第3話 仕事とプライベートは繋がっているものです
ガチャを引き終わったし、もう通れるようになっただろうと思い、
壁が在った場所に恐る恐る手を当ててみる。
すると、見えない壁はまるで最初からなかったかのように、
あっけなく私の手は壁を貫通した。
いや貫通したのだろうか?
柔らかな壁なんて触ってないかのようだった感覚だった上、
私の手は空間を超えている様には見えない。
ファンタジー映画や漫画なら空間を超えていると解る演出があった。
それは空間に波紋が広がったり、自分の手が見えなくなったりと色々あったと思う。
しかし、私の目にはそれらしい演出は全く映っていない。
いつも見ている私の手がそこにはあった。
今度は足を壁の向こうに出してみる。
また同じだ。足も何ともなく壁を通過したようだった。
……これなら大丈夫そう、かな。
そして、私は意を決して身体全てを壁の向こうへと突き出すと、
目に映ってきたのはいつもの通勤路だった。
高いビルに何台も通る車。行き交う人達……普段通りの日常が帰ってきた。
一応五体満足で帰って来れた事にほっとした後、辺りの人達を見てみる。
私の事は気にしてない様に見えた。
───私があの空間から脱出した時、この人達に私はどう見えていたのだろう?
何もない所から突然飛び出して来た様に見えていたのだろうか?
それとも……?
「……まぁ、考えても仕方ないか……」
小声でそう呟いて、私は軽くなったカバンを背負い直し、いつも通りに帰宅した。
家に帰った私は玄関のたたきに脱いだ靴をしっかりと並べ、
スーツをしわが出来ないようにしてハンガーにかけ、
着ていた残りの服をシャツと下着でちゃんと分けてから
ネットに仕舞って洗濯機を回した。
それからお風呂場に入り、シャワーを浴びて優雅に頭を洗い始める。
……今日、私はいつも通り疲れて帰宅している。
こうして疲れて帰宅した時は大抵、靴はポーンと履き捨て、
脱いだスーツは床に放り投げて風呂場に直行し、
着ていた残りの服はそのまま洗濯機にぶち込んていた筈だった。
なのに今、私はそれらをきっちりとこなしてから、
悠然とお風呂に入れてしまっている。
これは一体どうしたことだろう?
その答えはただ一つ。
──通勤が楽になったからだ。
重いバックを持ち歩いて満員電車に乗る行為は、
私には思ったよりもストレスが溜まる行為だったらしい。
以前に通勤時に抱いていた憂鬱な気分が軽くなったのを感じる。
それは微々たるものでしかないし、憂鬱なのは変わらない。
しかし、筋力の増強……ガチャの説明を引用すれば、
"ATK"が増した事は私にはとても有意義な事だった。
風呂から上がり、上がったATKを試す為、冷蔵庫を開く。
空けれなくなっていたジャムを手に取り蓋を回してみる。
カシュっと小気味いい音と共に簡単に開けることが出来た。
実にいい気分だ。明日はこのジャムをトーストに塗る事にしよう。
どうやらあのガチャの提供会社が言った言葉は本当だったらしい。
私はささやかではあるが、その時確かに幸せを感じていた。
次の日の帰り道、私はまたガチャ空間に誘われていた。
憎むべきこのガチャは相も変わらず【一回1000円!!!】と、
チープな演出の広告を液晶に映してガチャを引けと自己主張している。
私はゆっくりとガチャに近づく。
そしてカバンから財布を取り出し、千円を取り出し、
ガチャに千円を投入し、ハンドルを勢いよく回した。
…………我ながら馬鹿な事をしているとは思う。
なにせ私はあの時このガチャに心底恐怖し、激怒していた。
本当なら二度と視界に入れたくもないくらいだ。
でも、私は少しでも日々のストレスを和らげたくなった。
通勤が楽になったという、ほんの少しの生活の改善だったけど、
仕事が嫌で仕方がない私にとっては、諸手を挙げて喜ぶ程の出来事だった。
今までアロマセラピーやら、一人カラオケやら、温泉やら……と色々試したが、
短期的な安らぎは得られるものの、長期的ものではなかった。
それにアロマセラピーは結構お金がかかるし、
カラオケや温泉は仕事帰りには行く気になれないし、
休日は仕事疲れで外に出掛ける元気がない事も多い。
だからこそ、千円払うだけで劇的な改善が見込めるこのガチャは魅力的だった。
また脱出出来なくなる可能性はあるが、
その可能性を無視してでも引いてしまいたくなる程、
このガチャから出てくるアイテムは猛烈に優秀だ。
だから、こうして魅力に屈するのも仕方がない。
そう自分に言い聞かせて、私は少しワクワクしながら、
ガチャから出てきたカプセルを拾う。
二回目に引いたガチャの景品は"〈成長玉〉 ATK+2" だった。
少し逡巡した後、それが入ったカプセルを開けた。
またあのスーパーボールが淡く光り、身体に入って消えていった。
一度体験したからか、二回目は程よく落ち着いて一連の現象を受け入れる事が出来た。
直ぐにカバンを持って力を確かめてみる。
やっぱりまた軽くなってる……今度はもう割り箸を持っているかの様だった。
思わず笑みがこぼれる。
これを繰り返せば満員電車等という局所的地獄に乗り込まずに済み、
いつもと同じ時間で起床し走って会社に行けるくらいになるのでは……?
輝かしい未来を思い、もう一度ガチャを引いてしまう。
因みにもうガチャは一回無料ではなくなっていた。
だからこの時点で二千円を消費している。
次に出たアイテムはカプセルではなく、直接中身がガチャの排出口から地面に落ちてきた。
コンクリートの地面に落ちたというのに全く音がしなかった。
これまた微妙な超常現象に驚きつつ、私は排出された物を拾う。
これは……"剣"?
