第11話 桜の園④

 グルグルと世界が回る。


 いや、回っているのは自分自身だ。遠心力と回転で三半規管がめちゃくちゃに揺さぶられ文字通り右も左も分からなくなってしまう。


 それどころか自分が立っているのか寝ているのかも分からない感覚に陥っていた。


 サクの意識が闇の中へと落ちそうになるのを感じる。


 頭が危険信号を発したその時。突然サクの身体を襲っていた浮遊感が消え、ドサッと何か重い物が落ちるような音が響く。


 それが自分が地面に放り出された音だと言うことに気がついたのは口の中に土の味がしてからだった。


 ここはどこなのか、という疑問すら今のサクに考える余裕はない。ただ迫り来る嘔吐感と未だ揺れ続ける三半規管の波を堪えることしかできなかった。


「…………」


「……?」


 しばらく悶えていると、何かの視線を感じた。


 晴影さん?それとも晴輝?


 助けを求めようと思い顔を上げる。どれほどの時間が経っていたのか、既に西日は山の影に隠れて夕焼けが広がっていた。


 あたりは木々に囲まれたようになっている。山の真ん中にでも放り出されてしまったのだろうか?


 けれど、視界の端々に植木鉢や物干し竿など生活感の溢れる物がちらほら見える。どこか田舎の方だろうか。


 そしてそのさらに向こう。木々の並んだ森の中。


「……っ」


 サクは確かに見た。


 それは、多分人影だったと思う。自分が倒れているせいで大人か子どもかも分からないが、確かに人の形をしていた。


 腕は2本で足も2本。頭は1つで胴も1つ。普通の人の形。


 ただ、サクはその目の前の人影に思わず目を奪われた。


 何故?理由はたった1つ。


 その人の髪が、真っ白だったから。


 老人の髪のそれともまた違う。全くの汚れを知らない雪のような美しさがそこにはあった。


 多分、見惚れていたんだろう。その美しさと、触れれば崩れてしまいそうな儚さに。


 一瞬のことだったように思うが、サクにはとても長い時間のように感じられた。


「……ぅ」


 サクは呼び止めようと手を伸ばしたけれど、喉まで迫った胃酸で声を発することができない。


 すると、人影がこちらの方に顔を向けたような仕草をする。それと同時に何やら紫色の光に包まれていく。


 そしてその光が消えた頃にはその人影は消えてしまっていた。


「…………」


 あれは、何だったんだろう?


