上4

復讐、人殺し。ドラマや映画なんかでよくセリフとなっている。

画面の向こうで役者たちは、

「復讐は何があっても絶対にしちゃいけない。」だの「復讐してもなにもならない、虚しくなるだけ。」だの

「人殺しはどんな理由でも許されない。」とか「人を殺すと手が震える」とか綺麗なセリフを吐く。

悪役に向かって、説教臭く。

人を殺し、復讐を成し遂げて分かった。ほとんど綺麗ごとだ。復讐は別に躊躇なくしてもいいと今でも思うし、なにも虚しくならない。

復讐を果たして後悔したことといえば、あの場で強い怒りと恨みに任せてあいつらをすぐに死なせたこと。もっと冷静になっていれば

じっくりと嬲り殺しにできた。水魔法で窒息させたり、ペンチで指を全部折ったり、全員の目玉をくり抜くこともできたと思う。

最初に氷の棒で殴って一人即死、もう一人は頭からコンクリに叩きつけて即死。これも少し後悔している。だが今更そんなこと気にしても仕方ない。

それにしても手が今でも震える。どうやら「人を殺すと手が震える」というセリフは本当らしい。

多分、人としての遺伝子が、人殺しに拒否反応を示している。どんな生物でも、自分らの種が繁栄するように本能に組み込まれている。

人殺し、つまり同種を殺すということは、その本能に逆らってるともいえる。だから手が震える。

そして、俺は人を殺して許されるとも思ってない。法の裁きは遅かれ早かれ受けることになる。だが俺にはまだ殺したい相手がごまんといる。

完全に逃げ切るとなんてつもりないが、せめてそいつらを一人残らず殺すまで捕まるわけにはいかない。時間は必要だ。

午後8時、征夜はそんなことを思いながら自転車をこいでいる。服は下着も含めてすべて着替えた。血とか白いものとか汚物が付着したものはすべて捨て、

死体と一緒に燃やした。この自転車に汚物が一切付着してないのが幸いだった。

井魔戸についても、誰も征夜がさっき人を殺してきたなんて、疑う人間はいない。

「ただいま。」

「おかえり、征夜。ねえ、夕飯、食べる?」

「ああ、食べる。」

そして素材の味しかしない夕飯を食べる。

「ねえ、明日また昼とか夜にまた集まって遊ぶんだけど、征夜くる?」

「いや、いい。前にも言ったけど、遊びに井魔戸に来てるわけじゃない。」

「それは分かるけどさ、たまには来てもいいんじゃないかって思うんだ。それは征夜が楽しむためじゃなく、みんなを楽しませるためっていうかさ。」

学校で聞く"みんな"という単語は征夜にとって嫌悪感しかなかった。だが集まりにおいて"みんな"と言われても、別に嫌な気はしなかった。

だから行っていいんじゃないかと思った。

「それに春原も会いたがってたし。ほら携帯見てよ。」

「ほんとだ。すげえメールが。...うん分かったよ。明日行こう。昼でいいか?」

「うん!決まりだね。」

夕飯を食べ終わると、

「征夜、風呂も沸いてるから、先は入りなよ。」

「ああ、ありがとう。」

そうして風呂場に入れば、鏡を見て驚愕する。服はすべて着替えた。凶器も地面に埋めて隠した。誰にもバレてない。

だが顔と髪に血が付着していた。一目でわかるほどに、顔と髪が一部赤に染まってる。自転車をこいでいた時間帯が薄暗い夜でなければ、すぐ誰かにバレていた。

いや、すでにバレている。この明るい部屋の中、たった一人に...。

「ナギ....。」

そうして風呂に入って、寝た。あの殺人の光景が夢に出てくるかと思ったが、そんなことはなく。朝起きたらすぐ忘れる程度のしょぼい夢だった。


朝ごはんを食べたあと、暇つぶしに隣の部屋で勉強をしていた征夜。だがそのとき、

ピンポーンとインターホンが鳴った。

「私が出るね」とナギ。

ガチャっと音がする

「朝からすいません警察の者ですが。」

そう声が聞こえた。征夜はこうなることはある程度覚悟していた。

しかし少し焦る。それは警察が来るのがあまりにも早すぎるという焦り。

正確に言うと、ここで捕まればこれ以降の復讐ができなくなる。もし捕まえる兆候が見られれば、最悪警察を魔法でどかしてでも、今日中に全員殺しに行かねばならない。

という覚悟と、焦りが加わった気分。

「あれ?ご両親はいま仕事ですか?」

「いや、ここは私一人で住んでます。」

「進学のため井魔戸に一人暮らしなのかな。まあいいや。」

そして警察は続ける。

「"くまだぼたん"って知ってます?」

「??いや全然知らないです。」

「まあそうだよね。うん、すみませんね朝から。ご協力ありがとうございました!」

少し胸を撫でおろした気分だった。完全に別件だった。くまだとかいうよくわからない人物の。

今日は復讐はやらない。さっきみたいに警戒されるとまずい。機を見て決行する。征夜はそう決めた。


そして昼になった。みんなでコンビニに集まる。

「よお征夜!一週間ぶりじゃねえか!」とあいさつしたのは春原。

「ああ、だがまだ一週間経ってないぜ。」

「細けえこと言うなよ。」

「あ、そういえば征夜、これあげるよ。」

そういって渡してきたのはビデオ。

「え?なんのビデオこれ?」

「"インファイター"っていう格闘大会。結構おもしれえぜこれ。」

「格闘大会ねえ。」

「正統派の武道を習ったお前には縁遠い話だろうが、これはアウトロー同士の戦いなんだよ。ガチで面白いから。」

「分かった分かった。帰ったらすぐ見るよ。そういやいつもの3人は?」

「あいつら?あいつらは今日はいいってよ。」

「そうか。」

そうしてハンバーガー屋で昼食をとった。

そしてゲーセンに行く。春原ともう一人はガンシューをやり、後ろで征夜と5人ほど飲み物を持って固まって喋っている。

「征夜、なんで家出したの?親の事情?」と一人が。

「まあ、そんなところだ。あんたもか?」とコーラを飲みながら答える。

「うん。ウチさ、3日に一回くらい父親にやられてるから。」

「やられてるってなんだ?暴力か?」

「うん、それもある。あとはもっと違う方法でやられてる。」

「違う方法?ほかにもあるのか?」

そこで春原が口を開く。

「レイプだ。言わせんなバカ。」

「...そうかよ。」

「あいつだけじゃない。この集まりにはもっとヤバイ境遇のやつもいる。お前も分かってるだろ?」

「まあ、そうだけどな...。」

「どうした?」

「いや、なんでもない。」

この井魔戸に集まる人間は、みな大なり小なり問題を抱えている。その問題というのは誰もが抱えてるとかそういう話じゃない。

もっと常識の枠をはるかに外れた問題。いわゆる"普通の人間"には一生理解できない。征夜もそれを分かってたつもりだったが、

実際の内容を耳にすると予想の斜め上というか、発想すらしなかったものだった。

多分これを聞いた"普通の人"は、これを冗談とか話を盛ってると疑うか、今すぐ警察に言おうと促すだろう。

でも征夜は分かっていた。警察に言うという方法はすでにとったはずだし、それでもなに一つ変わらなかったからこっち(井魔戸)に来てるんだと。

いろいろおしゃべりとゲームをやり、解散したのは午後4時。外は薄暗く、雲は一面に広がり、鉛のように重たい空気があった。


午後4時。笹羽中、6限終了のチャイムが鳴る。優は部室に行く。今日は優が一番乗り、そして次に相田が来た。

「あれ、今日の2番乗りは相田ちゃんか。」

「お疲れ、優ちゃん。」

「うん。」

「今ここにいるのは私と優ちゃんだけだよね。」

「そうだよ。なに?なにか聞きたいことでも?」

「うん、ずっと気になってることがあってさ。1年前、私たちが愛伊奈をいじめてたとき、あいつの机にみんなで彫刻刀でいろいろ彫ったよね。」

「うん。」

「あれさ、なんでバレなかったの?私たちが彫って、それどころかほかのいじめも色々してたって。あいつが死んだあと、机もすぐ先生に回収されたよね。」

「...そうだね。まず、あたしも闇雲に彫ってやろうってわけじゃない。一応タイミングを見計らってやったつもりだよ。あいつの思考が鈍って、先生に机のことを言う発想すらできないタイミングをね。」

「いや、それでもさ、あんな目立つように派手に彫ったわけだから、先生が通っただけで気づくし、実際机ごと回収されてる。それでもバレないのはいったいなんでなの?」

優が口を開く。

「それが"暴力"だから。」

「え?」

「正直、あんな小細工しなくても、仮にバレたところで誰も何も言わないよ。たとえ一人自殺に追い込もうが、一人いじめ倒そうが、誰も咎めない。だってあたしの暴力が怖いから。

殴られたくない、蹴られたくない、真法をぶつけられたくない。下手したら殺されるかも。そんな本能的な恐怖心一つで、人の正しさもルールも簡単に捻じ曲がる。それが暴力というもの。」

優はさらに語気を強める。

「現に網田も先輩も、あたしには気を使った。あたしさ、上下関係とか大っ嫌いなんだよね。小学校までは1年と6年の年の差だろうがお互いため口だったくせに、中学に入った途端先輩とか後輩とか言い出してさあ!

