第62話 犬神事件②
サクと沙羅は桔梗院の門に続く階段を駆け上がる。
時間にしてギリギリ。あと数分で朝のホームルームの時間である。辺りに生徒の影はなく、階段を登るのはサクと沙羅だけだ。
「ご、ごめんねぇサク君……まさかあんなに盛り上がるなんて」
「俺もだよ、ごめん」
互いに苦笑いしながら流れる汗を拭うのも忘れて走る。階段を一段飛ばしで登り切って飛ぶように大きな門をくぐった。
「うわぁぁあ!?誰もいないよ!遅刻だ遅刻ー!!」
ローブを揺らしながら頭を抱える沙羅を尻目にサクはどこか諦めにも似た感情を持つ。
週初め早々遅刻なんてあまりいい気もしないが叔父の鬱憤を吐き出せてむしろスッキリした。だから別に1日ぐらい遅れてもいいだろうとそんな楽観的な気持ちになっていた。
「…………ん?」
だから、沙羅と違って余裕のあるサクはふと気がついた。
いつもと何かが違う桔梗院の門。妙に静まり返った桔梗院の様相に。
何かおかしい。そう思って門を見上げると、そこにはいつもサク達を見下ろす大きな木人。豪快な笑い声を上げながら何かと悪がらみしてくるはずの彼ら。
その2人が鎮座している門の左右に、2人がいなかったのだ。
「馬鹿者!早くこっちに来い!!」
「え?」
直後。門の向こうから鋭い怒号が飛ぶ。
見ると桔梗院の講堂の中から険しい顔で叫ぶ紫藤先生の姿があった。
一歩前を走る沙羅。門から俯瞰するサク。
紫藤先生の言葉を聞いて事態が飲み込めず、困惑する沙羅の頭上。何か大きな白い影が風のように沙羅に襲いかかる。
「ーーーーっ!?」
地鳴りと共に沙羅の目前にそいつは飛び降りた。
真っ白な毛を持つ大きな犬。桔梗院の教室ほどの大きさはあった。
力強い体躯は太い大樹のように見える。一方尾はまるで煙のように実体が見えずにゆらゆら風になびいて揺れていた。
血のように真っ赤な眼光が眼下の沙羅を見下ろし、グルルと喉を唸らせてナイフのように鋭い牙を光らせる。
あれは……何だ?
サクは唖然と、それでいてどこか冷静にそいつを見つめていた。
桔梗院の地面。講堂から外れた場所に転がる大きな木の塊。間違いない、いつもサク達の登校を見下ろして話しかけてくる木人達だ。
荘厳な威光を放つ彼らはバラバラに砕かれてその四肢を無惨にも桔梗院の地面に散らしていた。
「え……あ……」
あまりにも突然の出来事だった。
休み明け。あの騒がしい学園生活がまた幕を開けると誰も疑っていなかった。
だが、桔梗院に待ち受けていたのは1匹の魔獣。そいつが唸り声をあげながらその場に崩れ落ちる沙羅に迫る。
人なんて軽々飲み込めてしまいそうなほどに大きなその口を開いて今まさに沙羅が飲み込まれてしまいそうだった。
ボトリと粘着質な液体が地面に落ちるのが嫌にスローモーションのように見える。
何……やってんだ?俺は。
そんな地獄絵図を前にして、サクはまるでその場に縫い付けられてしまったように動けなくなっていた。
このままじゃ、沙羅が……殺される。
そんなこと、サクが1番分かっている。そうだと言うのに身体が動かない。
魔法にかけられているわけでもないというのに。
そしてそれは他のみんなも同じだった。講堂の奥から叫ぶ紫藤先生。でもそこから先生もまだ動けないようでいた。
講堂や桔梗院の教室には結界がかけられている。つまりあの中は安全なのだ。そこを踏み出して危地に飛び出すことをためらっているのか。
その場にへたり込む沙羅を見ることしかできないサク。
何を……何を言えばいい?逃げろ?こっちだ?
