冷たい右目4

「お前、姫代橙樺の彼氏?」


 リーダー格の男はいら立ちを含んだ声でそう言った。


 橙樺の恋人と勘違いされているようだった。

 昨日もファミレスで同じような勘違いをされた。

 この3人と関係のありそうな人物が思い当たった。


「残念ながら彼氏じゃない。姫代さんとはただの知り合いだ。姫代さんになんの用だ?」


「お前には関係ない。頼まれてここに来た。ただの知り合いに教える義理はない」


「頼まれた? 一体何を?」


「だから、てめぇに教える義理はねぇんだよ。姫代橙樺はどこに行った?」


「さあね。不審者に教える義理はない」


 リーダー格の男は顔をしかめた。

 後ろの1人に何やら目配せし、にやりと口角を上げた。


 振り返ると、腹部に何かが直撃した。

 重々しい鈍痛が腹部を襲い、那智はその場にうずくまった。

 それは思い切りスイングされた金属バットだった。


 那智は腹部を押さえて悶えた。

 唇を引き締める力も抜けて、唾液がだらしなく垂れた。


「ガキが、調子に乗るなよ。痛い目に遭いたくなかったらさっさと吐きな」


「嫌だね……さっさと失せろ……」


 金属バットが腰を打った。

 鈍い音が響き、那智は短く呻いた。


「藤波くん!」


 遠のいていく意識の中で、橙樺の声が聞こえた。

 彼女は耐え切れなくなって電柱の陰から飛び出していた。


 まずい。

 今姫代さんに出てこられたら何もできない。

 姫代さんがこの男たちに何をされても助けられない。


「あんたが姫代橙樺か?」


「そ、そうだけど……」


「男性恐怖症なんだってな。俺たちが怖いか?」


「帰って……警察を呼んであるわ」


「はったりだな。それにしても、なかなかの美人だな。可愛がり甲斐がありそうだ」


「近寄らないで……お願いだから帰って……」


 無論、しおらしく懇願したくらいでは帰るはずもなく、3人は橙樺に襲いかかった。

 2人がかりで彼女を押さえながらマスクをむしり取って口内にハンカチを詰め、リーダー格の男はバッグを漁って部屋の鍵を取り出した。


 部屋の中に連れ込まれたら最後、鍵をかけられて締め出されてしまう。

 そうなれば手遅れだ。

 せっかく快方に向かっていた男性恐怖症は悪化し、満身創痍の心はさらにずたぼろにされてしまう。

 もう人間に心を開くことができなくなってしまうかもしれない。


 橙樺は手足をばたつかせて精一杯の抵抗をした。

 一昨日のように無抵抗でおぞましい時が過ぎるのを待つことはしなかった。

 那智のおかげで彼女は少し強くなっていた。


 しかし、やはり男の力には敵わず、軟弱な橙樺は軽々と担ぎ上げられた。


 それでも抵抗を続けていると、手の甲が男の顔面に当たって橙樺はアスファルトの上に尻もちをついた。

 男は舌打ちし、立ち上がろうとした彼女を押し倒した。

 そこから先は容易に想像がつくだろう。


 悲痛な唸り声。

 不快な衣擦れの音。

 下卑た笑い。


 那智は激怒した。


 怒りは一時的に馬鹿力を発揮させるもので、腹部と腰の激痛で動くことができなかった那智を奮い立たせた。


 橙樺の上に跨っていた男を殴り倒し、もう1人の男から金属バットを奪って腹部にお返しを食らわせる。

 最後に残ったリーダー格の男の片膝を砕き、金属バットを振り上げて脅しをかける。


「待て! 待ってくれ!」


「誰に頼まれた? さっさと答えろ!」


「わ、わかった。久遠だ。久遠に頼まれたんだ」


「白峰久遠のことか?」


「そ、そうだ」


「やっぱりか。それで、あんたは?」


「俺は久遠の元恋人だ。昨日、久遠から電話があってな、姫代橙樺のことを好きにしていいと言われた。ひどく酔っているようだった。あいつは美人だが最低なくず女だ。最初は俺も断ったが、金を渡すと言われて揺らいだ。お前も男ならわかるだろ? 楽しめる上に金までもらえるんだぜ? 俺は誘惑に負けただけだ」



「そうだな。誰でも誘惑に負けることはある」


「だろ? もう二度と姫代橙樺には近付かないと約束する。だから――」


 那智は金属バットを振り抜き、男はばたりと倒れた。

 金属バットは頭部を殴打し、男の意識は暗闇の彼方へと飛んでいった。


 那智は金属バットを投げ捨てて橙樺の元に駆け寄った。


 橙樺は唯一の友達の裏切りに慟哭していた。

 表情を崩壊させて嘆く彼女はいたたまれなかった。


「とりあえず、部屋に入りましょう。1人で立てますか?」


 橙樺は小さく首を左右に振った。


 那智は橙樺の肩を支えて立たせた。

 部屋の鍵とバッグを拾ってドアを開け、ベッドの上に彼女を座らせた。

 それから、湯を沸かしてお茶を淹れた。


 お茶を一服すると、橙樺は落ち着きを取り戻した。


「お茶、ありがとう。はぁ……ごめんなさい、みっともないところを見せてしまったわね」


「そんな、みっともないだなんて思いませんよ。今日は厄日でしたね」


「厄日、ねぇ。そうでもないかも。幸せと不幸が半分ずつの日だったかな。藤波くんとのデートは幸せだったもの。はぁ……溜め息ばかり吐いてごめんなさい。だけど、悲しくて。唯一の友達に裏切られるなんて思ってもみなかったから。でも、よくよく考えてみたら当たり前よね。久遠ちゃんにとって私は友達じゃなかったのよ。地味で絵を描くことしか取り柄のない私なんかが久遠ちゃんの友達になれるはずがなかったのよ。久遠ちゃんは可愛くてクラスの人気者で、私とは別世界に住んでいる子だった。久遠ちゃんの人生に私はいらなかった。私は長い間ずっと勘違いしていたのね。はぁ……私なんて生まれてこなければよかったのに……いっそのこと死ねたらいいのに……」


「姫代さん……」


 那智は怒りに拳を震わせていた。

 久遠だけでなく、この世界に対して憤慨していた。


 この世界は姫代さんに試練を与えすぎている。

 姫代さんが一体何をしたというのだろう。

 姫代さんは温厚で純粋なのに、どうしてこんなに苦しまなければならないんだ。

 もしこの世界に神が実在するのなら、俺がこの手で殺してやりたい。


 那智は痛む腰を上げた。


「姫代さん、白峰さんの住所を教えてください。白峰さんと話がしたいんです」


 橙樺はトレンチコートの裾を白い手で掴んだ。

 か弱く、儚げに。


「藤波くん、行かないで……私のそばにいて……私にはもう友達もいない……私にはもう君しかいないの……お願い……」


「早めに戻ってきますから。コーヒーを淹れて待っていてください」


 トレンチコートの裾が離れて、白い手が虚空を掴む。


 橙樺はいつも虚空ばかり掴んでいる。

 それでも何も掴まないよりはましだ。


 久遠の住所が書かれた紙を受け取り、那智は金属バットを拾い上げて色のない夜の街を疾駆した。

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