冷たい右目7

「俺にはあんたの不幸を理解できない。姫代さんの不幸も理解できない。あんたも同じだ。俺の不幸を理解できないし、姫代さんの不幸も理解できない」


「いいえ、私には橙樺の不幸を理解できる! 理解していたからこそいじめから助けて友達になってあげた!」


「嘘だ。あんたが姫代さんをいじめから助けたのは自分のためだ。あんたは姫代さんの不幸を間近で楽しむために友達になった。あんたは姫代さんの美しさに気付いていた。だから、嫉妬していた」


「私は――」


 久遠はうなだれて両手で顔面を覆った。

 泣き顔は隠せても、荒んだ心は隠せていなかった。


「そうよ、あんたの言う通りよ……橙樺は私なんかよりずっと綺麗だった……皆はあいつの右目を気味悪がったけど、私は内心羨ましがっていた……子供心にあいつが鬱陶しかった……あいつがいじめられていると、胸がすく思いがした……あいつを助けると、なおさら快感だった……私ね、家が貧乏でほしいものはなんでも我慢してきたの……着飾りたくてもできなくて、休日も制服を着ていた……美味しいものも食べられなくて、いつもひもじかった……私は弱くて無力で憐れで惨めで……救われていたのは私の方だった……」


「白峰さん、あんたの容姿は美しいが心の中は醜い。着飾っても心の醜さは繕えない」


「ああ、どうして私はこんなに不幸なの……! 大学にも行けなかったし、モデルにもなれなかった……! 1人は嫌……! もう誰かの不幸を喜びたくない……! 私はどうすればいいの……!」


 那智の左目に映っていたのは、1人の不幸な人間であった。

 この世界にはびこる人間らしい人間の1人であった。

 久遠も憐憫すべき人間の1人であった。


 那智は久遠を抱き寄せた。

 孤独な彼女が自分と重なって、そうせずにはいられなかった。

 彼女は大人だったが、心はまだ子供のままだった。

 どこまでも幼稚で、どこまでもみすぼらしかった。


 久遠はびっくりして身体を強ばらせたが、やがて那智に身体を預けてしゃくり泣いた。


 どれくらい経っただろう。

 先ほどまであんなに憎かった女を抱いていても、不思議と嫌悪は感じなかった。

 むしろ、完全に冷静さを取り戻して優しい気持ちになった。


「不幸には個性があります。そして、誰しもが不幸を持っています。誰かの不幸を喜んでも、自分の不幸は癒やせません。1人が嫌なら、世界を俯瞰してみてください。行き詰まったら立ち止まって、傍観者になってみてください。そうすれば、自ずと正しい道が見えてきます。俺は傍観者でいる時間が長すぎた。だから、孤独になった。でも、姫代さんとの出会いで俺は変わった」


「橙樺も変わったわ。あんた、藤波っていったっけ? 名前は?」


「那智です」


「那智、か。橙樺は幸せ者ね。あんたみたいな素敵な彼氏がいるんだから」


「俺と姫代さんはそういう関係じゃないですよ。ただの知り合いです。ただの……カフェのウェイトレスと客の関係です」


「……ふーん、そっか。ねぇ、橙樺に伝言をお願いしてもいい?」


「はい」


「仲直りしたい。今までのことを謝りたいから、今度レストランで一緒に食事しよう。私がおごるから。そう伝えて」


「わかりました」


 那智は両腕を解いたが、火照った身体が離れることはなかった。

 今さらながら羞恥が湧き上がってきた。

 彼が女を抱きしめたのは初めてだった。


 ヤマアラシの針は抜け落ちた。

 誰かと寄り添ってももう傷付けてしまうことはない。


 俺は傍観者から人間に戻ることができたんだ。


 那智は人間の体温を確かめるためにもう一度久遠を抱きしめた。

 彼女の体温は熱くて、それでも心を包み込むように優しくて。

 自然と涙がこぼれた。


「那智? 泣いてるの?」


「涙腺が緩んでしまったのかもしれません……最近、よく涙がこぼれるんです……」


「もう、もらい泣きしちゃうじゃない……」


 2人は気が済むまで泣いた。

 泣き疲れると、心の壁に凝り固まっていた感情のしがらみが洗い流されてすっきりした。


 那智が両腕を離すと、久遠は名残惜しそうにトレンチコートの袖を掴んだ。

 今頃コーヒーを淹れて待っているであろう橙樺の姿が脳裏を過ぎった。


「行ってしまうの? もう少し一緒にいてくれたら……嬉しいわ」


「……すみません。姫代さんが待ってますから」


「……そう、よね。うん、引き留めない方がよかったわね。早く行って。今日は疲れたわ」


「俺もです。お邪魔しました」


「うん。伝言、お願いね」


「はい。あっ」


 お願い、と言われてふと思い出したことがある。

 この件がうまく片付いたら久遠に頼もうと思っていたことだ。


「白峰さん、俺からも1つお願いがあるんです」


 那智は将来を決断するべく口を開いた。

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