 男か女かも分からなかった。


 どこに消えたんだろう。森の中に隠れてしまったようだが。いや、もしかすると幻だったのかもしれない。


 それとも山の中に住む精霊か何か。


 そんなことを思ったが、ありえない。そんなのファンタジーの世界の話じゃないか。いや、でもつい数時間前にそんなファンタジーがこの世にあることを知ってしまったのだ。


 なんてことを思っていると、ブォン、と何かの音がサクの鼓膜を振るわせる。


「大丈夫か?サク君」


 晴影さんの声。サクの後を追って来てくれたらしい。


「は…晴影さ……うぶ」


 サクの背中をさする大きな手。それを感じた瞬間、サクが堪えていた物が一気にせきを失ったように込み上げて来た。


「うげえええええええええっ!!」


「お、おわぁぁぁぁぁ!?」


 そして、サクは胃の中の物を晴影の着物に向かって盛大にぶちまけた。


ーーーーーーー


「落ち着いたかね……」


「は、はい。すいません……」


 サクはぐったりした様相の晴影に深々と頭を下げていた。


 サクの吐瀉物で汚れた晴影の着物には大きな黒いシミができあがっている。


 辺りは木々が生い茂り、風が吹けば緑の爽やかな香りが心地よい。けれど、そこにサクの胃酸の酸っぱい匂いが混じる度申し訳なさで顔を上げられなくなった。


「き、気にするな。【転移鳥居】で酔う者は少なくない。それに体勢を崩して飛び込んだのだ、吐くのも仕方ない……うむ、仕方ないのだ」


 晴影はサクにと言うよりも自分に言い聞かせるようにそう言っていた。


 ちなみに晴輝はそんな2人を少し離れたところで見守っていた。


 あからさまに落ち込んでいる晴影がいたたまれなかったので、サクは何とか話を変えようと辺りを見渡してみる。


 どうやらここは山の中の小さな集落のような場所。一本のアスファルトで舗装された車道と、その横を流れる流れの緩やかな川。


 サクはそのアスファルトから少し逸れた土の上に立っていた。振り返ってみるとそこには薄汚れた鳥居と、廃れた神社がある。


 アスファルトの道の向こうには森を切り拓いた畑や田んぼが並び、そのさらに上側に明かりのついた旅館のような立派な日本家屋が立っていた。


「ここは……どこなんですか?」


 街灯すら立っておらず、闇夜を照らすのは焼け落ちた夕焼けと太陽と交代するように姿を現した月と星の数々。


「ここは奈良県某所……我ら菊の紋が運営する学生寮【桜の園】だ」


 そう言いながら晴影は袖の中から棒切れを取り出すと、それを振る。


 すると畑の中の土道にそっていくつもの小さな灯りが灯る。それは白い炎のようでサク達の足元を照らす。


 それはあの建物へと導く灯火のようだった。


「では行こうか」


「は、はい」


 そのついでか、陽影の着物も別の物へと変貌を遂げていた。それもなにかの魔法なのだろう。


 胃酸にまみれた着物の行方は気になるが、サクの罪悪感は薄らいだ。


 揺れる白い炎に誘われるようにサク達は土道に向かって歩き出す。


 雨が降ったのだろうか、ぬかるんだ道を歩き進めていくと暗い影のようだったその建物の全貌が見えてくる。


 まるで城のような立派な門が立ち、その奥には立派な二階建ての旅館のような建物がある。


 白い土を塗り固めたような壁と、それを支える大きな木の柱。瓦は長い年月を風雨に晒されて来たのか古ぼけたように色あせているように見える。


 建物の周りをぐるりと塀が囲っているが、その広さはかなりのもので門からでは全容が分からないほどだった。


 晴影は躊躇うことなく門を潜り、その奥の建物の入口へと歩いていく。


 晴輝と並びながらサクも後を追いかける。引き戸となっている玄関の横には【桜乃園】と古い文字が掘られた木の板が貼ってある。先程から晴影が言っていた名前だ。


 ガラガラと鈍い音を立てながら晴影が引き戸を開くと、その向こうには日本の古き良き旅館といった様相の玄関が広がっていた。


 形が不揃いの岩を埋め込まれた硬い床。そこにはたくさんの靴が几帳面に並べられている。


 外装と同じように中も白い漆喰と古い木の柱が基調となっており、玄関の右隣には色とりどりに飾られた生け花がある。


 その反対側には丸い岩。くり抜いたような丸い穴が空いており、そこに水が溜まっている。


 そこに 鹿威しししおどしが備えつけられており、かこんという軽快な音と共にその岩の穴の中へ水を流し込んでいた。


「……あれ」


 そんな鹿威しを見てふとサクは違和感を覚える。


 普通、鹿威しには竹の中に水を流し込む水源が存在する。だと言うのにこの鹿威しにはそれが無い。


 竹の筒と、そこから溢れる水を受け止める穴があるだけ。


