5.〈独白〉
5-1
子どもというものが無邪気に他人を信じ、甘え、自分が常に守られているという自覚を持ちもしないものなら、僕の子ども時代は六才になってすぐに終わった。
元は常に季節の花咲く王宮の中庭だった瓦礫の中、処刑台――後でそう知る事になる――だけが新しく、周りの風景から浮き立っている。
色んなものの焦げた臭いで空気が淀んでいる。
空に蓋をする様などんより重い雲が耐え切れずに雪を落とす中、息苦しくなるほどの人々で埋め尽くされたその中庭には、銃を持った軍服の男達が配備されている。
周りの大人達は何も言わず悲しそうな顔をしている。
それなのに僕を抱く父は、その隣にいる何度か見た事のある女は、何でもない事の様に話をしている。
女は微笑んですらいる。誰だこの女は?
「お母さんは?」
自分の声が酷く頼りなく聞こえる。
「お前の母さんは、今家にいるよ」
寒さのせいか父の声が微かに震える。
「お父さん、早くお家に帰ろうよ。お母さん待ってるよ」
心細くなって言った。
女は口だけ笑みの形を作り、優し気に言った。
「シラベはもう、あなたのお父さんじゃないのよ」
訳が分からなかった。
「シラベはね、あなたのお母さんとは別れたのよ」
女は蛇の様に、僕を抱く父の左手に絡み付いた。
父を見ても、彼はただ処刑台を見詰め続けている。
「お父さん、僕もう降りる」
そう言っても父は僕の声が聞こえないかの様に、更に抱く手に力を込めた。
「お父さん……」痛い、そう続け様とした時、会場がざわめいた。
処刑台に偉そうな軍服の男の一人が上り、何かわめいている。
「暗君ユグアル廃王、ミアラ廃王妃、そして……」
両手首を一括りに縛られ、足に錘を付けられた三人が銃剣に押される様に処刑台に上った。
「ルッサ新聖政府に、民に多大なる血を流させた根源、ギャビン・ウラージオイヌ!」
何故か祖父の名が聞こえた。
「お父さん、おじいちゃん……」何であんなとこにいるの?
そう言おうとした瞬間、父の指が左肩に食い込み、余りの痛さにそれはうめき声にしかならなかった。
「もう二度と奴をおじいちゃんと呼ぶな。奴はもう他人だ、いいな」
父は僕を見もせず、目の前の処刑台を見詰めたまま淡々と言った。
やっぱり訳が分からない。
王様、お妃様、祖父の順番で木の板から首を出す様固定されていく――後にそのその装置がギロチンだという名前だと知った。
それがどんな装置か分からなかったが、祖父が危険な目にあっている事は理解できた。
「お父さん、おじいちゃん、大変! 助けて!」
そうすがったが父は何も言わない。
おじいちゃんと呼んだ事すら何も言わない。
ヘビ女は口だけの笑みを保ったままそんな父を見詰めている。
「お父さん!」
涙が溢れ、父の胸を思いきり叩いた。
それでも父はただ前を見詰めている。
「おじいちゃん!」
動かない父の腕から降りようと両手で父の胸を押したがやはりびくともしなかった。
逆に拘束は強まり、握られている左肩は骨がきしみ火傷の様な痛みが続いている。
「おじいちゃん、おじいちゃん!」
叫びながらそれでももがいた。
偉そうな軍服の男が大声で何かわめいたのを最後に、会場は静寂に包まれた。
ふいに風を切る音とそれとほぼ同時にごとり重いものが落ちる音がし、続いて人々の息を飲む音が聞こえた。
身を捩り音のした方を見ると、鮮やかに赤い血だまりの中、王様の頭が落ちていた。
「王様! お父さん、王様、頭!」
動きを止め、父の服をつかみ言った。
父ならこんな訳の分からない状況にすんなり説明をつけてくれるとのではないかと思った。
王様、優しい王様。
初めて会った時「誰?」と聞いたら、笑って祖父の友達だと答えてくれた王様。
こんな孫が欲しかったとよく膝の上に乗せてくれた王様。
王様との思い出が頭にあふれ何も考えられないまま、ただ泣き喚いた。
「泣くな」
父がうなった。
視線は固定された様に処刑台に注がれている。
ヘビ女はそんな父をうっとりと見詰めている。
ふいにまたあの不吉な音がし、気付くとお妃様の頭が転がっていた。
もう、泣き続ける事しかできなかった。
父の指先がさらに左肩に食いこむ。
余りの痛さに骨にひびが入ったのではと思ったが、それどころではなかった。
王様、お妃様と続き、残っているのは祖父だけだった。
「おじいちゃん! おじいちゃんが……お父さん!」
厳しい父と母に隠れてお菓子をくれたり、色々夢の様な不思議な話しをしてくれたおじいちゃん。
僕が魔術を習う事をよく思っていない母に隠れて「誰にも内緒だぞ」と魔術を教えてくれたおじいちゃん。
僕が初めて氷の矢を作れた時「流石小さなウラージオイヌだ」と顔をくしゃくしゃにして喜んでくれたおじいちゃん。
父は表情を強張らせ抱く手に力を込めたまま、前を見詰め続けている。
祖父はそんな異常な状況でもいつもと同じ様な穏やかな表情をしていた。
父の腕の力が僅かに緩んだ。
頬に何か暖かいものが落ち、見上げると父の右頬だけに涙の後が見えた。
