1. 入るために試される

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 院長先生と寮母の悦子さんが前、世界は広いと言っていたけれど、俺にとって世界とは、物心ついてからずっと住んでいる児童養護施設の青草院、学校、それらのあるフルガの田舎町、そこで築いた人間関係、それにテレビや雑誌で知った人伝の世界が全てだった。


 それを不満に思った事というか、それ以外の世界にいる自分を想像した事すらなかった。確かにテレビや雑誌で色々な世界の存在を知る事はできたけれど、それらは一種のおとぎ話のように見え、そこに自分を当てはめる事はなかった。


 中学三年生になってから将来何になりたいか友達と話す事が多くなった。会社員、公務員、芸能人、スポーツ選手。俺はそんなぼんやりとした分類分けの中ですら、なりたい職業を見付けられなかった。


 でも、自然となりたい人物像は固まっていた。優しく強く愉快で聡明。

 キリウ兄の様な立派な大人。


 誰かから、例えたった一人からでもいいから、強く必要とされる人物。

 ……いらない、なんて決して言われない人物。


 進路を決める時になっても、なりたい職業も入りたい学校もよく分からなかった。

 けれど単純に、なりたい人物と同じ世界に入れば、そんな人間になれるんじゃないかと思った。


 だからキリウ兄のいる世界、仲養学校を受ける事にした。


 ――戦滅師でいる事がどんな事かも知らずに。



『ここがキリウ兄の世界なんだ』直也はそう思い、受験生用の余分な物の置かれていない待合室をきょろきょろと見渡した。


 水海みずうみ直也なおや、十五才。

 その年齢での平均身長と比べるとやや小柄だが、骨太でがっちり組み込まれた体に見える。やや目にかかる長さの真っ黒な前髪は真ん中で分けられ、全体的には前髪の長さに合わせながらも短めに切りそろえられている。

 辺りを見渡す表情は緊張のため強ばりながらも楽しげで、ぎゅっと結ばれた大きな口の両端は表情筋に深く埋まり、きゅっと上を向いている。

 落ち着きなく動く焦げ茶色の瞳は黒飴の様に艶やかで、好奇心が強そうな印象を受ける。


 待合室には直也を含め四人の受験生がおり、硬いパイプ椅子に座りながら名前が呼ばれるのを待っていた。


 受験は『国立 仲裁師養成専門学校』に入るためのもので、直也と同い年くらいの三人はみな面接と実技からなる単術入試を受けるためにここにいるのだ。


『キリウ兄はこの学校でどんなものを見て、考えてるんだろう。俺もこの学校で勉強すればキリウ兄みたいになれるのかな?』そう思うと、直也は無意識にキリウの様になりたいとはっきり意識した時の事を思い出した――



「――わざとじゃないって言ってるじゃん!」直也は涙で目が熱くなるのを感じながら、叫ぶ様に言った。


「だって直也、この前新しい竹刀欲しいって言ってたろっ。今のを駄目にすれば買って貰えると思ってやったんだろ」直也と同じく青草院に住む慎太が言った。


 受験日から約二年前、直也は日課である剣道の素振り中に竹刀の先を割ってしまった。青草院の狭い庭で竹刀を思い切り振り下ろそうとした瞬間、急に飛んできたカナブンを避け様とし脇にあった木に勢いの止まらない竹刀を変な角度で打ち付けてしまったのだ。


「違うよっ、木にぶつけたんだって言ってるじゃん! 虫を避けようとしたんだよ!」

 金銭面で院の運営が苦しい事を知っておりできるだけ院に負担がかからない様多くの事を秘かに我慢しているのにそう疑われ、直也は悔しくて悲しくて鼻がつーんとなった。


「竹刀って木にぶつかった位で壊れるものなん?」慎太は信じていないかの様に言った。


 周りにいる数人の院の子ども達も疑わしそうに見ている。院の子ども達の寝食の面倒を見ている寮母の悦子先生も、どちらかというと疑っている様に言った。


「直也君、打つようにできている竹刀が割れるなんて一体どんな風に木にぶつけたの?」


『悦子先生も信じてくれてない』一緒に暮らし、偶に怒られながらも姉の様に慕っている悦子先生にも信じて貰えず、直也は世界に自分の味方なんて存在せず、自分は本当に独りぼっちなんだと思った。喉が震え、涙が遂に溢れ出た。