 またカコーン、と景気の良い音を立てるそれからは綺麗な水が溢れ、岩の穴に注がれる。


 一体この水はどこから出てきているのか。いや、そもそもこの岩に水を流し込んでいてはいずれ水は溢れここは水浸しになってしまうだろう。


 それなのにこの水は溢れるどころか一切辺りに水が飛び散っていないのだ。


 これも何か魔法の類なのだろうか、なんて事を思っていると建物の奥の方から何か人が歩いてくるような音が聞こえてくる。


 そちらの方に目を向けると、1人の少年が歩いてくるのが見えた。


 鋭い目付きをした片側だけまくしあげられたような髪型の少年。身長は170以上ありそうな程高く、スラッと細身の彼はまるでモデルのようだった。


 だが、サクは別の意味で彼に釘付けだった。


 髪の色が、まるで空色のように綺麗な水色だったのだ。


 近年は色々な髪の色の人がいるけれど、ここまで思い切った髪色をした人はサクの身近にいなかったのですごいなぁ、と思う。


「……ちっ」


 そんなサクの視線を感じてか、彼は小さく舌打ちをすると玄関に並べられた下駄を履き、そのままサクに肩をぶつける。


「いてっ……」


 結構な衝撃だった。思わずサクはよろけて鹿威しの方へと倒れ込み、頭をぶつけた。


 一方の彼はそんなサクには目もくれず、そのまま玄関の外へと歩き去ろうとしている。


 その様子を見る感じ、わざと肩をぶつけて来たのは明白だ。


 この……!と、頭の中で怒りの感情が沸々と煮える。しかしだからと言って不良でも何でもないサクは彼に文句を言ったり掴み掛かると言った胆力を持っているわけでもない。


 渋々その背中を見送ることしかできなかった。


「こら!」


 すると、今度はパタパタとスリッパを履いて走っているような音と共に若い女性の声が響く。


「ノア君!帰って来なさい!あっ、そこの彼にもちゃんと謝って!聞いてるんですか!?」


 押し倒された不恰好な体勢のまま見上げると、そこには白い手拭いを巻いた女の人が立っている。


 膝下まで伸びた薄緑色のエプロンをつけ、長い茶髪を1つくくりにした可愛らしい顔立ちの彼女は20代前半ぐらいに見える。


 その手には先程まで料理をしていたのか銀色に光るお玉が握られており、腰に手を当てながら水色髪に向かって怒っている。


 サクはそこに現れた女性に思わず釘付けになった。とても可愛らしい顔立ちをしているが、可愛いから見惚れていると言うわけではない。


 彼女の頭手拭いが巻かれたその隙間から溢れているのは大きな耳。恐らく犬だろうか。蝶のような形をした獣の耳が彼女が声を出すたびに揺れる。


 そしてその腰からはフサフサのしっぽがビンと彼女の怒りを表すように天井に向かってまっすぐ伸びているではないか。


 コスプレ……?いや、あれは無機物のそれじゃない。彼女の息遣いや体に合わせて動いているのが分かる。


「うぜえな。あんたには関係ないだろう?」


「関係ないことありません!私はここの寮長ですよ!?あなた達を監督する義務があります!!」


 一方ノアと呼ばれた水色髪は直接目を向けられている訳でもないサクでもゾッとするほどに怒りの感情をぶつけている。


 茶髪の女性はそれに全く怯む事なくより強い口調で言い返していた。


「夜に勝手に出ていくなんて、勝手な事は許しません!!」


「てめえに指図される筋合いはねえんだよ!犬女!!」


「なんて事を言うんですか!?こら、帰って来なさい!ノア君!ノア君!!」


 怒る女性を尻目にノアは振り返ることもせずにそのまま玄関を出て、ピシャンッと玄関の扉を閉めてしまった。


 一部始終をサクはどこか上の空で眺めるしかなかった。そしてそれは晴影さんと晴輝も同様だろう。


「………………はっ!?」


 しばし沈黙が流れた後、女性はサク達の存在に気がつき、あたふたし始める。


「……お、お見苦しい所をお見せしました」


 流れていた複雑な空気を察してか、茶髪の女性は恥ずかしそうに頬を染めながら頭を下げた。


「私は【桜の園】の寮長をしています犬養アゲハと申します」


「あ……宗方サク……です」


 フリフリと揺れる尾に視線を釘付けにしながらサクも無感情に自己紹介を返した。そんなサクに対してアゲハは肩を落とす。


「ご、ごめんなさい!私が不甲斐ないばっかりに……いきなりこんなの見せられたら不安になりますよね、私なんか寮長になる器じゃないのにしゃしゃっちやって……」


「あ……いや、そうじゃなくて」


 嵐のように謝罪の弁を述べるアゲハさんに、サクはまた圧倒される。


 揺れていた尻尾は地に落ちたように垂れて動かなくなってしまった。


 あぁ、別にアゲハさんとノアとかいう輩の言い合いに驚いたわけじゃない。彼女の耳と尻尾の衝撃の方がサクにとってはでかかった。