それで歳が一つ上なだけで"先輩"と呼んで敬語使うとか、先輩の言うことには脳死で従えとか、ほんとに馬鹿じゃないの!」

そして熱が冷めた顔でこう言う。

「だから曲げてやった。」

「曲げるってそんなことできるの!?」

「できる。てか現にしてるじゃん。思い出してよ。あたしらが1年、2年のとき、あたしは3年に敬語なんか使ってなかったよ。」

「まあ、言われてみれば使ってなかった気がする。」

「あのときの3年って敬語かタメ口かすごい敏感でさ。誰かちょっとでもタメ口が出ちゃうと"なに?タメ口?"とか言ってくるんだよ。」

「でもあたしは例外扱い。この意味わかる?」

そのとき、部室のドアがガラッと開き、ぞろぞろと部員たちが入ってくる。

「おっともう時間か、よし切り替えてやりますか!」

そして舞踊部の練習がスタートする。ウィンターコンクール個人の部に出場する部員たちは各々の課題曲の練習に取り組み、残りは団体戦に向けての練習。

団体戦の部員たちは炎真法の精度と動きをとにかく高めて、団体としての踊りをより完璧に近づける。

個人戦の部員たちは無論それ以外も練習する。水、雷、氷。特に優は課題曲の都合上、雷と氷に限定して練習をする。

真法の難易度というのは、氷>雷>水>炎の順で難しくなっていく。未経験に毛が生えた程度の1年も混ぜて踊るという都合上、団体戦はどうしても炎のみで

踊らざるを得ない。

対して優の真法の精度はずば抜けていた。氷、雷を自分の手足のように扱えるのはもちろんだが、真法の出し方にもかなり工夫をこらしてる。

通常、真法というのは自身の手足から出すのが基本とされている。単純に直感的に真法の出力元がわかりやすく、真法を出す方向も調整しやすい。

例えば、炎真法をまっすぐ前に飛ばそうとした場合、自分の手のひらを前に向け、腕をまっすぐ伸ばす。そうすると、炎が手から出てまっすぐ進むというイメージがしやすく、

明後日の方向に飛びにくくなる。

この基本を無視し、自分の体勢とは無関係に真法を精度よく出す、あるいはそもそも自分の体から出さず、壁や地面から生えるように出したり、何もない空間に生み出したりするのが上級テクニックとなる。

さらにその先の領域も存在する。それは真法が壁や地面と"接触してるように見せる"テクニック。真法はどこかに接触するとその瞬間消えるものだが、逆に言えばどこにも接触させず、

浮かせるように出せばその真法は存在し続ける。

例えば薪から炎が出ていたとする。その炎はじつは真法で、薪との空間を2~3ミリ開けることで本物の炎が上がっているように見せかけられる。

またさらにほんの一握りの人間にしかできない領域がある。

例えばバケツに水が入っていたとして、誰もがその水を本物の水だと思う。だが実際触れてみると痛みが走り、その水は消えた。

なぜ誰もがその水を本物の水だと思い込んでしまったのか。もしこれが真法の水だったとしたら、バケツと水の間に少なくとも2~3ミリの空間ができる。

その空間がどうしようもない違和感を生み、真法だと気づく。今回はその隙間が無かったから、誰もが本物の水だと思った。

ではなぜ隙間がないのに真法の水だったのか。それは実際には目に見えないほどの隙間が空いていたから。それは0.01mm以下の隙間。真法の精度を極限まで高めた人間のみできる領域。

ここまでできるのは仙道優、仙道征夜、仙道正道くらいしかいない。

そうして舞踊部を終えて、家に帰ると玲と、愛美と、珍しく正道もいた。

「おかえり、優姉。」

「うん、ただいま。」

愛美が正道に話しかける。

「ねえ、そろそろ1週間経つし、やっぱり警察に探させてもらったほうがいいんじゃない?」

「そうするか。確かにあいつのことが心配だし、あいつが人様の迷惑になってるかもしれないからな。」

「征兄は誰にも迷惑かけてねえって大丈夫だって!」と玲。

「ああ、そうだな。優も、あいつに早く帰ってきてもらったほうが嬉しいだろ。」

「そうかもね。」


午後6時45分、ゲーセンから返ってきてトレーニングしていた征夜は、ふと春原からもらった"インファイター"のビデオを入れた。

"インファイタースペシャルマッチ! 元カラーギャング古久佐昌vs吉高実!"

カラーギャング?ああ、だからカラギャンなのかと征夜は納得していた。試合が始まると、意外ともいえる内容に愕然とする。

試合は武器を使わなければ基本なんでもありらしい。もちろん真法もあり。だが真法はおろか、打撃、投げ技、締め技

試合においてあらゆるレベルが低すぎる。こんなもの征夜の戦っている全国大会やインターハイクラスであればものの5秒で倒されるだろう。

だがその30秒後、選手の質とは別の方向で驚かされる。審判が全くダウンもブレイクもとらない。相手が倒れるや否や馬乗りで殴りつけるどころか、

サッカーボールのように蹴り飛ばしたり何度も踏みつけたり、真法武道なら一発アウトな攻撃でも審判は止めない。審判のレベルも低いのか?と思った。

しかし相手の意識はまだある。そこに追い打ちをかけるかのようにチョークスリーパーをかける。苦しそうな相手だが反撃もできず、とうとうタップしてしまう。

だが審判は止めない!本当に危ないラインで下手したら死ぬのに。やがて相手の意識が抜けて力が無くなる。審判はここまででやっとダウンと宣言した。

ここまで見て征夜は思った。この不良どもによるエセ格闘大会は、単純にダウンをかける基準が高すぎる。まるで命の奪い合いをしているかのように、

死の直前で意識がつぶれるまで試合は続行される。それが後に後遺症を残そうが、最悪死のうが多分お構いなしだ。

ここに参加している人間全員トチ狂ってる。だが征夜はこれに価値を見出した。

それは殺し合いのテクニック。試合じゃないなんでもありの状況下において、どうすれば相手に死に直結するダメージを追わせられるのか。

どうすれば相手を壊せるのか。それは真法武道では全く学べなかったからだ。

"さあ次の試合は、元外人部隊三鷹孝二vs金茂拓斗!"

