第5章
冷たい右目6
那智はマンションの階段を上っていた。
憤怒の感情の裏には妙な冷静さがあった。
久遠の態度次第で殺してやろうと殺気立っていたが、その殺意は超自我ではなく己によってコントロールできていた。
まるで雪女の息吹で熱が冷まされたようだった。
久遠の部屋の前に辿り着く。
もう一度紙に書かれた住所と部屋の番号を照らし合わせる。
間違いない。
チャイムを押す。
中から空き缶の転がる音がし、ドアが開けられる。
「白峰久遠だな」
「えっ、ちょっと……誰よ、あんた!」
那智は久遠の胸ぐらを掴んで部屋の中に押し入った。
乱暴にベッドの上に投げると、彼女は短く叫んだ。
「いきなりなんなのよ! 思い出したわ。あんた、橙樺の彼氏でしょ。何しに来たのよ?」
「あんたの元恋人のことについて話したい。心当たりがあるだろう?」
「なんのことかしら」
「とぼけるな! あんたが酔っ払って元恋人に姫代さんを襲うように指示したことはわかっている。いくらか知らないが、ここで金を渡すつもりだったんだろう?」
「し、仕方ないじゃない! 酔っていたんだから、私の意志じゃないわ!」
「いいや、あんたの意志だ。素面でもあんたは姫代さんに負の感情を抱いていた。だから、酔ってたがが外れたんだ」
「だったら何? 私はあいつの友達でいてあげたのよ! あいつはかわいそうな子だった。私より不幸で、私がいじめから助けて友達になってあげなかったらずっと1人だった。私はあいつを救ったのよ! それなのに、あいつは恩を仇で返した! 私の不幸を嘲笑うように幸せになっていた! あいつは幸せになっちゃいけないのよ!」
那智は金属バットを振り下ろした。
金属バットは久遠の横のベッドに埋まり、彼女は恐怖にわっと泣き出した。
「少しは姫代さんの気持ちがわかったか……おい、泣くなよ。全く、これだから女は嫌いなんだ。あんたは姫代さんの不幸で安心していたんだ。あんたがどれくらい不幸かは知らないが、姫代さんの人生を決める権利はない。確かに、姫代さんはあんたに感謝して憧れていた。でも、それはあんたも同じだった。あんたはただ姫代さんに嫉妬していたんだ」
「知ったような口をたたかないで! あんたに私の何がわかるの? あんたなんかに私の不幸を理解できるわけない!」
泣きじゃくりながらヒステリックに叫ぶ久遠。
那智は彼女に憐憫を感じて金属バットを落とした。
どいつもこいつも人間だ。
どいつもこいつも人間的すぎる。
どいつもこいつも醜悪だ。
興醒めだ。
人間に対する興味が失せた。
――人間の奥底にある権威的で醜悪なものは、不幸だった。
正確には、不幸を特別なものだと思い、無意識に不幸を回避し、他者を利用してでも発散しようとする人間の心だ。
不幸に対して自己中心的な人間は醜悪だ。
ただのエゴイストなんて可愛いものだ。
本当に醜悪なのは、不幸を受け入れようとしない人間だ。
この世界ではそんな人間たちがおしくらまんじゅうをしている。
別に不幸を受け入れないこと自体が醜悪なのではない。
人間は誰しもが不幸を忌み嫌う。
それは自然の摂理だ。
だが、人間には他者の不幸を喜ぶ節がある。
邪悪な喜び――シャーデンフロイデこそが醜悪なものの根源だ。
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