何かしなければならない。だけど、何をすればいいのか分からない。さっきとは違う汗がサクの頬を流れ、乾いた地面に吸い込まれる。
自分の感覚を1つ1つ脳に刻みながらただ沙羅が大犬に食われるのを見ることしかできない。ぐるぐると行き先の見えない思考がサクの頭を支配した。
「あ……あぁ……」
そして大犬がまさに沙羅を飲み込んでしまいそうなまさにその瞬間。目に涙を溜めた沙羅がこちらを振り返る。
「サク君……助け……」
「ーーーーーーーっ!」
刹那。サクの全身に電撃が走ったような錯覚を覚える。
沙羅の小さな背中が何かと重なる。その何かはサクには分からなかった。分からなかった。けれど
その小さな背中を見て見ぬふりすることは、何故かサクには決してできなかった。
半ば反射だった。そこにサクの意思は反映されていなかったと思う。気がついた時にはサクは自身のポーチから杖を強引に引き出して呪文を唱えていた。
「う、うおおおぁぁぁぁあ!!!【インパクティア】!!!!」
白い巨獣の口内目掛けてサクは魔弾を放つ。
サクの迷いを具現化したように杖から放たれた閃光は螺旋を描き、どこか行き先も分からぬまま照準をブラして最後は狙った白犬の口内に着弾した。
大した魔法じゃない。ただ衝撃を与えるだけの魔法。
基本衝撃魔法【インパクティア】。
魔法を受けた白犬は雄叫びを上げながら後ずさる。
退けた?
楽観的……いや、もはやそれすらも通り越して愚かな思考が頭を巡った。そんなわけが無い。こんなちっぽけな魔法1つでこの大きな化け物を退けられるはずもない。
真っ赤な眼光が沙羅ではなく、今度は門の外のサクに向けられる。
「…………っ」
それだけでサクの全身に鳥肌が立ち、舌の奥が乾いていく感覚に襲われた。
間違いない。標的が沙羅からサクに変わった。
雄叫びを上げながら、白犬は足元の沙羅を無視してサクに向かって突進してくる。
魔法で撃退!?いや、そんなの意味がない!こんなの止められる魔法なんて俺は習ったことがない!!
間に合う気がしない。けれどサクは全力で横に向かって跳んだ。
ガチン!
サクの足の下から大犬が顎を閉じる音が響く。その音は鼓膜はおろかサクの身体すら揺らしてしまいそうなほど大きな音だった。
ビリリという音とサクの身体が引っ張られる感覚。どうやらローブが大犬に噛まれたらしい。だがすぐに破けてサクの身体はまた地面に落ちた。
間に……あった!?
木人の鎮座する柵に頭から突っ込みながらサクはそんなことを思う。
思い返されるのは大和先輩との筋トレの日々。あれがなかったら、間に合っていなかったかもしれない。
ありがとう、大和先輩。
「はっ……はは……」
安堵とともに変な笑いが込み上げてくる。
だがそんなことを言ってる場合じゃない。サクは柵を押し除けて立ち上がり、後ろの大犬を見る。
当の大犬もまた桔梗院の門に頭から突っ込んでその動きが鈍っていた。
しかしその大きな前足でサクの命を刈り取ろうと瓦礫を吹っ飛ばしながら暴れる。
瓦礫の木片を身体に受けながらサクは死に物狂いで走る。
半ば体勢も不安定。再び足がもつれて転げる。だが何とか大犬の爪の範囲外に逃れることができた。
「サク君!サク君!?大丈夫!?」
門の向こうから沙羅の泣きそうな声が聞こえた。
「沙羅!こっちは大丈夫!大丈夫だから……」
サクも沙羅の声に答えながらまた走り出す。ミシミシと鈍い音を立てながら門に阻まれた大犬がまた自由を取り戻そうとしていたからだ。
「早く、行けええええええええ!!!」