試合開始、三鷹は真法を使わずいきなり距離を詰める。金茂は打撃で迎撃するもしっかりガードされ、首を掴まれる。

そのまま頭突きを入れる。金茂の鼻にヒットし、パキッという音が響く。そこからつながるように目つきを出す。

それは無情にもクリーンヒットし、たまらず金茂は目を抑える。審判がほぼ機能しない以上いくら抑える仕草をしても隙にしかならない。

そして後頭部にハイキックを入れ、金茂は倒れた。これはダウンなのか、死んだのか区別がつかないほどの倒れ方だった。

征夜はこの三鷹の戦い方に驚いていた。ほかの選手とは違い、戦いの中での動きはしっかりしている。終始反則技のオンパレードだったが、

ひとつひとつの技の出し方や当て方が綺麗で、一つの型として成立している。この型を何と呼ぶのか知らないが、復讐のための殺人術はここから学べると思った。


翌日、征夜はまた集まりに顔を出した。もちろん春原は今日も来ている。人数は征夜も合わせて5人程度。

「今日は金ねえしコンビニで食おうかな。」

「いや、今日は人少ないしアタシが奢るよ。」そう提案したのは佐舞だった。

「マジか!助かる!」

そうして来たのはファミレスだ。

「春原、これ返すよ。」

「ん?ああ、インファイターか。いいよ返さなくて。やるよ。」

「そうか。」

「なあ、どうだったそれ。気になった選手とかいたか?」

「ああ、元外人部隊の奴は興味がわいたな。」

「それって三鷹か?」

「ああ、確かそんな名前だった気がする。」

「三鷹かー。確かに征夜が好きそうではあるなー。ほかの選手は我流の喧嘩殺法とかボクシングかじった程度だけど、あいつだけ経歴違うもん。」

「なあ、あいつの戦い方はなんなんだ?反則技の連続のくせに戦い方としてちゃんと成立してる。まるでそういう格闘技があるかのように。」

「ああ、あれな。確かなんて言ったっけ...。佐舞!」

「ああ三鷹のあれでしょ。あれは軍隊格闘技"マリノブ"。」

「そう、それだ。」

「軍隊格闘技?」

「そう。通常の格闘技と違って、相手を殺すための格闘技だね。」そう佐舞は応える。

「なかでもマリノブはヤバいね。あれってもともと外国の少数民族が政府軍に立ち向かうために編み出したものらしいんだけど。

後頭部に打撃はまだいいほうで、目つき、金的、相手の指を全部折るとか鼻や耳をもぐとか、相手を殺すだけなら必要ない、

無駄な攻撃を積極的に取り入れている。これはその民族の怒りと恨みの表れ。相手を苦しませて嬲り殺しにしたいという思いが型に反映されてるかもしれない。

しかもこれすごく難しいよ。完全習得までどんな天才でも3年はかかると言われてるし。」

「そうか。でも俺、どうしてもあの軍隊格闘技を習得してえんだ。別にマリノブじゃなくてもいいから。」

「ならちょうどいいじゃん!アタシさ、前に元自衛官だって言ったでしょ。自衛隊式格闘技なら教えられるよ。正確には、"自衛隊で採用予定"の格闘術だけど。

マリノブと似たようなこともできるよ。」

「そうか。ならぜひお願いしたい。」

「オーケー、分かった。ただ一つ言っとくと、軍隊格闘技って本当に危険だから、あらかじめアタシが見本として見せる相手を用意しなきゃいけないし、

練習の過程でキミが死んじゃうかもしれないけど、そこだけ分かってね。」

「ああ、もちろん覚悟してる。」

「どうせレッスン料取るんだろ佐舞?」と春原。

「レッスン料?」

「ああもう余計なこと言わない春原。確かに場所借りたり人を用意するから料金はとるけど、キミから直接取ったりしないからそこは安心して。」

「じゃあ誰かが代わりに払うってことか。」

「そうそう、あとで熊田って人に立て替えてもらうから。」

「ああ、熊田で思い出した。キミさ、井魔戸に家出してからもう1週間経つよね。」

「ああ、ちょうど1週間だ。」

「ならそろそろキミの親から捜索願を出されてるんじゃない?」

「捜索願?」

「うん、アタシも井魔戸で色んな家出少年を見てきたけど、親から警察に捜索してほしいって依頼が来るのは、家出してから大体1週間後が目安なんだ。」

「そうなのか。」

「うん、征夜はさ、もし両親がここに来て、連れ帰るとしたらどうする?」

「俺は死んでもあの親の元には帰らねえ。もし帰らされることがあればそのときはころ」

「うん、わかったわかった。そうだよね。嫌だよね。」

「アタシさ、知り合いに警察官がいるんだけど、アタシのほうから征夜を探さないように伝えることもできるんだ。」

「そうなのか?」

「うん、だからさ、どうする?伝えとく?」

「ああ、頼む!というかそれも料金かかったりするのか?」

「おう!正解!いいか征夜、これは本来何万とかかる」

「ちょっと黙ってて春原。」

「はいはい。」

「征夜、正直に言うとこれも本来料金がかかるものなんだ。知り合いと言ってもそこまで親しくないし、悪い言い方をすれば"わいろ"という形でお金を払う必要がある。

でもそのお金も、レッスン料と一緒に熊田から立て替えてもらうから大丈夫なの。」

「そうなのかい。」

それにしても熊田という苗字はどこかで聞いたことある。

「なあ、その熊田って誰なんだ?」

「熊田って人はね、この集まりの一部が住んでるアパートとかマンションの部屋のオーナー。

アパートまるまる2棟と、マンションの部屋3部屋買ってる。あと集まりの子たちの生活費も面倒見てる。結構なお金持ちでしょ。」

「まあな。てことはナギの部屋もそうなのか。」

「うん、もちろん。」

「ふーん。」

「んじゃ、征夜、練習は明日にはできるように準備するから。9時にコンビニ集合ね。遅れないように。」

「ああ。」

昼食を終えて店を出る。

「征夜、ゲーセン行くか?」

「いや、いいや。今日はまっすぐ帰る。」

「そうか、じゃあな。」

「ああ。じゃあな。」

あれ?なんだろう今のやり取り。今の短いやりとりをしていて、心に何も不安なこととか、嫌なことが無かった。"友達"と一緒にご飯食べて、一緒に遊んで、

たまには遊びを断って家に帰って、帰ったら温かく迎えてくれる親(ナギ)がいる。学校には行ってないけど勉強はして、いつもの癖で日が変わった3時に寝ようとしたら、

「夜更かしはダメだよ。」と言われ10時半には消灯して寝かされる。帰るべき場所があると心の底から思った。これが"世間の言う普通の生活"なのか?

帰ったらクソ親父クソお袋が待ってるから帰りたくない、学校はクソ教師クソ同級生がいるから行きたくない。ほぼ毎日痛い目にあう不幸な目にあう。

こんな毎日は普通じゃなかったっていうのか!?俺も"運命"が違えばこんな学校生活を毎日送れたって言うのか!?たかだか運が悪いだけでここまで違う人生を送らされたってのか!?

そんなことを征夜は思っていた。ただ同時に、今更そう思ったところでどうにもならないということも理解していた。

征夜は今までの人生を生き地獄だと思った。ただその生き地獄には糸が垂れ下がっていた。その糸は玲や優の優しさ、仙道家という金持ちの家系、そして真法武道最強という称号。

ただその糸を征夜が登ることは叶わなかった。生き地獄の中彼はその糸に向かってじりじりと進んだ。それが希望だと信じた。だが糸を掴んだ瞬間、地獄の鬼どもに後ろから掴まれ、

引きはがされる。そして彼はまた糸に向かってゆっくり進む。これが唯一の希望だと信じていたから。だがその間、鬼どもは何度も金棒で征夜の背中を叩きつけ、地獄の業火で焼いた。

なにも抵抗できなかった。糸に向かって進むことに力のすべてを注いでいたから。これをずっと繰り返していた。でもあるとき彼は気づく。なまじ糸があるから無限に、無抵抗に背中を焼かれ続けるんだと。

次に彼が糸にたどり着いたとき、その糸を掴んで目いっぱい引っ張った。糸は天の根元から引きちぎれ、抜け出す方法は完全に途絶えた。だが彼はこれでいいと思った。

そして振り返り、鬼どもと正面から向き合う。そして鬼どもに向かって走っていった。手には拳を握り、体中から真法を出しながら。


そして家に帰る。

「おかえり、征夜。」

「ああ、ただいま。」

一つ、意外なことがあった。あの6人をまとめて殺してからもう2日経つが、いまだテレビでその事件はニュースになってないし、そんな様子は一切感じられなかった。

だが警察の捜査が始まり、ニュースにも出るのは時間の問題だろう。なにより血と臓物にまみれた凶器をどうするかは当初困った。苦肉の策で地面に埋めたが、

正直これでどこまで誤魔化せるか分かったもんじゃない。そんな中、征夜には確かな確証があった。氷の棒であの6人を襲撃したとき、しっかりと相手にダメージは入っていた。

結果的に一発で棒は砕けたが、一人を即死させることもできた。つまり凶器は魔法の氷でも代用できる。あとは氷の強度さえ上げれば、それは鈍器にも、鋭利な刃物にもなるはずだ。