 だが、人の容姿のあれこれに衝撃を受けたなんて事を言えば気を悪くさせてしまうだろう。どう説明すればいいかと頭を回す。


 しかし、それを説明する魔法の世界への予備知識がサクにはない。彼女の耳と尾が魔法のそれなのか、それとも彼女の服装による物なのかも分からないのだ。


「安心しなさい。サク君が驚いているのは獣人を見るのが初めてだからだ、アゲハさん」


「あぁ!?土御門晴影様!?もも申し訳ございません!!気が付かなくて!!」


 すると、晴影の存在に気がついたアゲハはまた彼女の耳と髪を揺らしながら腰から90度に頭を下げていた。


 そんなアゲハを宥めつつ、晴影は簡単にサクのことを説明してくれる。


 今日初めて自身が魔法使いと伝えられた事。それまで一切魔法と隔絶した生活を送って来たこと。そしてこの春から魔法の学校……【桔梗院】に入学することになること。


 要領よく端的な説明だった。アゲハさんとふむふむと頷きながらそれに耳を傾ける。


「まぁ!それじゃあ私のような獣人を見ることも初めてってことですね!」


 そうして事情を把握したアゲハさんはパンと手を合わせながらサクに笑いかけてくれる。


 だからと言ってジロジロと物珍しく人の身体を見るもんじゃない。分かっていて目を逸らそうとしてもどうしても気になってしまって視線が尾か耳へと寄せられてしまう。


 申し訳なさでサクは複雑な顔持ちで目を逸らすしかできない。


「安心してください、私は気にしませんから。……よかったら触ってみますか?」


 すると、少し考えたアゲハさんは自分の尾を身体の前に回すと、それをそっとサクの方に差し出した。


「…………えっ!?」


 アゲハさんの突然の申し出に動揺を隠すことも忘れてたじろいでしまう。


「なっ、何言ってんですか!?」


「ふふふ、これも社会勉強ですよ。私なら大丈夫ですから」


 クスクスと微笑みながらアゲハさんは告げる。


「…………っ」


 フリフリと揺れる茶色い尻尾にサクはゴクリと息を呑む。


 動物は好きだ。だからふわふわのもこもこを触ることに何の抵抗だってない。むしろ学校からの帰り道で犬や猫を見かけたらよく1人で愛でていた。


 だけど、これはふわふわのもこもこだが同時に人の身体のそれである。


 それも20代前半の綺麗な女性の身体。それも尻尾は彼女の腰から生えている。そんなことを思うと色々と考えてしまう。


 お年頃のサクにとっては少々刺激が強い経験である。


「ぷっ……ふふふふ」


 おい、晴輝笑うな。


 しどろもどろしているサクを見て笑う晴輝。こいつ……こっちの気も知らないで。


「アゲハさん、今日はサク君も色々あってな。少々いっぱいいっぱいのようだ。ゆっくり休ませてやってくれんか?」


「あ……それもそうですね!そんなことにも気が回らなくてごめんなさい!」


 困っているサクに晴影が助け舟を出してくれる。それを聞いたアゲハさんはまた申し訳なさそうに耳を垂れさせながら謝罪の言葉を並べた。


「え…と……じゃあ俺がここに連れてこられた理由って……」


 まぁ、薄々理解はしていたが最終の確認のために晴影に問いかけてみる。


「うむ。そういうことだ」


 晴影もそれを分かっていたように頷きながら言った。


「学生の間、君はこの魔法孤児専門の学生寮、【桜の園】で生活することになる」


 そう、この【桜の園】と呼ばれる寮。サクは住み慣れたあの家を離れ、ここで生活を始めるということである。


「魔法孤児専門の学生寮……ですか。そんなのあるんですね」


「うん。父さんは日本の魔法孤児の処遇をどうするのかを担ってるからさ。こういった魔法孤児専門の寮を作ってたり魔法孤児の引き取りの斡旋をしたりしてるんだよ」


 晴輝の話ではこの桜の園に限らず魔法孤児を預かってくれる里親や親族への取りつぎなども行っているとのこと。


 わざわざ魔法界のトップが直々にそんなことをするなんて、余程昔あった魔法孤児の事件が凄惨だったのかもしれないと思った。


 サクはアゲハに引き連れられて桜の園に上がる。


「それじゃあ、早速サク君のお部屋に案内しますね」


「あぁ、待ってくれアゲハさん」


 意気揚々とサクを案内しようとするアゲハを止めながら晴影はサクの方に目を向ける。


「我々はこれでお暇させてもらおう」


 靴を脱いだサクは晴影と晴輝に振り返る。


「あの、これからどうすればいいんですか?」


 ここまでサクを連れてきてくれた2人がいなくなるという事に不安を感じる。一体これから先サクはどうすればいいんだろうか。


 桔梗院に入学する事は分かったし、ここで生活するということも分かった。


 だが、それまでの間は?