「だいぶ痛んでたんだろうなー、その竹刀。俺のお下がりだからな」

 どこかのんびりした声がし、院の狭い裏庭に一人の青年が現れた。


「キリウ兄ちゃん!」その場にいた子ども達は声の主を見ると顔を一斉に輝かせ、叫んだ。


 キリウと呼ばれた二十代中頃の青年は、それまでの場の重い空気にまったく気付いていないのか、呑気に笑いながら子ども達の所へ歩いて行った。

 その姿は、袴に、ポニーテールの様なちょんまげ、腰には木刀と、今では儀式などでしか見かけないフルガの伝統的な格好で、そんな中かけられた大きめの野暮ったい眼鏡が少し浮いている。

 背格好は中肉中背だが、背筋が伸びている分しっかりとした印象を受ける。大きな口と大きな目を持ち、両方とも心と直結しているかの様にためらいなく表情を作りだす。

 真納まのうキリウは院の元生徒で、現在は仲養学校の教師をしている。

 憧れの的である戦滅師になっただけでなく、その養成学校で教師をしているキリウは、多少ひねくれた所のある院の子ども達から、肉親に対する様な無条件の信頼を得ていた。


「いつ来たの?」

「もう学校夏休み?」

「いつまでいられんの?」

「あたし、逆上がりできるようになったよ!」

「僕なんか逆立ち歩きできるようになったもんねっ!」

 子ども達は口々に言いたい事を叫ぶと、当然の事の様にキリウの周りを取り囲んだ。


「そーかそーか。頑張ったな。でもその話は後でゆっくり聞くから……」キリウは何人かの頭をぐりぐりなでると、剣道着のすそで涙を慌ててぬぐっている直也を見て言った。


「直也の竹刀をどうにかしないとな」


「えーでも兄ちゃん、わざとやったんだよ」慎太は直也をにらみながら言った。


「キリウさん、残念ですが私も同じ意見です。木にぶつかって割れたにしては竹刀の折れ曲がり具合が不自然ですし……」悦子先生も少し悲しそうに言った。


「だって、割れて板の所が飛び出たから戻せばまだ使えるかと思って思いっきり押し戻したんだ……そしたら反対側に折れ曲がっちゃった……」直也はキリウに涙をぬぐうところを見られて恥ずかしく思いながらも、この場で初めてのしかも心強い味方に安心したのか、幾分落ち着いて言った。