即席で出すことができるし、なにより溶けて水になれば証拠が一切残らない。これに可能性を見出した。

「なあ、ナギ。」

「なに?」

「氷の魔法だけどさ、あれって強度を上げることってできるか?」

ナギはこう答えた。

「できるよ。もちろん。」

「ほんとか。」

「うん。どれくらい強度が欲しい?」

「硬ければ硬いほどいいが、最低でも鉄くらいの強度は欲しい。」

「うん、分かった。氷くらいならベランダでも練習できるから、練習したかったらいつでも言って?」

「ああ。今でもいいか?」

「今?もちろんいいよ。」

征夜はこの日から自衛隊式軍隊格闘技と、氷魔法の強化を同時に練習することになった。


2日後の日曜日、優は部活の休憩時間、トイレに行っていた。そこに入ってきたのは相田。

「よう、相田ちゃん、最近会うね。」

「うん、そうだね。」

手を洗いながら、相田は口を開く。

「ねえ優ちゃん、また聞きたいことがあるんだけど。」

「なに?」

「いや...あっと...えっと......私さ...、優の....その.....暴力でなんでも捻じ曲がるってことがよく分からなくて...。」

「うん。」

「本当にそんなことできるのかなって....。」

「そうだね。ところでさ、相田ちゃん。相田ちゃんがその話を切り出したときさ、すごく躊躇ったでしょ。えっと、とかあっととか。」

「え、うん。まあ。」

「そもそもあたしにその話を切り出すかどうかもすごく悩んだと思うし、言葉もすごく選んだと思う。」

「うん。それはそうだよ。」

「なんで悩んだの?なんのためらいもなく聞いちゃえばいいのに。」

「それは...、あんまり暴力がどうこうって聞くことじゃないと思うし、正直なところ、その話をしたらどうなるか優ちゃんが怖かった。それが一番だった。」

「それが暴力の効果なんだよ。」

「え。」

「もし校則で、暴力絶対禁止、っていうものができたとして、いや今もあると思うけど、相田ちゃんはあたしに正直に言える?暴力は絶対禁止だって。

正直に言ったらあたしは愛伊奈とか佐分田とか笹岡みたいに痛めつけていじめるかもしれない、ってなったら?」

「い、言...え......。」

「うん、まあいいや。明日月曜日だよね。暴力でなんでも捻じ曲げられるってことを実際に証明してあげるよ。」

「え?どうやって。」

「明日のお楽しみ。」

「そう、わかった。ところでさ、」

「うん?」

「笹岡って誰?」

「うん?いや、なんでもない。忘れて?」


そして月曜日、優が教室のドアを開ける。一目でわかる。紫のパーカーを制服の上から来ていた。

「え!?あれ?優ちゃん!?」と驚愕する相田。

確かに今は12月。コートで登校してもなんらおかしくない寒さではあるのだが、私服のパーカーで来るとは思わなかった。

一応部活のウィンドブレーカーはあるのだが、まさかパーカーで来るとは予想外だった。

「おはよう優ちゃん!どうしたのそのパーカー。」と須沢。

「ああ、これ?これ去年に買ったやつなんだけどさ、すごい気に入ってるから着て来ちゃった。」

「そうなんだ。」

クラス内の人間は、誰も咎めない。一度は優に目を向けてはいるものの、みな目を逸らす。パーカーについて話しかける人間はいるにはいるが、パーカーどこで買ったのとか、

デザインがいいとかの話だけで、パーカーそのものが着ちゃいけないという話をする者は誰一人いなかった。

そして担任が入ってくる。

「おはよう、ってあれ?優?パーカー?」

ここで担任がようやくパーカーのことに触れる。

「そうですね。」と優。

「いやちょっとうーん。冬とはいえそのパーカーはさすがに...。」

「まあいいじゃないですか。もうすぐ私たちウィンターコンクールありますし、卒業前の最後の思い出作りも兼ねて。ね。」

「うーん、ちょっと考えさせてください。」

「先生!卒業の思い出作りだったら俺らも着ていいですよね。」と提案してきたのは伊部。

「ちょっとそれも考えさせてください。」

おおーーっとクラス中の声が湧き上がる。

「ナイス伊部!」と優。

「いやお前こそ、よく先陣を切ってくれたよ。」

「え?、え??....え?」

その光景を見て相田は一人困惑していた。

そして優が廊下を歩いてるときにも、もちろんほかの生徒に見られている。見れれるのだが、たった一瞬だけ見て、すぐ目を逸らす。

目を逸らしてひそひそ優がどうだのとも言わない。むしろ優の名を一切口にせず、話題にすることを避けているかのように別の話をする。

網田、町久に関しても反応はそこまでだった。彼らもまずパーカーのデザインの良さを褒めて、うっすら注意するにとどまり、

最終的には優に言いくるめられて、卒業までは思い出作りのために許可してもいいんじゃないかと、そう言わせるのであった。

気づけばパーカーはダメだという人間は誰一人いなくなっていた。むしろ今後私服を特別に一部許可するかどうか、そういう話にシフトする始末だった。

「ほら言ったとおりでしょ?」とばかりに相田にニコっとする優。相田は認めるしかなかった。

家に帰り、夕飯を食べ、風呂に入る。体と髪を洗い、湯船に入る。その間、優は思っていた。

ほら見たでしょ、やっぱり暴力一つでルールだとか空気だとか全部曲げられるんだよ。多分相田ちゃんは、「じゃあ先生に暴力振るったの?」というだろう。

無論最終手段としてその選択肢もあるけど、直接手を出さなくても暴力の恐怖を感じさせる方法はある。それは誰かを執拗に痛めつけて、その光景を見せるということ。

現にあたしは、愛伊奈を自殺に追い込むまで痛めつけ、佐分田を今でも痛めつけている。そのことを先生から直接注意されたことはほとんどない。

あるとしても今日みたいに軽い注意だけ。先生も思ってるんだろう。この件をあたしに直接注意したら次は自分の番かもしれないと。しかもあたしが佐分田をいじめてるとき、

周りの人間は先生に直接見られないように注意を払う。監視する。でもそれはあたしが指示したわけじゃない。まるで部活のときみたいに、何も言われずとも自分から考え、行動した。

あたしが怖いから、嫌われないようにするため。そう思わせること自体が、直接手を出さなくても恐怖心は伝わるという証拠。

いや、でも変な感覚はある。あたしが笹羽中に入学した時から、いや小学生のころからあたしと玲は、周りに守られてる感覚があった。守られてるって言うのかな?上手く言い表せない。

多分あたしと玲は、人を殺しても許されると思う。もちろん法律的には許されないけど、周りの人間はそれでも守る気がする。結果として許されるって言ったらいいのかな。

なんだろうこれ。本当にこの感覚はなんと言い表したらいいか自分でもわからない。

そんなことを思い風呂からあがると、洗面台に玲がいた。手を洗っている。優はバスタオルをとり、風呂場の扉を閉めた。


翌日、優は変わらず、制服の上から私服を羽織っていた。

しかし今度は誰も優のほうを向きすらしない。そして優はいつも通り友達と喋る。半分私服で来るという光景を、たった2日でほぼ全員に慣れさせてしまった。

ただ慣れてない人間もちらほらいる。優が捻じ曲げた"空気"に馴染むことができないはぐれ者。そんなはぐれ者の中でも真っ先に優の視界に入ったのは笹岡だった。


笹岡の視界には優が映る。昨日から急に私服を羽織って登校しているのに、先生からも注意されず、平然としている。笹岡は思う。

なぜ誰も注意しない?そもそも昨日からパーカーなんて着てきてるはずなのに、やんわりとした注意で終わるどころか、3年生は卒業の思い出に特別に私服で来てもいいんじゃないか

という話にすらなって、今日にいたっては周りも誰も言わなくなった。これが偉い人間と蔑まれる人間の差か!?3年だから、卒業の思い出だから、そんなものはこじつけだ。

3年のしたことは、基本何でも許される。あとからそれらしい理由をつけて正当化してるだけだ!!仮に私が、同じことをすれば!私服で学校に来たりなんかすれば!

まず担任の先生に激怒される。お前は何考えてんだ!!と。いや、生徒指導と町久先生もつけて3人だ。そして、親も呼ばれる。死ぬほど怒られた後にクラスの"上"の人間にからかわれる。

私服で来たことをまるで一世一代の伝説かのように今後一生笑い続ける。あのバスケ部の先輩たちも笑い、私服を奪い、汚すかもしれない。

校則とか常識とか、すべて"空気"で簡単にゆがむ。周りの"大多数"の都合がいいほうにコロコロと変えられてしまう。なら今まで私が守ってきた意味ってなんなんだ!?