サクがそう叫ぶ頃には大犬は再び自由を取り戻し、またサクに向かって襲いかかってくるところだった。
桔梗院の塀の外周をサクは走る。ここは桔梗院の南門。サクが目指すのは実技棟への入り口がある西門だ。
結界のある講堂の中にさえ入ってしまえればきっと大丈夫。
南門は見ての通り大犬がいるので通れない。足元をくぐれば突破できるかもしれないが、そんな漫画みたいな博打なんてサクの乏しい勇気と胆力では絶対に考えられない。
桔梗院の塀に沿って走って最初の曲がり角を曲がる。
桔梗院は高台の上にある。一歩踏み外せば転がり落ちてサクは大犬に噛まれなくともいとも容易く死に至るだろう。
それでも全力疾走の勢いを殺さず壁に手を当ててグルリと曲がる。あまりの勢いに人差し指の爪が剥がれた。
痛みで一瞬足が止まりかけた。しかしサクの背中から再び大犬の大口が閉じられる音が響き、桔梗院の外壁が噛み砕かれて鈍い音を立てながら崩れ落ちていく。
獲物を捉えたか確かめるようにガチグチと咀嚼する音がサクの精神を削る。
大犬が口を動かすたびに木は形を歪に変形させてやがて桔梗院の敷地外に放り捨てられる。
恐怖に駆られるようにサクはまた走り出した。
もしサクがあれに捕えられてしまえばあれと同じ運命を辿ることになる。あのまま身体をぐちゃぐちゃに潰されて飲み込まれ、あいつの胃袋で溶かされて……。
自分で自分が肉塊に変わる様を想像して身体がまた動かなくなりそうになる。
だが、そうなればそれこそ本当にサクは終わる。
その思いだけでサクは石化していく足を動かし続けた。大丈夫……落ち着け、間に合う……きっと間に合う!
自分を鼓舞しながら遂に西門へ。人生で1番長い競走だった。
奴はまだこちらに追いついてない。このまま講堂に逃げ込めば……。
そう思うと同時。ふとサクは疑問に思った。
追いついてない?あの体格差で?
でかければ遅いなんていうのはゲームや漫画の迷信だ。大犬はまさに犬の機敏さを持ち合わせた動きをしていた。
距離にして数百メートル。こんな距離をあいつに追い付かれることなく逃げきれた?
サクは来た道を振り返る。そこには大犬の姿はない。
疑念が確信に変わる。同時に希望が絶望に転換した。
サクの頭上に落ちる影。見上げなくても分かる。あの大犬がサクを喰らわんと大口を開けて迫っていることが。
大犬はこの桔梗院を囲む塀を乗り越えて、サクが逃げ込むであろう桔梗院の敷地の中で待ち伏せしていたのだ。
気がつくのが遅すぎた。
「い、【インパクティア】!!」
迫る大犬の大口目掛けてサクは魔法を放つ。しかし、そんなチンケな魔法なんて通じない。
熊に豆鉄砲なんて撃っても相手を刺激する結果にしかならない。
沙羅の時の不意打ちとはまた違う。確実に殺すための噛撃はそんなはったりや脅しなんて通用しなかった。
死ぬ……。
サクは本当に目の前に死を見た。
その瞬間サクは一体何を思ったのだろう。
誰の顔を思い浮かべたのだろう。
それが何かは分からないが、ただ自分を飲み込むために開かれた大口を、放心した状態で眺めるだけだ。
人が本当に命の危機に瀕した時、こんな何も思えないものかと思う。本当に一瞬で、刹那的な最後だと。これまでの人生を振り返るような慈悲さえもないのか。
サクは自身に突き立てられるであろう白い牙が自分の体に吸い込まれるのを眺めながらそう思った。
その時だった。
「【白蓮華】!」
鋭い呪文とともにサクの周りに白い光が現れる。それは地面から芽吹く植物のように伸びて、サクの周囲を取り囲むように広がっていく。