 ただこの桜の園で過ごせばいいのか。でも学校に通うとなれば制服だとか教科書だとか色々な物が必要になりそうだ。


 その準備も含めて学校が全部やってくれるのかもしれないが。


「近いうちに使いの者を送る。その者に学用品の準備など諸々を託すつもりだ。詳しい事はその者に聞くといい」


「は、はぁ……」


 使いの者と聞いて気が重くなるのを感じる。あまり社交的な性格では無いので新しい人と関わるのに気乗りしないのだ。


 この晴影さんや晴輝なら多少気も楽なのだが。


 晴影が扉を開くとまだ冷たい風がサクの頬を通り抜ける。


 サクはそれ以上何も言えない。ただ去りゆく2人を見送るだけだ。


「僕もさ、魔法学校への入学はこの春からなんだ」


 すると、晴輝が足を止め、振り返りながら言う。


「この春から……ってことは、俺と同じ歳ってこと?」


「そ。それも同じ桔梗院だから同じクラスになるかも知れない」


 意外だと思った。大人びているし魔法も使えると言っていたからてっきり1つぐらい歳上なのかと思っていた。


 黒い晴輝の瞳が真っ直ぐにサクを映す。


「僕、君と会うのが楽しみだったんだ。だからまた会えるといいね」


「そう…だな」


 これまでと何ら変わらない晴輝の笑顔。


 とても綺麗で爽やか。優しい顔だ。


 サクは今日初めて晴輝の笑顔を見て、そう思った。


 魔法でもなんでもない、晴輝のただの言葉が不思議な程にサクの不安な心を晴らしてくれた。


 カコーンと、また鹿おどしが夜の静寂を割る。


「じゃあね、サク君。また学校で」


「お、おぅ」


 そう言い残してガララ……と滑りの悪い音を立てながら2人は玄関の戸を閉めた。


「それじゃあ……行きましょうか」


「……はい」


 一瞬の沈黙の後、アゲハがサクにそう声をかけてくる。


 サクもそれに応じて薄暗い桜の園の廊下を歩き進めていくことにした。

 

 古い木の床は足を踏み込むたびにギシギシと音を立てる。サクの家の床と同じようだ。


 家の床は足を擦って歩けば音は鳴らなかった。アゲハの後に続きながらそっと足を擦って歩いてみる。


 すると、床のささくれが少し足に刺さる。痛いのでもう擦るのはやめることにした。うちといい勝負なくらい随分と古い建物だ。


 そんなことを1人でやっていると2階へと続く階段が現れる。アゲハはそれを横切りながら先に進むので、サクの部屋はどうやら1階らしい。


 階段の方に目やると花が飾られた薄暗い踊り場が見えるだけで2階の様子は分からない。


 階段を横切った先には弁柄色の妙な木像がじっとサクの事を見つめていた。小太りな中年男性を模したようなそれは小さな小刀のようなものを握っている。


 すれ違う時もその木像から視線を感じて気味が悪いと思った。


 階段を通り過ぎた先の廊下には扉がいくつも並んでおり、そこには【103】【104】と言った具合に部屋番号が書かれている。


「男の子は1階です。上の階は女の子の部屋なので男子は入っちゃ行けませんよ?」


 まぁ、女の子も男の子の部屋に入っちゃダメなんですけどね?と付け加えながらアゲハは楽しそうに尻尾を振る。


 なるほど。じゃあさっきの階段が女子の部屋へと続く階段なんだろう。


「行きませんよ、別に興味ないですし」


 実際は少し興味があるが、そんなの恥ずかしくて言えるわけもない。そんな強がりを返してみる。


 そんなサクの顔をアゲハはクスクスと笑いながら覗き込む。


「あ、因みにもし女の子の部屋に続く階段を登っちゃうと……」


 そうアゲハが説明しようとした、その時だった。



 バチィィィィン!!!