なんでルールを守ってる私が地獄みたいな目にあって、ルールも守らないあの人たちがいい思いをするんだ!周りが何と言おうと、私は認めない。

散々生徒に苦痛を強いてきたルールを捻じ曲げるなんて。

「ねえ聞いた?3年私服オーケーかもしれないって。」

「あ、それ聞いた。でもさ、まだ決定じゃないんでしょ?」

「まあ先生の考え次第だよねー。でもなりそうじゃない?」

「なりそうかもしれない。まじかーそうなったら3年は卒業までいいってことかな。」

「多分そうなるんじゃない?でもさ、そうしたら来年ウチらが私服着れんじゃん!」

「ああそうかー。そう考えたらいいかもね。」

クラスの"上"の人たちの大きい声が聞こえる。嫌でも耳に入ってきてうるさい。

「私服オーケーってめちゃくちゃよくね!?俺制服着づらいって思ってらからさあ!」

「あれお前あのダセえ私服着てくんの?」

「あれ着てきたらヤバすぎだろ!」

うるさい。

そんなところに前のドアがガラッと開く。

「はいおはようございまーす!朝礼はじめるよー!」

そう言って入ってきたのは担任の坂戸だった。

さっきまでうるさく喋っていた一人が口を開く。

「先生ー!3年は私服オーケーになったって本当なん?」

「本当"なん?"じゃないでしょー。」

「本当なんすか?」

「うーん、まあ決定事項じゃないけど、近いうちそうなる"予定"ではあるね。」

「うおー!マジかよ!」

クラス中が一気にざわつく。こんなものがまかり通っていいはずがない!

本当に、いままでなんのために校則とか厳しい服装とか守ってきたんだ!いや、服装が緩くなるのは3年だけで、2年生1年生は今まで通りの厳しいままってことなのか!?

ありえない!そんなの!

言わなきゃ、これはどう考えてもおかしいって、先生に言わなきゃいけない!

「うちら来年楽しみだよねー!」

言うんだ...、言うんだ!!

「俺来年デニム来てこっかな!」

「...先生。」笹岡は勇気を出して切り出した。

「俺さースカジャン持ってるんだよ。今度来てこっかな。」

「てか優先輩今日なに来てるんだろ!めっちゃ楽しみなんだけど!」

クラスはうるさい。

「先生!!!!」

目いっぱい大きい声をあげた笹岡。対照的にクラス中が一気に静まる。

「笹岡さん、なに?そんな大声出して。」

「先生、あの...。」

そう言いながら笹岡は前に出る。

クラスの大半の人間はにやにやしながら

「笹岡うるせえぞー。」

「あいつ絶対ろくでもないこと言うぞ。」

「空気読めよあのデブ。」

そんな小声をひそひそと漏らしていた。笹岡には全部聞こえていた。

「先生、私服なんて絶対だめです...。」そう切り出した。

「はあ?」

「は?何言ってんの?」

「なんでそんなこと言うんだよ」

そんなクラスのヒソヒソとした声が響き、その声はすべて笹岡に突き刺さる。

「笹岡さん、あなたの言いたいことも分かりますよ。でも3年生たちももうじき卒業だし、今はそんな固いこと言わずに、特別にしてやってもいいって。先生たちみんなそう言ってますよ。」

固いこと言わずに......??今まであんなに生徒に守らせてきたものを??

「いや、それもおかしいですよ!なんていうか、今までずっと守ってきたじゃないですか服装は。先生たちも取り締まってましたし。それを急に特別ってどう考えても...。」

「だから気持ちは分かるって言ってるじゃないですか。しかもこれが決定したらあなたたちは来年同じように私服着れるんですよ?いいじゃないですか。」

「よくない!!...ですよ。」

「...それで、あなたはどうしたいんですか?」

「私服を許可しないでください。」

「うーん、そうだね、分かった、言っておきます。」

「ええええええええ!!」と静まり返ったクラス中が愕然とする。

よかった、これでよかったんだ。と笹岡は思った。

そして朝礼が終わり、坂戸は教室を出る。その瞬間、クラス中が悲嘆の声に包まれた。

「え?じゃあ私服の話はナシってこと?」

「わからない、でも坂戸先生はほかの先生たちにも言っとくって。」

「なにしてくれてんだよあのデブ。」

「しゃしゃりでてくんなよデブ。」

その矛先はすべて笹岡一人に向けられた。

彼女はなにも言い返せなかった。正直怖くて、あの場で一番勇気を振り絞ったつもりだったが、それ以上は、クラスの"上"の人間に対しては言い返すのが本当に怖かった。

そしてそんな悲嘆の声の中に、一際嫌なことが聞こえてきた。

「これ須沢先輩に言っとこうかな。」

それから1日中、笹岡に向けられたのは冷たい視線とヒソヒソ話。だが意外にも彼女にとって気になるものではなかった。

彼女にとってなにより一番怖かったのは、バスケ部が終わった後のあの時間だからだ。今クラス中から向けられてる憎悪よりも、その時間が刻々と迫ってくることが嫌だった。

だがその時間は彼女が思っていたより早く来た。正確には、あの時間を待たずして、部活が始まった時点で地獄が始まっていたからだ。

今日のバスケ部は体育館を半面使い、残り半面はバレー部に譲る形となっている。さっそく基本となるまっすぐ出すパス、チェストパスの基礎練習。笹岡以外はこれをやるわけだが、

彼女だけは未だ基礎の基礎であるドリブル練習から進まなかった。これはある意味いつもの光景。だが須沢が出したパスは明後日の方向に飛び、隣のバレー部の場所に飛んだ。

バスケ部とバレー部の間にはネットの壁があるため、ボールが完全に向こう側に飛ぶなんてことはほとんどない。だが今回はそのネットの切れ目を縫うような形で、壁を通り抜け向こう側にいってしまった。

「ごめんミスった!笹岡、早くとってきて!」と須沢。

ダッシュでボールのところに向かい回収する。

「ちょっとなに?」

「バスケ部のボールが飛んできたんだけど。」

「練習に集中できないじゃん。」

不平不満をもらすバレー部員たち。だがその矛先は、眼中に入った笹岡一人に向けられた。

「あれ笹岡じゃん。」

「はやく回収して行ってほしいんだけど。」

「てかこいつアレじゃん。3年の私服を取り消すように坂戸先生に言ったんでしょ?」

耳を突き刺すような、そんな声を無視し、須沢に向かってボールを投げた。

投げたボールは勢いがなく、バウンドし、須沢の近くらへんに転がった。

「遅いよ笹岡!次はもっとダッシュ!」

礼なんて言われなかった。今度は別の3年生部員も、

「ああ、ミスった!」

そういって放たれたボールは、笹岡に向かって一直線。ドリブル練習で注意が回らなかった彼女の背中に直撃する。

「ごめーん笹岡!早くボール!」

また勢いのないボールを投げて返す。背中に刻まれたのは痛みと、次また飛んでくるかもしれないという恐怖。笹岡は思った。今まではこんなことなかったと。

少なくとも部活中は猫を被り、町久理想のバスケ部を演じてきたはずなのに、今度は町久の目を盗んで部活中だろうが攻撃してきた。

それを一旦町久に言おうとすると、

「笹岡あ!もうドリブル練習は終わり!外周5周行ってこい!」

「あのでも町久先生...。」

「早く行ってこい!終わったらまた基礎練習だ!」

タイミングがドンピシャで悪かった。しかも笹岡がなにか訴えようとするも聞く耳を持たない。結局町久の指示に従って走るほかなかった。

走りながら、嫌なことを思い出してしまう。

私がこうなり始めたのは、もとをたどれば小学生5年くらいのとき?この笹羽中に入ってからは今みたいにエスカレートするようになった。

先生には言った。それこそ小5のときからずっと。小学生まではそれでなんとか収まったのに、中学になってから一向に収まらない!!

