第9話 範士の剣

 満月が雲に隠れ、夜の闇が辺りに染み渡る。

 街を守る木製の外壁の小さな穴から、ひとりの小柄な中年男性が街の外に這い出てきた。


「何で俺がこんな……」


 隷属の腕輪でハイトロール・ザグラスを操っていたアグレブだ。

 外に這い出たアグレブは、そのまま街を背に街道を走り出した。


「ザグラスの役立たずめが! あんなメスのオーガに力負けするとは! しかも、腕輪を破壊するって、どんだけ馬鹿力なんだ、あのオーガは! それにまさか、隷属の腕輪が違法とは……」


 アグレブは、ひとを操る魔道具が違法であることを認識していなかった。ただ、生物を洗脳・魅了して惑わす魔法や魔道具は一般的に使用が禁止されており、普通で考えれば違法であることは明白。アグレブがあまりに利己的かつ浅慮であったと言わざるを得ない。


「クソッ! とにかく逃げねば!」


 街でもギルドでも傍若無人ぼうじゃくぶじんな態度が取れたのはザグラスという後ろ盾があったからであり、それを失った今、アグレブを守ってくれる者は誰ひとりいない。方方ほうぼうで恨みや憎しみを買っているので、街から逃げ出すしか選択肢がなかったのである。


 真っ暗闇の街道を走るアグレブの前に人影が見える。


「! ま、まさか追っ手か!? かくなる上は――」


 腰に下げた小剣ショートソードを手にした時、満月を隠していた雲が晴れていった。

 人影が月明かりにゆっくりと照らされていく。

 ナオキだ。


「――へへっ、役立たずの勇者様かい。こいつは楽勝だな」


 ナオキと向き合ったアグレブは、醜い笑みを浮かべた。


「よぉ、勇者様。聞いてるぜ、戦いになると女の影にコソコソ隠れて、小便チビってビビってるってな」


 ナオキは、道端に落ちていた長さ五十センチ程度の木の枝を手にした。


「俺を通してくれれば、勇者様の命まで取らねぇ。俺はこう見えても騎士団にいたことがあってね。だから、さっさと道を空けな」


 小剣ショートソードを抜刀して、ナオキに睨みをきかせるアグレブ。

 しかし、ナオキは木の枝を両手で持ち、アグレブに対して構えを取る。


「そうかい、それが勇者様の答えってわけかい……では、死ね!」


 アグレブは、ナオキに襲い掛かった。

 しかし――


「!」


 ――アグレブの手から小剣ショートソードが消えた。


 ガラン ガラララン


 アグレブの後方、街道の石畳にショートソードが落ちてきた。

 意味の分からないアグレブは困惑する。

 そんなアグレブを前に、ナオキは木の枝を両手に構えを崩さない。


「拾え」

「へっ?」

「オレを殺すチャンスをやる。拾え」


 慌てて小剣ショートソードを拾うアグレブ。


「馬、馬鹿め! あの世で後悔しな!」


 アグレブは、不意打ちとばかりに、振り向きざまにナオキを斬りつけようとした。


 ――またアグレブの手から小剣ショートソードが消える。


 ガラン ガラララン


 先程と同じように、ショートソードが落ちてきた。


「拾え」

「い、いや、待っ……」

「拾え!」

「ひっ!」


 ナオキは、アグレブの小剣ショートソードを木の枝で巻き上げていた。彼にとって、そんなことは赤子の手を捻るよりも容易たやすい。


 ナオキにチートはない。この世界に召喚される前と変わらない能力しか持ち合わせていないのだ。しかし、まずナオキは若返っている。彼は元々よわい六十を超えていた。それが十代の若さになっていることにどんな意味があるのかは誰も、彼自身も分からない。そして、ナオキは剣道をたしなんでいた。その腕前は――


 ――範士八段。


 競技人口百万人を超えると言われる剣道で、八段とは最高の段位である。段位取得者が二百万人に達する中、八段の取得者は数百人のみ。その中で最高位の称号である「範士」を持つ者は、さらに限られている。

 ナオキは剣道の達人であった。

 しかし、ナオキは命を奪う剣を持ち合わせておらず、命のやり取りをしたことがなかった。アラゴやリズに鍛えてもらっているのは、そんな実戦での剣術や戦い方である。


 アグレブを力量の差で圧倒するナオキ。

 騎士団にいたというアグレブは感じる。


『手も足も出ない。何もできない。絶対に勝てない』


「拾え!」

「ひぃぃ〜っ」


 アグレブは街道脇の林の中に逃げ込んだ。

 それを追うことはしないナオキ。


 カラン


 木の枝をその場に捨てた。


「アイツを殺すことは容易たやすい。だが、アイツを殺せば、自分のせいでオレがひとを殺したと、きっとリズの心に深い傷を負わすことになる。それに、オレは『幸せに生きる手伝いをする』と彼女に約束した。だから――」


 ナオキは林の奥の闇を見つめる。


「――アイツを裁くのはオレじゃない」



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 恐怖に怯える表情を浮かべ、ナオキから逃げるように林の中をあてもなく走るアグレブ。


「な、何なんだ、アイツは! 役立たずの勇者じゃなかったのか! アレは騎士団長ですら勝てんぞ! クソッ! クソッ! クソッ! あっ……」


 ガッ ズザァー


 アグレブは、木の根に足を取られて転倒した。


「いててて……ん?」


 薄っすらと月明かりが差しているはずが、自分の周りが真っ暗になる。

 顔を上げると――


「ザ、ザグラス……」


 ――憤怒の表情を浮かべたハイトロール・ザグラスが目の前に立ち、その巨大な身体による影が自分を覆っていた。隷属の腕輪はすでになく、ザグラスは自我を取り戻している。


「私はすべてを覚えている……」

「へっ……?」

「お前に操られていた時のことを、私はすべて覚えている!」

「!」

「私は何人ものひとから奪ってしまった!」

「ちょ、ちょっと……」

「私は何人ものひとを殺してしまった!」

「違う、違うんだ……」

「違うものか! すべてはお前の醜い欲望が原因だ!」


 涙を流しながら激怒しているザグラス。

 アグレブの背中に冷たい汗が流れる。


「罪深いお前は罰を受けるのだ!」

「わ、分かった! ギルドに自首するから! なっ、それでいいだろ!? なっ? なっ?」

「ふざけるな! お前を裁くのは……私だ!」


 ザグラスの叫びに、アグレブは股間と地面を湿らせた。

 ザグラスの大きな手がアグレブに伸びる。


「やめてくれ……頼む、助けてくれ……やめろぉーっ!」


 満月がまた雲に隠れていく。

 林には漆黒の闇と、それをつんざくような男の叫び声が満ちる。

 しかし、その声は闇に飲み込まれ、誰にも届かなかった。



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