 突如静寂の廊下に響く、何かの破裂音。少し遅れて衝撃波の様なものが風としてサクの身体に吹き当たる。


 振り返ると、先ほど通り過ぎた階段から真っ黒な人の形をした何かが転がり落ちて来るではないか。


 それはそのまま廊下の壁にぶつかると、黒い煙を上げながらぴくりとも動かなくなってしまった。


「…………ああなっちゃうので、サク君は黙って侵入しようとしちゃダメですからね?」


「………………肝に銘じておきます」


 人の形をしたそれは、サクよりいくつか年上の人間に見える。


 多分、魔法か何かだろう。男子禁制の女子寮に男子が入ったらあぁなるみたいな。


 まぁ、きっと行くことはないんだろうけど肝に銘じておこうと思いながらアゲハの後に続いた。


 しばらく歩き進めていくと、やがてアゲハはとある場所で立ち止まった。


「さぁ、ここがあなたの部屋になります」


「え?部屋なんかありませんけど?」


 アゲハが立ち止まった先にあったのは、ただの白い壁だけだ。

 

「さて、それでは始めましょうか」


「始めるって何を?」


 あっけに取られつつもサクがアゲハさんの方に視線を戻すと、彼女の手には何やら棒のような物が握られている。


 確か、晴輝も晴影も同じような物を持っていた。


「あの、それっていったい何なんですか?」


 2人には色々なことが怒涛に起こったせいで聞きそびれてしまった。アゲハに尋ねてみる。


「まぁ、本当に魔法のこと知らないんですね」


 アゲハはサクの質問が予想外だったようで目を丸くしながら説明してくれる。


「これは、杖です」


「杖……」


 やっぱり、と思った。晴影が魔法を使った時、確かこの杖を振って色々やっていたような気がする。もっとも、魔法のことなんてまだ何も知らないサクにとっては何をやっていたのか微塵も分からない。


「【言霊】って聞いた事ありますか?」


「【言霊】?」


 サクも気が付かないうちに考え込んでいたのだろう。頭をひねるサクに向かってアゲハが説明してくれる。


「はい。よく言いませんか?『夢を言葉にすれば叶う』とか、『痛い痛いの飛んでいけ』ってしたら痛みが本当に無くなるとか」


 確かにそんなまじないのようなものもあったような気がする。あくまで迷信とか思い込みの部類だと思う。


「それだけじゃありません。言葉には、不思議な力が宿っています。お花に毎日いい言葉をかけてあげると綺麗な花を咲かせたり、逆に罵詈雑言をかけると草木の元気がなくなって枯れおちてしまったり」


「それは面白いですけど……それと魔法になんの関係が?」


 アゲハの話は興味深いが、今知りたいのは魔法のこと。そんなまじないとは違う、魔法の話をしているはずなのだが。


 そんな疑問が浮かび、少し気だるさを感じた。


「魔法はそれなんですよ、サクくん」


 サクの態度に腹を立てることも無く、むしろそれを予見していたようにアゲハは笑う。


 そのアゲハの余裕そうな表情を見て1本取られたような気がしてサクは目をそらした。


「言葉に宿る力……それこそが魔法の力の源。そして杖はその言葉に宿る力を集約して放つ道具なんですよ」


「?」


「人の言葉には、想いを具現化する力がある。それを【言霊】と言います。杖はそのままでは霧散してしまう言霊の力を集めてくれる力があるんです」


「じゃあ……要は普通の言葉にも力があるってことですか?」


「そういうことです。だから日頃使う言葉も大切にしないといけません。負の言葉を使い続ければいずれ自分には負の力が集まってしまいますし、陽の言葉を使い続ければ人生だって明るいものになっていくものです」