私が1年のころ、先輩たちにいじめられてると担任の先生に言った。そのとき先生は、「分かりました。2年、3年に注意しておきます。」と言ってたのに、

ほとぼりが冷めたって言うのかな?1週間後にまたやり始めた。そしてまたいじめが始まったことを担任の先生に言うと、

「もうここからはバスケ部の問題だから、町久先生に言ってください。」と。そして町久先生に言ったら、どうしたかはさっきと同じ。

「2年、3年に言っとくわ。」と。だがこれも同じで、1週間経たないうちにまたいじめが始まった。またそれを町久先生に言えば、

「お前さ、いい加減にしろよ?」となぜかこっちが怒られ、

「いじめだなんだという前に、まず基礎のドリブル練習から卒業しろよ。家で練習してないからこうなるんじゃねえの?」と私に怒り続け、

「そもそもさ、先輩の言うこと聞くのは当たり前だろ?苦しい時もあるけど、それでも先輩についていくんだよ。みんなそうやって強くなってんの。

お前こんなんも我慢できないなんて社会に出たら通用しないからな?」と、怒られたのは私だった。

社会?みんな?だからいじめを許すの?見逃すの?社会とかみんなとか言って私のせいにする。こういうのを、なんて言えばいいの?

逃げ道を作ってるって言えばいいの?いずれにせよ、1年の頃から、先生に言ってもどうにもならなかった。だからこの地獄を耐えるしかない??

そんなことを思いながら走り続けた。息は苦しい、足も苦しい、少し寒い。でも走り続けた。

走り終えて体育館に戻ってくると、もう疲れて体も頭も回らなくなった。

「遅い!笹岡!今みんなミドルシュートやってるから!お前も入れ!」

「はい。」

「声小せえ!!」

「はい!!」

もう動かない体と頭を無理やり動かし、シュートを打つ続ける。

3年、2年はバスバス入り、1年はそれなりに入る。だが笹岡はいっこうに入らない。もともとは入らないほどの技術力に加え、疲労困憊のなか入るわけがなかった。

そして練習が終わった。片付けはすべて1年。笹岡もひたすらに片付ける。いちいちダッシュで、一秒でも早く。

そして部活が終わって、帰ろうとしたとき、

「おい笹岡2回目だぞ、勝手に帰ろうとすんなよ?」

そう先輩に止められた。疲れっぱなしで、目の前の練習とか後片付けとかに集中して忘れてた。ここからが地獄だと。

「そんじゃいつもの真法10連発かなー!」と須沢。

「いやちょっと待てよ?今日この小デブ、俺ら3年の私服をやめろって言ったんだっけ?」

「マジで言ってましたよコイツ!朝礼で坂戸先生に急に!」と、同じクラスの部員が答える。

「なにやってんだお前ぇ!!!」

そういって男子の先輩が笹岡を突き飛ばし、片手で胸ぐらをつかみ持ち上げる。彼女の体操着が伸びる。

「小デブの分際でなに調子こいてんだオイ!!なあ!!」

怖かった。彼女にとって、背の高い先輩から胸ぐらで持ち上げられ、顔を近づけられ、逃げられず、すごい剣幕で怒鳴られる、これが何より怖くて、なにも言い返すこともできず、

考えることもできなかった。

「お前が余計なことしたせいで俺たちの卒業の思い出が台無しになったらどうしてくれんだ!!馬鹿かお前!!」

言い返す言葉が頭に浮かばない。疲労と恐怖でなにも考えられない。

「小デブ、今すぐ取り消したら?」そう言ったのは須沢だった。

「え?」

「え?じゃない。あ、先生帰っちゃったから今すぐは無理か。明日中に取り消せば、特別に許してあげる。」

「え。」

「もしできなかったら、お前の教科書とかワークとか全部で"宝探し"するから。」

「宝探しって...なんですか?」と笹岡。

「明日になってからのお楽しみだから。」とニヤニヤしながら須沢は言う。

「とりあえずお前には反省してもらわねえといけねえわ。あれ持ってきてー!!」

そういうと後輩が持ってきたのはバスケットボール。空気の入らないものとか古いもの。バスケ部として使い物にならないボールたち。

そして先輩が手を放す。

「最近真法10連発飽きたからさー!これいくぞー!」

「え?え?」

「そーれ!」

笹岡に向かってボールは力強く投げられた。しかしそれは笹岡を外れ、後ろの壁にバンッ!!と当たった。

「ああ惜しい。」

「次ウチやるねー。」と須沢。

「ちょっと待って!」

「先輩に向かってなにその口の聞き方。」

「待ってください!」

「待てないって。あんたが要らんことしてるからこうなってるんだし。」

「分かりました!取り消します!」

「ふーん。どうする?」と須沢は横をむく。

「取り消すのは当たり前だよな。これで"宝探し"はしなくてよくなったけど、これは関係ないしな。」

「本当にやめてください!」

「うーん...。分かった!こうしよう!」と須沢が切り出す。

「今までウチらの足を引っ張ってきたのと、今回の件の迷惑料。1万円を日曜日までに持ってきたらこれはなし!」

え、1万円!?と笹岡は心の中で驚愕したが、その驚愕は声にできなかった。

「いや、日曜は自習あるし逆でいいか。明日までにちゃんと取り消せばボールの刑はなし!そして日曜までに1万円を持ってきたら宝探しはなし!これでいいね。」

「え、いや、1万円も...。」

「当然でしょ。むしろ安くない?ウチらにこんな迷惑かけといて1万で済むって。」

「じゃあウチら帰るから。ちゃんと頼むよー。」

家に帰るまでの間、笹岡は考えていた。その考え事には恐怖心が入り混じっていた、

1万円なんてどう用意すればいい?親に頼む?服買いたいからとか本買いたいからとか言って?1万円もくれるわけがない。

そもそも宝探しってなに?なにされるの?でもまずは明日の朝でも言ったことを取り消して、それから考える。

あれ?なんで取り消さなきゃいけないの?私がなにか悪いこと言ったの?学校に制服で来てほしいって、そんな当たり前のこと言っただけじゃん。

今まで先生もみんな言ってたじゃん、全校集会とかで、服装には気をつけなさいと。靴下の色は白か茶か黒だけで、下着の色は白だけと、

そう言われてきた。強制的に!こういうのを押し付けるっていうんだ!そう押し付けられてきて、今更急に?私服?

色なんて紫でもなんでもいいって??馬鹿じゃないの?

何を取り消せっていうんだよ!!!馬鹿なのかああああああ!!?

そんな笹岡の心の叫びは内だけにとどまり、口から外に出ることはなかった。

家のドアを開け、手を洗って自分の部屋に行く。母親がいたが、1万円欲しいなんて言えるわけがなかった。

今回の件がなくとも、毎日いじめと疲労とストレスを抱えていた彼女にとって、唯一の趣味と言えるものがあった。

それはファッション雑誌。高校生向けのものと、20代の成人向け。両方買っている。それを見て、今の"小デブ"と呼ばれてる今と違う、

かわいくて背も高くておしゃれな自分を夢想するのが好きだった。服自体もチェックしていた。笹羽にある安いチェーン店の服が紹介されると嬉しくなり、

この服今度買ってとねだった。しかしこの趣味と今回の校則の件は、笹岡にとってなんの関係もなかった。例えば自分もこの雑誌と同じコーデで

笹羽中に行きたかったとか、それでも我慢してきた妬みだとか、そういうものは一切ない。中学校は制服を着て通うところなのだから。

家での時間は短く感じるもので、雑誌を読み、夢想し、テレビを見て、ご飯を食べるだけで過ぎ去ってしまう。


そして翌日、笹岡はどうでもいい朝のニュースを聞き流し、準備をして登校する。その間、まず今日、あの件を取り消すか取り消さないか、それだけを考えていた。

昨日あんなに勇気を出して言ったのに、今日取り消す?坂戸先生になんて言われるか分からない。クラスのみんなはどう思う。

そもそもそんなことしたら昨日勇気を出した意味がない。そんなすぐ取り消すって、私の決死の勇気はそんなものだったの?