大犬の牙が白く光る花ごとサクを貫こうとするが、バチィッとまるで電気が弾けるような音が響き、周囲の白い花弁がサクを守る。
何が起こっているのか。大犬の牙が、白い光を貫かんと何度も何度も白い薄壁に突き刺さる。
「宗方君!もう安心なさい!」
大犬の唸り声が響く中でもはっきりと聞こえるその声。
そちらに目を向けるとそこにいたのは紫色の袈裟に身を包んだ老人。桔梗院の奥……寺からこちらに向かって歩いてくる福寿先生だった。
「先生…!」
蓮華に包まれたサクは身動きも取れずにそこに尻餅をつくしかない。しかし、それもいつまでもつのか分からない。牙が蓮華を削るたびに花弁は散り、サクを守る結界もまた薄くなっていくのが分かる。
かといってここから出ていこうものなら一瞬のうちにくびり殺されてしまうだろう。
「こちらです!来なさい!!」
福寿先生の持つ大きな杖。木の棒の先に金色の円型のものがつけられた錫杖と呼ばれる仏教ならではの杖をシャランと鳴らし、福寿先生は力を込める。
バタバタと袈裟が風になびき、揺れる。福寿先生を中心として渦を巻くように風が鳴っているのがサクの位置からでもはっきりと分かった。
それを脅威を見たのだろう。サクに執心していた大犬の注意がサクから福寿先生へ向く。
そして西門を蹴り飛ばして一気に福寿先生へととびかかった。
「先生!」
「【阿修羅】!」
サクが声を上げるとほぼ同時。福寿先生の錫杖から白い大玉の魔弾が撃ちだされる。それはまっすぐに大犬めがけて飛来し大犬の腹を穿つ。
まるで爆発のような破裂音が鳴り響き、大犬は桔梗院の塀まで吹っ飛ばされた。
そのあまりの威力に大犬がぶつかった塀は崩れ、ガラガラと無残な瓦礫へとその身を落とす。
そして、塀の向こうへと大犬は転がり落ちていき重い何かが落下するような音が山びこのように桔梗院の学舎に鳴り響いていった。
「ごほっごほっ。やれやれ……歳はとりたくないものですね。たったの一振りでこれですか」
福寿先生は杖に体を預けながらふらつく。サクの周囲を囲っていた白蓮華の結界もまたパラパラと崩れて消えていく。
「福寿先生!大丈夫ですか!?」
サクは福寿先生に駆け寄ると、今にも崩れてしまいそうな先生の体を支える。
福治先生の体はとても軽く、あんな大犬を打ち負かしてしまうなんて思えなかった。
「ほっほっほ。大丈夫ですよ。これもまた仏のお導きでしょうかね」
崩れた塀を物悲しそうに眺めながら福寿先生は言う。
「あれ…何だったんですか?」
「あれは……白です」
「白……って、まさかあの白ですか!?」
福寿先生の言葉をサクはすぐには吞み込めなかった。
確かに、白い毛に赤い眼。思い返してみればさっきの大犬には前に出会ったあの小さな子犬と酷似した特徴があった。
「でも……あんな子犬がこんなことできるはずが」
「いいえ。犬神であればあれぐらい他愛もない。むしろあれが本来の犬神……白の力ということです」
福寿先生の言葉を聞いてサクは鳥肌が立つ。
「見た目に捉われてはなりませんよ、宗方サク君。特にこの魔法の世界では。魔法の世界で真髄となるものは魔法。その力。その者の価値はその能力で決まるのです」
福寿先生はサクから身を離して立ち上がると、崩れた塀まで歩いていき、その下を見下ろす。
そこにはぐったりとその身を投げ出した大犬…白が目を固く閉じたまま倒れていた。
「悲しきことです……。いったいどうしてこのようなことに」
そう呟く福寿先生の顔は、サクからは見えなかった。
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