 人の言葉というものにはそもそも魔法のような不思議な力が宿っている。その力を高めて放つのがこの世界で言う魔法ということらしい。


 だが、そんな言葉を素直に受け入れられるほどサクは子どもじゃない。


 魔法と呼ばれるものが、そう簡単なものだとも思えなかった。


「それだと、魔法使いじゃない人も魔法を使えるってことですか?」


 魔法使いでは無い人々……【移人うつろいびと】だったか。彼らも杖さえあれば同様に魔法を使えるということになるはず。


 サクはアゲハにそんな疑問も込めて問い返した。


「かつてはそうだったみたいです。けれど、遠い昔に魔法を使い続ける人と魔法を捨てた人で別の道を歩き出したんですよ」


「魔法を捨てる?なんで、勿体ないじゃないですか」


 魔法があれば、毎日の生活が楽になるはず。まだ魔法をそんなに理解していないサクにだって分かることだ。


 あの転移鳥居だけでも魔法には計り知れない程の価値がある。それを捨てるだなんて馬鹿げている。


「はい。まぁ、その辺はサクくんも学校で習うと思います」


 楽しみはとっておかないと、ですよ。と笑いながらアゲハはスっと杖を掲げる。


 腑に落ちないながらもサクはアゲハの掲げた杖に目を移した。


 彼女の杖は優しい木の色をしていて、彼女らしい柔らかな色だ。


「【アウェイク】」


 アゲハが呪文を唱えると、何も無かった白塗りの壁がゴゴゴ……と音を立て始める。


「サクくんのこれまで暮らしてきた所はどんな所でした?」


「え……あ、古びた日本家屋ですけど……」


 何かが起ころうとしている現状に困惑しながらもサクは答えた。


「じゃあ、床は畳で小さな机と……お布団、押し入れも必要ですね」


 鼻歌を歌いながら楽しそうに杖を振るアゲハ。アゲハが杖を振る度にゴトン、ガタンと壁の向こうで何かが動く音が聞こえてくる。


「後は、オマケに花瓶なんかも付けちゃいます。サービスですよ?」


「さ、サービス?」


 彼女は何を言っているのかよく分からない。


 というか、一体何をしているのだろう。何かこの壁の向こうで起こっていることだけは確かなのだがいかんせんそれが何なのか予想もつかない。


 しばらくアゲハの動きを眺めていると、突如白い壁が雫が落ちた水面のように波打ち始める。


 波紋は横へ横へと流れ、中から浮き上がるようにして焦げ茶色の扉が現れた。


「え!?さっきまで何も無かったのに!?」


「いいリアクションですね。そう、これが桜の園名物なんです。こうして魔法で自由自在に部屋を作ることが出来るんです。面白いでしょう?」


 そうして扉の横にカタカタと小さな部屋番号、115が刻まれる。


「さぁ、ここがサク君のお部屋です」


 そう言ってアゲハはサクの代わりに扉を開いてくれた。


「すご……」


 そこにあったのは今まさに作られたとは思えない和風の部屋。綺麗に敷きつめられた畳と深い茶色が特徴的な座卓。


 引きいれられるように自然と中へと足を踏み入れる。


 座卓の傍には柔らかな光を放つあんどん。ユラユラと中で火が揺れているのが分かる。どうやらここ最近売られているような中に電球が入っているそれとは違って本物の火がついているのだろう。


 広さはおおよそ六畳一間と言ったところ。部屋の右手には黒い鳥を模した掛け軸が飾られた床の間があり、その隣には飾り棚のような物が備え付けられている。


 入って左手にはふすま。先程アゲハが口にしていた押入れだろう。無駄な物がない、古い日本家屋に住んでいたサクにとって馴染み深い部屋だと思った。


 後は窓際にそっとアクセントとして飾られた年季の入った灰色の壺。そこにはまさに開花の時を今か今かと待ちわびる桜の蕾がついた枝が刺さっている。


「それでは、後で簡単なもので良ければ夕飯を準備しますので食堂まで来てください。先程の玄関を左手のところにありますから」


「はい」


 自分に与えられた部屋に感動し、感情のこもっていない声で答えるサク。


 パタンと、静かな部屋に響く扉の閉まる音。


 部屋を照らすのは静かに揺れるあんどんの炎だけ。早速電気をつけて部屋を見てみようと電気のスイッチを探す。


「…………あれ?」


 ところが、部屋の壁のどこを探しても電気をつけるスイッチが見当たらない。


 壁にも無ければ天井からぶら下がる電灯からも紐がたれていない。


 しばらく探してみたが、結局みつけら無かったので、渋々あんどんの灯りを頼りに部屋を物色するのだった。

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