でも取り消さなければ、あのボールが私に直接飛んでくる。怖い。顔か、お腹に当てられたら相当痛い。そもそも私から、「分かりました!取り消します!」と

言ったんだ。だから、だから....。

教室に入る。坂戸もドアを開けてきた。

「はいみなさんおはようございます!」

朝礼より10分早めに来ている。教室はまだうるさい。言うなら今しかない。でも?いや、言うんだ、言うしかない。

時計の針は刻一刻と進む。その針の動きは笹岡の体に圧力をかけているかのように重くのしかかる。

意を決して席を立ち、坂戸の横に立つ。

「先生。」

「うん?どうしました笹岡さん。」

「やっぱり...あの....昨日私が言ったことは、なかったことにしてもらえますか。」

「ん?昨日ってあの私服の件?」

「そうです。」

「あなたは私服絶対ダメって言ってたけど、あれを取り消したいってこと?」

「そうです。」

「はあ。もう。分かりました。じゃあ取り消すように私から伝えときます。」

「はい...。」

これでボールをぶつけられることはなくなった。その恐怖から解放された安心感と、自分の意志を曲げてしまった後悔が残った。

しかしこれで平穏が訪れたかと言われればそうでもない。朝礼が終わった後も、クラスからヒソヒソと聞こえてくるのはデブとか小デブとか。

いや、面と向かって堂々と「よお、小デブ!」と言われている。毎日毎日そんなことを言われ続けるのは平穏とは言わない。

4限は音楽で、移動教室だった。廊下で優と誰かが話している。

「優、ウィンターコンクールいつなの?よかったら見に行くよー。」

「マジ?見に来てくれんの!?もう来週の日曜日にあるんだけど、大丈夫そう?」

「いやもう全然大丈夫だから!」

そして彼女らとすれ違う。そのとき優は、ニヤッとほくそ笑んでいた。その顔をこちらに向けていた。

まるで自分が勝ち誇ったかのような顔。笹岡は思った。結局この人の"私服を着たい"というわがままを通してしまった。

私という最終的な障壁が無くなって勝ち誇っている、と。

そしてまた小デブと呼ばれ、見下される、ある意味笹岡の日常ともいえる1日が続いた。意外だったのは、バスケ部のあとの一番地獄の時間がこの日以降なくなったことだ。

いや、なんとなくわかる。なくなってるのは多分日曜日までだ。日曜日、私があの人たちの言う通り1万円持ってくるか楽しみに待っている。

罵倒と疲労の中で笹岡はずっと考えている。1万円をどうにかする方法を。そもそもあの先輩たちの指示に従って1万円を親からねだること自体ありえない。

ならバイトをするのか?いや中2でバイトなんかできない。1万円は...1万円は.....。

なんでこうなったんだろう?いや、なんであんなバスケ部なんかに入ったんだろう。なんで辞めれないんだろう。

あ、思い出した。内申点に響くからだ。この笹羽中は別に部活強制じゃない。ただ部活に入ればそれだけで内申点はいい方向に書かれる。それだけで、ほぼ部活強制みたいなものだ。

表立って強制と言わずに、内申点が悪いと言い高校入れないからと、綺麗ごとで部活に入らせた。しかも内申点があまりにも悪ければ、笹羽高校にも行けなくなる。

これも今思えばおかしい。笹羽高校に進学する条件は、学力テスト合計250点以上"か"、先生からの内申点が必要だ。つまり片方クリアすればよく、学力テストの点数さえとってしまえば、

内申点なんて関係ないはずなんだ。本来は。だがいざ笹羽高校の話になると、先生は決まってこう言う。内申点がなければ笹羽高校行けません、と。

これはどういうことかといったら、内申点が良くて学力テスト250点未満は入学できて、学力テスト250点以上で内申点が悪い場合は入学できないという。

本当におかしいことを言う。私がその理由を聞く。でも先生は、「そういう伝統だから」と、「そういうルールになっているから」と、こう言ってのけた。

なんの答えにもならない言い訳を並べ、反論する生徒をすべて突っぱねる。挙句には「これ以上は内申点に響きます」と、内申点を人質に取った。どの高校を選ぶかという未来の選択肢を、人質に取った。

内申点なんて結局先生に気に入られるかどうかだ。だからみんな先生に媚びるし、理不尽なことも言い返そうともしない。先生の前では、先生にとって理想の生徒を演じる。

とくに運動部に入ってる生徒は印象がいい。笹羽中の部活はサッカー部とか野球部とかバレー部とかバスケとか真法武道部とか真法舞踊部とか運動部がほとんどで、文化部は吹奏楽部、美術部の2つだけだ。

逆に文化部に入った人間の印象はなぜか悪い。クラスの人間からはネクラだのインキャだの、ひそひそ小馬鹿にされ、なにか運動部にとって都合が悪い貧乏くじを文化部に押し付けられる。

実際、1年のときもいまも、その光景はちょくちょく見る。ごく限られた選択肢の中で、唯一まだマシかなと思える部活が、バスケ部だったから。辞めれば余計内申点に響くんだ。

おもむろに笹岡は炎を出す。真法には少し自信があった。真法舞踊部ってほどじゃないけど、周りの生徒より一回り大きい炎を出せる。でもその炎は温度も無いし、

触れれば儚く消える。いっそこれが本物の炎となって、触れるものすべて焼き尽くしてしまえばいいのに。

マホウというのならカバンを開けたとき、どこからともなく1万円が現れればいいのに。いくらカバンを開けても1万円なんか入っちゃいない。なにがマホウなんだ。

そうしてカバンを閉め、体育館に向かう。そう、今日は日曜日。時間は午前8時半。


午前8時半、手から燃え盛る炎は体を囲う輪となり、足から生み出す炎は軽快なステップとともに軌跡のごとく浮き上がる。

そう、とある体育館で、ウィンターコンクール団体の部1組目のダンスが始まったばかり。優たち笹羽中は観客席で見ている。

「あーやっぱりみんな炎で統一するのかー。」と優。

「まあしょうがないって。1年生とかみんな基礎からやるわけだし、炎くらいしかできないって。相当頑張れば水も行けそうな気がするけど。」

「3年生だけだったら氷で団体とかできそうじゃない?」

「まあね。一応それは優ちゃんが誠珠行ったあとでもやれるんじゃない。誠珠にもあるでしょ?舞踊部。」

「いやあそこは正直舞踊部のレベルは低いって聞いてるし、氷真法使える部員自体いないんじゃないの。」

「そうかもね。そういえば優ちゃん、個人の部何時から?」

「あたし結構遅いよー。えっと、4時半からだって!もう終わりギリギリじゃん!」

そうして1組目のダンスは終わる。優たちの出番はまだ遠い。

「ねえ、今日4時半から雨だって!傘持ってきた?」

「いやあたし持ってきてないや。今日家族も見に来てるから傘持たなくていいって。」と優。

「え!今年も見に来てるの!?」

「やべっ」

「え?どこどこ?」

「探さなくていいって。」

「あ、いたいた玲ちゃんもいる!玲ちゃーん!」と手を振る。

「おいやめろ」

「きゃーー!玲ちゃん手振ってくれたよ!」

「きゃーーー!!」

「あんたらホント玲好きだね。」

「前々から思ってたけどさ、優の家族ってめっちゃいい人たちだよね。」

「まあ、そうなのかな。」

優は完全に私服で来ている。ウィンターコンクールというのは服装自由と記載はあるが、実際は部活Tシャツとか体操着とか統一したほうが"望ましい"とされ、

実際に統一してる空気感というものがある。今年優はその空気を無視しているが、誰も文句は言わない。

さすがに団体戦でも意固地になって私服のままなのはアレなので、部活ウィンドブレーカーに着替えるが。


午後11時、バスケ部はテストに向け学力を上げるため、町久監視のもと自習が入る。

そして午後12時半、昼休憩に入り、弁当を食べる。

笹岡も不安の中弁当を食べるが、須沢たちは何もしてこない。ただニヤニヤしてる気がする、

須沢が話しかけてくる。

「笹岡、今日日曜日だけど、ちゃんとアレ持ってきた?」

「はい。」

「そっかじゃあ部活終わってからでいいから渡して。楽しみにしてるよ。」

どうすればいい?いっそ逃げるか?いや、今日逃げたところで明日捕まる。なんの解決にもなってない。

実は1万円は持ってきたつもりだったけど落としたと言うべきか?いやあの人たちはそんなこと認めない。

そもそもなんで1万円も要求されてるんだ?なにがあってあの先輩たちにお金を渡さなきゃいけない?

そうだ。私が私服を許可することに抗議したからだ。いやそれプラスいままで足引っ張ってきた迷惑料?