それが最初で最後の僕が見た父の涙だった。
もう、泣くしかできなかった。
目をつぶったり、背けたりするという考えは思いもよらなかった。
何の前触れもなしにまた不吉な音がし、静かに舞う雪の合間、気が付くと祖父の頭も血だまりの中に落ちていた。
歪む視界の中、辺りに血が降り注ぎ、祖父の白髪頭が真っ赤に染まった。
頭の無い首を見ると、赤い血の合間に白い骨とうごめく赤い肉が見えた。
――それがその場所での最後の記憶だった。
その日、父はもう決して軽くはない僕を降ろす事なくずっと抱き続け、そして僕らの家の玄関先になってようやく降ろすと、向き合う形でぎゅっと肩を抱き、小さな手紙をこっそり僕の手に握らせた。
父の隣には当たり前の様にまだヘビ女が立っていた。
「それを急いでエリザに渡して」
耳元で聞こえるか聞こえないくらいの声でそう言われた。
言われた通り、急いで家にいた母に手紙を渡した。
母はそれを読むと涙をあふれさせ、そうしないと崩れてしまうかの様に僕を抱きしめた。
いつも朗らかでめったに泣かない、僕にとって絶対の存在である母。
そんな母が泣いた。
何がともなく、もう駄目なのだと思った。
そして父が玄関先にいる事を思い出し、「お父さん、外にいるよ。呼んでくる!」と母の腕から抜け出した。
慌てて玄関を出たが、ついさっきまで父がいた場所には、もう、誰もいなかった。
後になって、その時革命と言うものが起き、王族が、ウラージ家、ウラージオイヌ家のものが処刑され、新聖政府というものがルッサを支配しだしたのだと知った。
父が家に戻る事はなかった。
家の表札と、母と僕の名字が母の旧姓になった。
父は自分の命惜しさに母と僕とウラージオイヌの家名を捨て、新政府の高官の家に婿入りした。
おせっかいな近所の人が、可哀想にとそう教えてくれた。
先祖代々王家に支えてきた本家のウラージ家と祖父の代からの分家ウラージオイヌ家を合わせ、処刑されず生き残ったのは父と母と僕だけだった。
父が家を出てからの約十年、母と僕はそれでも今思うと幸せに暮らしていた。
少なくとも、今より幸せだった。
しかし十四の時、母と、僕のささやかな幸せは消えてしまった。
ある日突然、僕は車で拉致され、ヘビ女の家へ連れていかれた。
そこには父もいて、今日からお前はこの家の子どもになり、ここに住むのだと言われた。
嫌だと泣き暴れても状況は何もよくならなかった。
二週間ヘビ女の家に軟禁され、やっと隙を見て母に電話したが、この電話番号は現在使われていないと言われた。
諦め抵抗しない振りをしてやっとある程度自由に行動できる様になった時――拉致されてから三ヶ月が経っていた――、母と住んでいた家に戻ると、そこには見も知らぬ一家が住んでいた。
母はいなくなってしまった、消えてしまった。
悲しみで呆然としてヘビ達の家へ戻ると――もうそこしか戻る場所がなかった――ヘビ女が歯をむき出し嬉しそうに言った。
僕の後ろには知らぬ間に家の護衛が付いていた。
「エリザはね、あなたを私に売ったのよ。あなたと暮らすよりお金を選んだのよ」
ヘビ女の両腕が僕の頭を抱く。
「可哀想に。私のかわいいこ」
何も考えられない頭に、女の言葉がヘビの様にするりと入りこんだ。
(母は僕を売った。かわいそうな僕)
ヘビ女――スリラと言うのが本当の名前だ――、と父の間に子ができず、僕を後継ぎにと考えたらしい。
実の子ではない僕をよくもあのヘビ女はそうする気になったなと思ったが、なんでも僕はスリラが父に初めて会った若い頃の父にそっくりで、おまけにその優秀さ――これは母が喜ぶから努力してきたのであって決してヘビ女の為なんかではない――はヘビ達の家、スナンザ家の発展に役立つと考えたらしい。
後になって話しをする様になった厨房の人達からそう聞いた。
もう、嫌だ。
ルッサも、父も、ヘビ女も。
大人の都合で今まで築いてきたものが、友達、生活環境、……親を信じる気持ちが、まるで意味がないものかの様に崩されるのは。
僕は自立を決意した。
年齢的に自立するにはギャングスタになるのが一番手っ取り早い様に思えたが、止めた。
それは誇り高きウラージオイヌのやるべき事じゃない。
せめてルッサとヘビの巣を離れられれば……そう思い、スナンザ家に馴染んだと見せかけてからしばらく経って、忍術専攻のフルガ交換留学に応募した。
スナンザ家のヘビども、特にヘビ女とその父は留学に大賛成で、影で手を回してくれさえした。
仲裁師の資格を得る事はルッサで権力を得るのに一番の近道であり、一家に一人強い仲裁師がいる事は、家の繁栄に繋がるのだ。
選ばれる交換留学生は、ルッサ全土、五千人を超える応募の中から年にたった一人。
でも関係ない、受かってやる。
そして権力でも知力でも筋力でも何でもいい、強くなる。
強くなる。
何からも影響されないために、自由でいるために。
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