第46話 冷たい夜②

 桜の園に差し込む優しい朝日を浴びてサクは目を覚ました。


 普段見慣れた古びた日本家屋の屋根ではなく、白く塗られた洋室に近い天井がサクの視界いっぱいに広がった。


「ここは……」


 重い体を持ち上げながらサクは周りを見渡す。


 一度だけ入ったことがある。ここは桜の園の管理人室。桜の園の運営に関わる書類やら生活必需品がおかれている場所。


 奥にはアゲハさんの部屋があることもあって体調不良者が出た場合の医務室として利用することもあった。


 つまり、今のサクは病人としてここに寝かされているのだろうということがなんとなく理解できた。


「サク君?起きましたか?」


 すると、奥の方からぱたぱたといつものエプロン姿に着替えたアゲハさんが小走りで駆け寄ってくる。時刻にしてまた朝の5時。こんなに朝早い時間から活動しているのかと少し驚いた。


「アゲハさん、なんで俺ここに?」


 リアムだろうか?彼は獣人ということもあって物音に敏感だから、隣の部屋でうめくサクの声に気が付いてアゲハさんを呼んでくれたのかもしれない。


 だが、実際はサクの予想とは違った。


「クラちゃんが私を呼びに来たんです」


 サクは驚く。そこで初めて気がついた。布団の上に感じる確かな重み。いつも部屋の中から決して出ていこうとしないはずのクラがここにいたのだ。


「あの時以来ですね。この子があのお部屋から出てきたの」


 あの時とは、クラがサクの杖を持って逃げ出した時かとぼんやりと思いながら布団の上で静かに沈黙する花瓶をそっと撫でる。これはクラが眠っている状態だ。


「なんでクラが?いつも連れ出そうとしても絶対に部屋を出ようとしないのに」


 そう、クラはサクの自室115号室に酷く固執している。何があろうとも決してあの部屋を出ようとしなかった。


 そんなクラがあの部屋を出るだなんてこと、あの事件以来だ。


 目を丸くしているサクに、アゲハさんは微笑む。


「すごい必死でしたよ?ぴょんぴょん跳ねて私のところにまっすぐやって来て」


 アゲハさんの言葉が正直なかなか信じられなかった。だって、俺のためにそんなことをする理由なんてないだろうに。むしろ俺という枷がなくなればこのクラは自由の身。


 式神という縛りから解放されてクラの思い通りに生きていけるようになるはずなのに。


「式神って、主人が死んだら死んじゃうとか…そういうことですか?」


 サクの言葉を聞いたアゲハさんはサクのおでこを指ではじいた。


 朝の少し冷え込んだ空気に、それはとてもしみるように痛かった。


「馬鹿を言っちゃいけません。それはクラちゃん…あなた自身を貶める言葉です」


「でも、それ以外にクラが俺を助ける理由なんて思いつかないっていうか」


「そんな理由なんて、1つに決まってるじゃないですか」


 サクの目を見つめながらアゲハさんは言う。


「あなたのことが大切だからですよ、サク君」


「……っ」


 俺のことが、大切?


 的外れもいいところだと正直思ってしまった。


「いや、あくまで俺とクラは同居人なだけだし……そんな、何か特別な関係があったわけじゃないはずで」


「サク君、特別な関係なんて最初からあるものじゃないんです」


 アゲハさんがサクの頭を撫でる。


 子どもじゃない、と手を払いのけてしまいたかったけれど、何故かその手を払いのけることができなかった。


 ただ、じんわりと胸の奥が温かくなるだけ。そんな感覚をサクはまだ知らなかった。


 ……いや、知っている?分からない。不思議な感覚だと思った。


「特別な関係というものは、どこにも存在しない。なぜならそれは自分で作り上げていくものだから」


「だとしても……あくまで俺はあの部屋で生活するためにクラと式神の契約をしただけで」


「きっかけはそうだっただけです。けれど、命とは変わるものです。あなたの選択が、あなたのクラちゃんとの交わりがこの子を変えたんですよ」


「何も…特別なことなんてしてないです」


「あなたにとってはそうだったとしても、クラちゃんにとってはそうじゃなかったのかも知れません」


 アゲハさんの手がサクの頭を離れる。払いのけてしまいたかったその温もりが失われることが何故か嫌だった。


「あなたはもう少し、自分に優しくなるべきですね。自分の頑張りと、自分の良さを素直に認めてあげれるようになる強さが必要だと思います」


「………」


「あとは、ほんの少し大人に頼ることができるようになることです」


 アゲハさんが何故かいじけたような顔をしながらそう言う。


 それだけでサクは察してしまった。


 紫藤先生との試験までの間、アゲハさんはサクに学校のことを決して聞いてこなかった。


 いつもなら「学校はどうですか?」「困っていることはありませんか?」と、しつこいぐらい聞いてくるというのに、この数日間はそれが一切なかった。


 きっと、アゲハさんは知っていたんだ。サクが学校で何かあったことを。いや、もしかするとその詳細まで知っていたのかもしれない。


 それに、昨日の夕食。とんかつなんてご馳走が出たことに気付くべきだった。

 

 サクが見事に試験をやり遂げた。あれはアゲハさんからのお祝いだったんだ。


 サクの目の奥がぐっと熱くなるのを感じた。同時に1筋のしずくが零れ落ちるのも。


 自分の無様さに、自分の独りよがりな態度に心底後悔した。


 何を自分1人で乗り切った気になっていたんだ。


 自分が気が付いていないだけで、あの試験を乗り越えるためにどれだけたくさんの人がサクのことを手助けしてくれていたのかにも気が付かないで。


 くじけそうになっても決して見捨てずに信じ続けてくれた空希さん。サクが投げ出した杖を届けに来てくれて、最後のヒントをくれたドロシー。敢えて何も言わずに、それでもサクの事を気にかけ続けてくれていたアゲハさん、そしていつもそばにいてくれたクラ。


 どれだけ……どれだけ自分が助けられていたのか。


 こんな時、どうすればいいのだろう。これだけたくさんの人が支えてくれて、それに気が付かなくて。


 この抱えきれない温かい気持ちを、どうすればいいのかサクは知らない。


 すると、ふとサクの頭にとある仏頂面の顔が想起される。あいつの言葉に従うのは癪な気もしたけれど、きっとそれしかサクのこの気持ちを表現する方法はないと悟った。


「……あの、アゲハさん」


 サクはぐっと鼻水をすすりながらアゲハさんに言う。


「ありがとう…ございました。その……色々、心配と迷惑をかけて……ごめんなさい」


「ふふっ。よくできました」


 一瞬目を丸くした後、アゲハさんが満面の笑みを浮かべる。そしてサクの事を優しく抱きしめてくれた。


 戸惑ってしまったけれど、それでもサクはそれを素直に受け入れた。


 柔らかな朝日のような気持ちがサクの心を包む。


 それは、これまでのサクの人生の中になかったものだった。

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