ガチャの液晶画面を見て、詳しい説明を見てみる。
そこにはこう書かれていた。
【N(ノーマル) トイソード 衛種剣モラスチュール】
カテゴリー:トイシリーズの一つであるトイソードは
実際にある剣を模造して作成されたものです。
トイソードは何の能力もない刃引きした鉄の剣であり、
安心して剣の造形美を愉しむ為の鑑賞用の商品となります。
模造物のモデルに関しましてはアイテム名の右端に記載された名前をご参照下さい。
……これは、所謂"ハズレ"というやつだろう。
私は剣なんて別に欲しくない。
そもそもなぜ重いものから解放されて喜んでるのに、
こんな見るからに重そうな物を出してくるのか。
嫌がらせなの?
っていうか、この剣抜き身で出てきたんですけど?
早くも提供会社が言った言葉を一時でも信用してしまった事を後悔した。
仕方なく出て来た剣を手に取ってみる。
……思ったよりは重くないが、それは私のATKが上がっているからなのだろう。
本当なら鉄で造られた剣をこんな風に片手で軽々と持つ事は出来ない筈だ。
見た目は本当に美しい西洋剣だ。剣の柄も鍔も意味ありげな装飾と文様が刻まれており、
緑がかった刀身は自分の顔を映すほどに磨かれている。
造りが凝っていると素人目でも判る一品だと思う。
本物はもっと綺麗なのかな……?
刃渡りは80cmくらいだろうか。
刃を潰していると言ってもこれで殴られたら人は死んでしまうだろう。
──え? 刃渡り80cm?
いや、ガチャから出てきた時、この剣はそんなに大きくなかったような気がする。
というかこんな物を持っていたら普通に銃刀法違反では……?
「……うん。考えても仕方ない……」
細かい事は気にしないようにし、
剣を地面に置いて三回目のガチャを回した。
「うわっ! うるさっ!!」
急にデッテテー! ジャンジャカジャンジャジャーン!と、騒々しい音がガチャから鳴り出した。
耳を押さえながら液晶画面を見る。
画面には【SSRゲット!!!】とでかでかと表示されており、
程無くしてスーパーボールが入ったカプセルが出て来た。
液晶画面の表示が切り替わり、商品の説明画面になる。
【SSR(スペシャルスーパーレア) 成長玉 AGL+10】
成長玉はステータスUPアイテムです。
ステータスUPアイテムはお客様の身体能力を高めるアイテムとなります。
使用するとアイテム名に記載されている各ステータス値の横にある数値分、
お客様のステータス値(身体能力)を上昇致します。
AGLの場合、お客様の素早さと回避力が増強されます。
同じステータスUPアイテムで、
スーパーボールっぽい見た目も変わらないが、"ATK"ではない。
初めて見た種類のステータスUPアイテム。
しかも数値が二桁のアイテムに私は少しワクワクしてしまった。
もう三回目になると躊躇する気は起きなくなってしまっていた。
私は嬉々としてカプセルを開ける。
また同じくスーパーボールが光って私の身体に入って消えていった。
回避力はよくわからないが、素早さはこれで上がったらしい。
今日は昨日の教訓を活かして蹴りやすいシューズベルトが付いた
ウエッジソールのパンプスを履いてきている。
素早さが上がったどうか、早速試せる状態だ。
試しに軽く走ってみようと私は足を踏み出した。
「わっ! おっ、とと。危なぁ……」
踏み出した途端から想像したよりずっと早いスピードで走れた為、
心が追い付かずに危うくこけそうになってしまった。
一息つき、私はさっきの感覚を思い出しながら今度はゆっくりと走り出してみる。
────早い。早い。
自分の足を動かせば動かす程、周りの景色は早く移り変わっていく。
私の足なのに、私の足じゃないみたいだ。
自転車を漕いだ時の様に過ぎていく光景が映り、心地いい風圧を感じる。
勿論以前はこんなに早く走る事は出来なかった。
その不思議な感覚のズレは私の心を楽しませてくれた。
走れば走る程、ビルや車、そしてすれ違う人達がとても早く流れて──
──って……あれ?
おかしい。なんで人がいるの?
私はあの謎空間にいる筈では……?
そこでやっと気づいた。
前に調べた時、あの謎空間は五,六メートル位の広さしかなかった筈だ。
こんなに長く走れる程広くない。
私はとっくにあの空間から飛び出して、
沢山の人が行き交う歩道を駆け回っていたのだ。
「───恥っずぅう……」
思わず崩れ落ちて真っ赤になった顔を押さえる。
いい年した女が笑顔で全力疾走しながら、
町中を駆け回った光景はさぞ滑稽だっただろう。
いや、全力疾走ではなくジョギング程度の感覚だったけど、
多分かなりのスピードだったから恐らくそう見られていた気がする。
そして私はカバンを持たず、手ぶらでここまで走って来た事を思い出す。
……大勢の人に見られたであろうこの走った道を戻らないといけないのか……
私は顔を熱くしながら、今度は早歩きでガチャ空間がある場所まで戻った。
そしてガチャ空間に入ろうとしたが、何故か入れない。
「え? 嘘? なんで? ここの筈よね……?」
確かにここに在った筈なのに。私は右から、左からと入ろうとしたが、
やっぱりそこに在る筈の空間に入る事が出来ない。
そこでその最悪の可能性に気づいた。
「ま、まさか……あのガチャ空間って一日一回しか入れないの……?」
そんな条件があるなんて。
私は愕然とし、その場に立ち尽くしてしまった。
「……どうしよう」
私のカバンが監禁された。
救出方法は──ない。
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