私だってずっと頑張ってきた。上手くなると信じて、地獄みたいな練習も耐えてきたのに、少しも上手くならなかった。

なんで払わなきゃいけない?そもそも内申点なんてものがなければこんな部活入ってなかったしすぐ辞めていた。

内申点なんて先生に媚びへつらって気に入られるために入りたくもない部活に入らされ、辞めたいのに辞めさせてくれない。

それでいざ入ったら入ったで死ぬほど頑張って足手まとい?冗談じゃない!

私が1年生のころ、先輩たちは部活紹介で言ってたはずだ!初心者でも歓迎すると!

私がこの部活に入りたてのころ、町久先生は言ってたはずだ!真面目に取り組んでる人を評価すると!

私は死ぬほど真面目に取り組んでこうなって、こんなふざけてる先輩たちや2年1年がのさばってるのか!?

町久先生もこの部活も、いやこの学校の人間全員おかしいって!!!おかしいよ!!!

午後1時、再び自習スタート。自習は午後2時まで。笹岡はもっと自習が長いかと思い、念のためワークや教科書などを8冊持ってきていた。

午後4時、相変わらず地獄のような疲れ具合だがなんとか部活を終えた。そして笹岡はすぐ帰ろうとする。だが

「ちょっと笹岡ー最近すぐ帰ろうとすんじゃん。」

須沢がカバンを掴んで止めた。連れてこられたのはいつもの更衣室。

「笹岡ー。じゃあお待ちかねの一万を出して。」

「おおマジで1万かー。」

みんなが手を叩く。

「いっちーまん!いっちーまん!いっちーまん!」

「えっと...無いです。」

「え?なに?もっかい言って?」

「だから、1万は無いです。」

「は?」

「私はお金なんて持ってきてません!」

「はあ?なにそれ?お前昼休憩のとき持ってきたって言ったよね!?」

「いや、持ってきてません。」

「はあ!!?」と全員から落胆と怒りの声が出る。

「ああ!分かった!じゃああんたのワークと教科書全部"宝探しの刑"だわ!!」

「そもそもおかしいですよ!」

「はあ!?」

「なんで私が1万円持ってこなきゃいけないんですか!?私なんも悪いことしてないじゃないですか!ただ真面目に部活やってただけじゃないですか!!」

「はあ!?口答えすんのかあ!!」

「おかしいってこれ!!なんであんたたちはこんなこと平気でやるんだよ!!こういうのをイジメっていうんだよ!!先輩だから何でもやっていいってわけじゃないでしょ!!!」

「誰に向かって口きいてんだあ!!!」

須沢は笹岡の腹を殴った。たまらず腹を抑えてうずくまる。

「こいつ抑えろ!あー頭きた!!宝探しの刑とボールの刑両方やるわ!!!」

「了解!!」

すかさず2年男子が笹岡を押さえつけ、1年と3年は外に飛び出す。

外からはこう聞こえる。

「ボールこれでいいっすか?」

「ああ。あとこれもいいや。」

別の方からはこう聞こえる。

「デブのカバンこれっすか?」

「そうそれ。」

「ああ、意外と入ってるね。いいじゃん。」

ものの5分しないうちに3年と1年の一部が戻ってきた。

手にはボールを抱えている。そう、先週と同じように使い物にならないボールが。

「やべ早速投げたくなってきた。オラァ!!」

顔に直撃した。頭がキーーと響く。鼻がスースーする。痛い。

「顔はまずくないっすか?先生にバレますよ!」

「まあそうだな。次お前投げていいよ。」

「そーれ!!」

今度は腹に直撃した。痛い。食べたものを吐きそうだ。

「腹に当たりましたよ!」

「さすがデブの腹かてえな!ボールがバウンドしたわ!あははははは!」

「あははははははは!!」

そんなところに須沢が入ってきた。

「よし、終わったよー。てかウチも投げさせてよー。」

「ほら。顔は狙うなよ?」

「マジで?こいつの顔超ムカつくんだけど!じゃあいいや。そのデカい腹狙うわ。いくぞー?」

投げたボールは腹を直撃し、またさっきと同じ痛みが走った。たまらずうずくまる。うずくまりたいのに、2年に抑えられてそれもできない。吐きそうだ。

「フー!!あ、もう放していいよ。そんじゃクソデブ。お前の持ってきたワークとか教科書、学校のどこかに隠したから。見つけられるかなあ?」

笹岡はうずくまって動けない。

「ほら早く行ったほうがいいよ?宝探しゲームスタート!!」

時間は午後4時20分。


「4時20分になりました。最後の選手は、準備をお願いします」

そうアナウンスが聞こえてきた。

「20分前から準備させなくてもいいのに。」と優。

「まあリハとか柔軟とかコンディションのチェックとかいろいろあるしさ、しょうがないよ。」

「やんなくていいよめんどくさい。あたしだけ5分前で行かせてくれないかなー。」

「ダメだって。ほら早く!」


学校内を走り回って5冊は見つけた。あと3冊はどこなんだ?

玄関で見つけたのは帰ろうとする須沢。帰り際にこんなことを言ってきた。

「あ、ちなみに3冊は外にあるから。早く探したほうがいいよー?」

「え?」

「じゃあねー。」

すぐに外に飛び出した。どこだ?どこなんだ?隠しやすい場所はどこなんだ?

白と灰色に濁った曇り空。首筋に冷たい水の感触が走った。

時間はまだ4時半。


「4時30分になりました。選手たちは各場所に待機してください。」

他の選手がいまだに体を伸ばしたり、動きを確認するなか、優は余裕そうに立っていた。

ただ観客席は見ていた。笹羽中の席はもちろん、家族の席。というよりも玲を見ていた。

玲、よく見てて。と、心でつぶやいた。


雨はぽつぽつと降っている。その雫は少しずつ体操着に染みて、嫌な寒気を感じさせる。

やっと1冊見つけた。もうすでに濡れてるが、まだ大丈夫だ。あと2冊だ。あと2冊。

そしてグラウンドに来た。ところどころに水たまりができている。視界も悪い。

だが笹岡は躊躇なく走る。雨はさらに激しさを増す。

時間は午後4時40分。


「4時40分になりました。選手たちはダンスを開始してください。」

優は踊り始める。曲は少し哀し気なバラード曲。氷を空中、床とあらゆる部分から発生させ、雷は軌跡を作り、ときには雷で氷を装飾する。

優は舞い踊る。

笹岡は泥水に手を突っ込み探す。

優は舞い踊る。

笹岡は濡れてふやけたワークを見つける。

舞い踊る。

ずぶ濡れで走る。

舞い踊る。

側溝で教科書を見つける。

舞い踊る。

側溝に手を伸ばし、流されてしまう前にようやく拾った。

「えうっうぐっ」

悲しくて涙が出てきた。ずぶぬれでふにゃふにゃで、印刷も溶けてるかどうか怪しい教科書を無理やりカバンにつめ、グラウンドを離れる。

帰る。雨水が染みたコンクリートと泥になった帰り道を、歩く。

優は天に手を伸ばす。最後の決め。その天は無機質な鉄骨と照明が照らし、優の舞を彩った。

天は濁っている。雨が降り続いている。

「わぁぁぁ。うわぁー、あぁぁぁぁ。」

泣きながら帰り道を歩く。その鳴き声は雨音にかき消される。

「えぐっうぐっ、うわぁぁぁ。あぁぁぁぁぁ。」

涙は雨に混じる。なにが雨で何が涙なのか分からないほどに。

「うぐっ、ああ、あぁぁぁぁぁぁ。」

涙は枯れそうになる。悲しくて嫌な気持ちは全然枯れない。雨も枯れない。

「うぐ、うう、あぁ。はぁ。」

雨が少し収まったように感じた。空を見上げれば、遠い雲は、白く明るくなっていた。


優たち家族は帰りに買い物をし、寿司屋で夕食をとって、帰ってきたのは午後8時。

玲は一番乗りで玄関のドアの鍵を開け、中に入り、テレビをつける。そして優も玄関に入る。

「おい!優姉!すごいニュースやってるぞ!」

「え?」

急ぎ足気味でリビングに向かうと、テレビ画面にはどこかの学校が。そしてこう聞こえてきた。

「市立笹羽高校にて、合わせて6人の生徒が失踪した事件で、警察は消えた生徒の行方を...」

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