「はぁー」大きく息を吐いてキリウは言った。「ナオ、見た目だけ直しても割れたままの竹刀使うなんて危ないだろっ」


『キリウ兄ちゃんは僕の事全然疑ってない』直也はそう思うと、今度は嬉しさと安心感で涙が込み上げてきた。


「それに慎太、もう少し直也を信じてやれよ。友達だろ?」キリウは慎太の目を真っ直ぐ見て、さとす様に言った。


「だって兄ちゃん…」慎太はそういうとしばらく黙っていたが、しばらくして急に直也の方を向いて「ゴメンッ」と叫んだ。そしてそのまま走る様に院の中へと入って行った。


「直也君、話をよく聞かずに決め付けてごめんね。わたし、先生失格だわっ!」そう言うと悦子先生も顔を耳まで赤くさせ、内股気味にぱたぱたと走り去って行った。


 しばらく二人が行ってしまうのを呆然と見ていた残った子ども達は、気を取り直す様に一斉にしゃべり始めた。


「僕、ナオの事信じてたー」

「嘘付け!」

「きっと今夜ご馳走だよ! 悦子先生が自分の事『先生失格』って言った日はご馳走がでるんだよ! 知ってた?」


 キリウはあまりの元気の良さに苦笑しつつも「じゃ、夕飯楽しみだな」とか「そうかそうか」とかしっかりと返事をした。


 しばらくそうやってたくさんの球でやるピンポンの様な会話を続けた後、頃合いを見計らってキリウは言った。

「立ち話もなんだし、続きは夕飯の時にでも話そうな。俺は荷物を置いて、ちょっと休むよ」


「えー」と言う合唱の中、キリウは続けた。


「それと、直也。竹刀を直せるかも知れないから部屋まで持って来てくれないか?」

 ようやく涙の引っ込んだ直也は、「うん、すぐ持ってくっ」と元気よく答えた。


「ずりー直也」

「兄ちゃん、俺のランドセルも肩ん所千切れたー」

 子ども達はめいめい言いたい事を訴えつつも、キリウの旅疲れを気遣ってか、ぱらぱらと院の中に散って行った。


「兄ちゃん、竹刀持ってきた」

 竹刀を持った手でキリウの使う客間の戸を叩き、直也は言った。


 返事を待たずに中に入ると、キリウは、ソファーベッドに寝っ転がり目をつむっていた。眼鏡は外され、脇にある低めのテーブルに丁寧に置かれていた。


「ん、ナオか」眠そうに目をこすると、キリウは体を起こしながら言った。


 何秒が直也をじっと見詰めると、柔らかく微笑んだ。

「元気だったか?」


「僕、いつも元気だよ! 兄ちゃんは?」さっきまで涙を隠す事で精一杯でろくに挨拶も交わしていない事を思い出し、直也は言った。


「そうか、よかった。俺も元気だったよ」キリウはそう言うと、顔中で笑った。


「竹刀だったよな。どれどれー」直也から竹刀を受け取ると、キリウは竹刀の状態を真剣な表情で調べ始めた。


 直也はいつもの様に勝手にキリウの隣に座ると、キリウと竹刀を交互に見た。


「直也なー、ああいう場合、いくら悔しくても感情的に言わない方がいいぞ」

 キリウは竹刀から目を離さずに言った。

「ムキになって言われると、本当の事でも嘘だと思う人間もいるからな」


 一瞬何の事を言われているのか分からなかった直也だが、瞬き二回分後で、竹刀をわざと割ったのではないかと言われた時の事だと思い当たった。

 その時の悲しさと悔しさを思い出し、直也は言い訳をする様に言った。

「でも、本当の事言ったのに全然信じてくれなくて、悔しかったんだもん!」


「だから、ムキになるなよ」苦笑いしながらキリウは言った。


「じゃあ、どうすればいいの!」


「落ち着いてただ本当の事を話せばいいのさ。『お前何言ってんだ』位の余裕を持って、相手の目を真っ直ぐ見られれば完璧だな。いいか、ナオ、いくら筋が通った話でも言った方がムキになったりおどおどしてると、聞いてる方は『こいつ嘘吐いてるからこんな態度なんじゃないか』って思ってしまうもんなんだよ」


 話を理解するのに精一杯の直也は、しばらく黙った後に言った。

「でも、それって僕には難しい。……何か言われたら焦ってムキになっちゃうんだもん」


「まあ、初めは難しいかもな。でも、何か文句言われたらさっき言った事を思い出してみろ。ちょっとは役に立つから」

 ここでキリウは竹刀をテーブルの上に置き、真剣だった表情を柔らかくして直也を見て言った。

「俺の経験から言って」


「兄ちゃんも前はすぐ慌ててたの?」


「ああ。で、ナオ位の時に俺も先生にそう言われたんだよ」


「兄ちゃんも前は慌てん坊だったんだ。よかったー」憧れのキリウも昔は自分と同じだったんだと安心し、直也は笑いながら言った。


「よかないだろっ、これから変えた方がいいぞってとこなんだから」

 キリウは眉毛をハの字に曲げながらも笑って言った。それからあごに手を当て視線を空中に移ししばらく考え顔をすると、徐に直也の瞳の奥まで見通す様に言った。


「いいか、ナオ。お前は中学の同級生の誰よりも早く自立しなければならないんだぞ。十八過ぎたらもうここにはいられないんだからな」

 きょとんとしている直也に、キリウは含める様に言った。

「直也、お前は準備をはじめなきゃならない。強くならなければ、心も体も。そのためにも、もう今から自分の道を見定めた方がいい。勉強を続けたいなら奨学金がもらえるくらいの猛勉強を、働き出す場合は社会にでる準備を。……中学の友達と同じ様にはいかないんだからな」


 直也は友達と違うと言われた事に悲しくなり、頭を垂れた。


 キリウはそんな直也を励ますためか「まっ、金以外の相談なら何でも受け付けるから、そうしょげた顔するな」と少し淋しそうに笑い付け加えた。


 直也はこの時から『キリウ兄と同じ仲養学校に行けば強くなれるんじゃないかなあ』と、漠然と仲養学校への道を考え始めた。

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