第6章

冷たい右目8

 アパートのドアをノックして中に入ると、コーヒーの香ばしい匂いがした。


 橙樺はベッドの端に座って船を漕いでいた。

 辛うじて起きているように見せかけていたが、ドアをノックして勝手に入っても彼女は気付かなかった。


 那智はしばし橙樺の寝顔を堪能することにした。


 知らなかった。

 人間の寝顔というものはこんなにも美しいのか。

 不幸の権化も寝顔は幸福そのものだ。

 これが本来の姫代さんの表情か。


 柔和なアルカイックスマイルは神々しくもあった。

 どんな夢を見ているのだろう、と興味をそそられた。


「姫代さん」


 声をかけると、橙樺は身体をびくんと跳ねさせて瞼をこすった。


「藤波くん。今戻ってきたの?」


「はい。すみません、少し遅くなってしまいました」


「いいのよ、私もうとうとしていたし。さあ、コーヒーを淹れましょう。私も1杯飲んでみようかしら」


「いいですね。ミルクなしでも飲めそうですか? 苦いですよ」


「食わず嫌いはやめたの。ベジタリアンも今日限りよ」


 橙樺はコーヒーを温め直してマグカップに注いだ。

 マグカップを受け取り、那智は両手を温めながらコーヒーを飲んだ。


 黒い液体に沈む闇と影。


 この色と夜の色は何が違うのだろうか。

 橙樺の瞳には何色に映っているのだろうか。


 橙樺の碧眼が覗くのはモノクロの世界。

 色のない世界。

 美しく憂鬱な世界。


「うっ、苦い……藤波くん、こんなものを毎日飲んでいるの?」


「ええ。エスプレッソはもっと苦いですよ。甘いお菓子と一緒に飲むと美味しいんですけどね」


「じゃあ、今度コーヒーを飲む時はチーズケーキを買っておくわ」


 橙樺は眉をひそめながらコーヒーをすすり、重たい溜め息を吐き出した。

 彼女の吐息でコーヒーが凍ってしまうのではないかという錯覚が目に浮かんだ。


「そういえば、白峰さんから伝言を預かってきました」


「久遠ちゃんから?」


「はい。仲直りしたい。今までのことを謝りたいから、今度レストランで一緒に食事しよう。私がおごるから。そう言っていました。白峰さんも不幸に追い詰められているみたいでした。姫代さんに救われていたと言って泣いていました」


「久遠ちゃん……わかったわ。ありがとう、藤波くん。私、もう一度久遠ちゃんを信じてみるわ。1人は寂しいもの。私がよくわかっているわ」


 それから2人は示し合わせることもなく執筆と描画に取りかかった。

 夜は深まっていたが、カフェインの効果で眠気は吹き飛んでいた。


 カーテンの外が白んでくると、うつらうつらしてきた。

 橙樺はくすくす笑いながら那智の寝顔を描いていた。


 那智は執筆を終えて脱力していた。

 睡魔の前では寝顔を見られる羞恥は感じなかった。


 床に倒れるように身を横たえる。

 その瞬間、心地よい浮遊感に包まれる。

 世界が暗転し、全てが無になる。


 東京の空を飛ぶ夢を見た。

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