のあずさには永遠に続くような気がした。


 視界の先に赤いバスが停車しているのを見たとき、あずさは安堵のあまり泣き崩れてしまいそうだった。必死に足を動かして、バスに向かって手を振る。


「助けて! 助けてええ!」


 バスはちょうど着たところなのだろうか。こちらに向いて停車し、乗車口と降車口が開いている。運転席には今朝会った中年女性運転手が座っていた。彼女はあずさを見て目を丸くしている。


 あずさは手に持ったノコギリを振り回しながら、バスに駆け寄る。


 自分の走りをスローモーションのようにもどかしく感じながら、あずさはようやくバスの車体に手をついた。運転席の降車口から入ればいいのに、わざわざ車体の中腹の方の乗車口に回り込んでしまった。いつもの癖はとっさの時に出てしまうものらしい。何にせよ、あずさはバスにたどりついた。


 助かった。助かったんだ。


 あずさが心からの笑みを浮かべて乗車口の階段に足をのせようとした時、


 プシューー。


 バスの自動ドアが閉まった。


「え?」


 あずさは慌ててバス前方、降車口の方に駆け寄った。


プシューーとまたしても目前で扉が閉められた。


「ちょ! 運転手さん!」


 あずさはバンバンとドアを叩いた。


「開けてください!」


 運転手にを見る。運転手は席で身体をこわばらせて怯えた目であずさを見つめていた。


 そこで、あずさは自分が血のついたノコギリを振り回しているのに気がついた。


 怖がられている?


 あずさはさっとノコギリを後ろ手に隠した。


「ごめんなさい! 実は! その! 変な男たちに襲われて! こ、殺されそうになって! なんとか逃げてきたんです! 助けてください!」


 女性運転手はポロポロと涙を流している。そんなに怖いのだろうか。でも、あずさもそれどころではないのだ。


 あずさは後ろを振り向く。雨が降注ぐ、木々に囲まれた車道。今のところ、タケルは追ってきていない。でも、早くしないと。早くしないと。


「お願いです! 開けてください!」


 あずさも泣き出していた。子どものように泣きじゃくりながらドアを両の拳でドンドンと叩く。


「お願い! 開けて! 開けてよお!」


 運転手は涙を流しながら、震える口を動かした。なにか、言っている。ドア越しで、雨の音もひどくて、よく聞こえない。


 え、なに? なんて? 


 あずさは耳をドアに押しつけるようにして、運転手のか細い声を拾った。


「・・・・・・だから、だから・・・・・・」


 運転手は絞り出すように言った。


「だから、降りちゃだめって、言ったのに・・・・・・」


 運転手は両手で顔を覆うと肩を震わした。


 ドアのガラス越しにむせび泣く運転手を見つめながら、あずさは呆然と両の手を下ろした。


 


 ブオン! 




 山の方から、すさまじい水しぶきを上げながら、一台の黒いバンが走り降りてきた。バンはバスを通り過ぎる。呆気にとられて眺めるあずさの十メートルほど後ろで、バンは派手なブレーキ音と水音を立てながら、停車する。


 バタンバタンとドアが音を立てて、二人の男が降りてきた。


「あ、ああ・・・・・・」


 ヨシツネとベンケイ。


 ヨシツネはクロスボウを。ベンケイは上下二連式散弾銃を手に持って。


「・・・・・・いや。・・・・・・いやあ!」


 あずさはまた走り出した。


 さっき駆け下りたところの車道を駆け上がる。絶望に染まりながら。森に向かって。山に向かって。




 残されたバス、その中からわずかに漏れる運転手の押し殺した泣き声は、アスファルトを打つ雨の音にいとも簡単にかき消された。




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