第45話 冷たい夜①

 無事に指導先生の補習を乗り切ったサクはその日の他の出来事なんて心に残らずに1日有頂天ですごした。


 そのせいか夜にはどっと疲れが込み上げてきて、時間にしてまだ8時だったが、すでに布団に転がっていた。


「食い過ぎたな」


 はち切れそうなほどに膨らむ自分の腹を押さえながらサクは苦笑いする。


 ここ数日、試験のことが気がかりでろくに食事も喉を通らなかった。


 だから今晩は全てのストレスから解放されて思う存分食事を楽しむことができた。


 久々にアゲハさんのご飯をたらふくかき込むサクの姿を見て一緒の卓についていた沙羅と凪は開いた口が塞がらないようだった。


 一方、リアムはそんなサクに対して「お前を見てると食欲が失せる」とか言っておかずのトンカツを押し付けてきた。


 まだ、俺はここにいていいんだ。


 そう思える自分がいることにサクは素直に驚く。


 別に、前ならこんなことを思わなかっただろう。せいぜい叔父さんの元に帰ることが嫌だとしか思えなかったはず。


 けれど今こうして桜の園に残れることになったサクの心はとても穏やかだ。


 桜の園……そして桔梗院に来てからの日々を思い返す。


 面倒くさくて騒がしい毎日。新しいことや課題ばかりでまだまだ困惑する日々が続くけれど、不思議と失いたくないと思える学園生活。


 晴輝、凪、沙羅、リアム、ドロシー。アゲハさんに空希さん。桜の園の先輩達。


 暗い部屋の中で目を閉じると彼らの顔が想起させられる。


 今までこんな経験なかったはず。そんな自分の変化を、サクはどう受け止めればいいのかよく分からなかった。


「キキ?」


「お前もだよ、クラ」


 サクの布団に潜り込んでくる灰色の花瓶。式神のクラを抱きながら呟く。布団で横になっているはずなのにクラの中身の水はこぼれない。


 そうだ、ここに来たことは正解だったんだ。きっとこれからもっとよくなっていく。そんな風に感じて瞳を閉じる。


 明日もまた学校なのだ。まだ早いが寝てしまおうと、そう思った。


「ぐ……」


 その時だった。


「ぐ……あぁ……!?」

 

 突然サクの胸を抉るような痛みが走る。


 いや、抉るなんて可愛いものじゃない。サクの胸がまるまる無くなるような、そんな感覚だったかもしれない。


「なん…だよ……これ……!?」


 いつもの発作か……!?いや、違う。こんな激痛を伴ったのは初めてだ。


 全身の毛穴から脂汗が滲む。たまらず布団の中で自身の身体を抱きながらうずくまることしかできない。


 胸の中心。心臓だろうか。


 まるで胸の奥からどす黒い何かが溢れ出てくるような感覚。見えない暗い闇の向こうへ飲み込まれていってしまうような恐怖を感じた。


「キッ!?キキーッ!?」


 サクの異常を察知したクラが金切り声を上げる。


 痛みを堪えるために、サクは布団を強く握りしめる。表面の布が破け、中の羽毛が漏れ出してサクの鼻にあたった。


「ーーっ、〜〜〜〜〜っ!」


 息が……できない。声も出せない。


 頭から血の気が引いていくのが分かる。


 心臓が……動いていない?


 そう錯覚したが、むしろサクの心臓はいつもの2倍は速く鼓動を打っている。


 それとは真逆で身体が熱を失い、急速に冷たくなっていく。


 し、死ぬ……?


 サクの視界もぼんやりとぼやけていく。


 暗いはずの部屋がさらに暗くなっていき、部屋の中にいるはずなのに部屋が遠くの方へと行ってしまうようだった。


 ズブズブとサクの胸と頭が暗闇に支配されていく。


 嫌だ……。


 死にたくない。


 サクは消え入りそうな意識の中でそう思う。


 けれど、現実は無情でサクの身体から生命の温もりが失われていく。


 凍りついていくように硬直していく身体。微かな意識の中で、サクは何を思ったのだろう。


 まさに意識を完全に手放す寸前。サクの大切な何かが完全に失われてしまう直前。


 凍り付いていく体…いや、違う。これは心?そう呼ばれるもの。


 なんとなくサクはそう感じた。確かに存在するその息づく何かが死に、凍り付いていく。まるでガラスのような熱を持たない無機物へと変貌を遂げていくのを一刻一刻その身に感じ続けた。


 それが全て冷たい無機物へと変わってしまったその時、サクは消える。漠然とそう感じた。


 誰かが教えてくれたわけじゃないのにサクの本能がそう叫んでいた。その事実にサクは恐怖するしかない。


 だがやがて、恐怖するその心すらも消えていく。冷たく物言わぬ氷像へと変わっていく。


 ダメだ。もう何も感じない。


 冷たい畳よりもサクの体が冷たくなっていく。やがて最後の時。サクのすべてが消え、失われる。



 まさにその時だった。



「ーーーーーー」



 なんだ?


 サクの脳裏によぎるのは何かの光景。


 サクを横切るいくつもの大きな黒い影。


 それはまるでサクなんてそこにいないかのようにただただ通りすぎていく。


 そっか……僕なんて存在する意味なんてないんだ。


 誰かがそう言う。


 影が1つ、また1つ通り過ぎていくたびに彼の大切な何かもまたさらわれるように消えていく。


 自分の存在すらも分からなくなっていく。


 そんな時、ふと大きな1つの暗い影が少年の前で立ち止まる。


 何?


 黒い影は、じっとサクを見下ろし立ち尽くす。この時のサクの気持ちは分からなかった。


 黒い影が突如小さくなり、サクと同じ高さになる。


 ものの1分ほどだったろうか。いや、数十秒か、あるいは数秒だったのかもしれない。しばらくサクのことを観察するようなそぶりを見せたそれが突然が大きく広がる。


 そして次の瞬間にサクの体を包み込んだ。


「ーーーーーーっ!ぶはぁっ!?」


 そう思ったその時、サクの身体が急速に熱を取り戻す。


 心のすべてが凍り付くまさにその直前。最後の一片が暗い闇を晴らすように。すべての黒が白にひっくり返されていった。


 失われていた臓器が再び活動を再開し、サクに命の息吹が戻る。


「はぁっ……はぁっ……はぁぁ……ゲホォッ」


 吸うことも忘れていた空気を肺いっぱいに取り込みながら咳き込む。


 そしてそのままトイレへと駆け込むと胃の中の内容物を全てぶちまけた。


 寝巻きが汗でびっしょりと濡れ、まるで水を被ったかのようだった。


 なんだ……一体何があった!?


 自分の身に起こったことなのに自分が1番理解できなかった。


 ぐるぐると視界が回り、サクの平衡感覚は失われる。


 そのままサクはぐらりと床に体を投げ出して意識を手放した。

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