第2章

冷たい右目2

 午後7時。


 夜だというのにビル群とイルミネーションで昼のように明るい通り。

 人間で混み合う通りは活況を呈していた。


 居酒屋やレストランの店員は客を引こうとちらしを配って宣伝していた。

 橙樺は声をかけられるのではないかと不安になっていたが、那智が鋭い眼光で睨みを利かせておいたおかげで無事通り抜けることができた。


 クリスマスが近いということもあり、通りの中心には巨大なクリスマスツリーがライトアップされて展示されている。

 多くのカップルや夫婦がクリスマスツリーをバックに写真を撮っている。


「もうすぐクリスマスね」


「そうですね。子供の頃はプレゼントをもらったりケーキを食べたりして楽しかったですけどね。今となっては無縁なイベントです」


 言い終わらないうちに、那智は失言を悟った。


 そうだった。

 姫代さんは楽しいクリスマスを経験したことがないんだった。

 姫代さんはクリスマスにプレゼントをもらったこともケーキを食べたこともないだろう。

 姫代さんは両親に愛されていなかった。


「すみません」


 咄嗟に謝ると、橙樺はきょとんとして首を傾げた。


「何が?」


「いや……過去の嫌なことを思い出させてしまったかもしれないと思って」


「ああ、そういうこと。でも、クリスマスは幸せな記憶なのよ」


「えっ?」


 橙樺の表情はどこか恍惚としていた。

 那智にはその理由が皆目見当もつかなかった。


 目配せで話の続きを促すと、橙樺はクリスマスツリーの正面のベンチに腰かけた。

 那智はわずかに距離を置いて彼女に倣った。


「父と母が離婚した年のクリスマスだった。例年より私の家ではクリスマスは何もしなかったわ。食事が豪華になるわけでもなく、プレゼントがもらえるわけでもなく、ケーキも食べられなかった。父はクリスマスでもお構いなしにパチンコに行き、母はぶつくさ言いながら1人でフランス料理を食べに行くような人間だった。私は家で独りぼっち。別に寂しくなかったわ。両親が喧嘩して修羅場になるのを見なくて済んだ。まあ、例年の話はここまでにしておきましょう。そのクリスマスの日、母はもちろんのこと父もパチンコで家にいなかった。例年通り私は家で独りぼっち。ちょっとした反抗心が芽生えて、私は裸足で家を飛び出したの。冷たいアスファルトを踏みしめながら私は走った。ひたすら暗闇の中を走り続けた。このままどこかに逃げてしまおうと思った。どこかに辿り着くと信じて、私は走り続けた」


「でも、結局はどこにも辿り着かなかった」


「そう。私は走り疲れて丘のてっぺんで大の字になって空を見上げた。真っ黒な空は、夜というより闇や影だった。夜には色があるのよ」


「どんな色ですか?」


「紫がかったっていうのかしら、黒にほんの少しだけ他の色が混ざっているの。それがなんの色かはわからないわ。私の瞳は白と黒しか認識できないもの。続けるわね。漆黒の空を見上げていると、白い粒が降ってきたの。それが鼻先に当たった途端、私はびっくりして跳ね起きた。冷たい粒だったわ」


「雪」


「そう。私の体温で溶けて一瞬で水滴になってしまう雪。私は雪に心を救われたような気分になったわ。私の瞳でも雪の色が認識できたの。それは白だから、って思ったでしょう? だけど、そうじゃないの。雪にも色があるのよ」


「どんな色ですか?」


「わからないわ。でも、白とは違うの。その日、私は雪が降り積もるまで丘の上にいた。寒くはなかったわ。心が温かくて、雪が好きになった。雪が降り積もった夜の空は夜の色なの。明るい夜なの。あの日ほど気持ちのいい夜はなかったわ」


 夜の色、明るい夜――那智は空を見上げてみた。


 夜に色なんてない。

 明るさなんてない。

 今までそう思って生きてきた。


 色が見えていないのは俺の方だったのかもしれない。

 姫代さんにはちゃんと世界の色が見えている。


 心の器から涙がこぼれた。

 空を仰いだまま瞼を閉じると、目尻から涙が溢れた。


 橙樺と一緒にいると、涙を溜める器がすぐにいっぱいになる。

 彼女の物腰の柔らかさと共感し得ない心の美しさに涙腺が緩む。


 俺は姫代さんの美しさと優しさに縋りついている。

 離れなければならないのに、離れられないでいる。


 那智は拳を握りしめた。


 俺と姫代さんはヤマアラシ。

 いつか姫代さんの元を離れなければならない。

 俺と姫代さんは互いを傷付け合う関係にある。


 別れた後、俺たちはどうなるんだろう?

 針で傷付くリスクを顧みないでそばにいてくれる人間が現れるだろうか?

 それとも、また孤独な日常が戻ってくるだけだろうか?

 俺はまた死に向かうのだろうか?


 橙樺は黙ってハンカチを手渡してくれた。

 ハンカチで目元を押さえると、彼女の甘い匂いがした。


「行きましょうか。あのレストランですよ」


「へぇ、おしゃれなレストランね」


 2人はクリスマスの浮わついたムードから逃れるようにレストランに入った。


 レストランの中もクリスマスの飾りつけが施されており、那智は内心「またか」と思っていた。

 が、彼とは対照的に、橙樺の機嫌はよさそうだった。

 姫代さんが楽しいならいいか、と思い直すことにした。


「なんだか女の人が多いわね」


「はい。野菜を使ったヘルシーな料理が女性に人気らしいですよ。味付けもわざと薄くしてあるそうなので、姫代さんでもコース料理を食べられると思いますよ」


「ふーん。藤波くん、私のためにしっかり調査してくれたのね。ありがとう」


「……いえ」


 那智は照れた。

 橙樺の笑顔を直視できなかった。

 マスクがなかったら動揺していたかもしれない。


 実際、那智は昨日のうちにこのレストランを調査していた。

 男が少なくて美味しい野菜が食べられるという条件はこのレストランがぴったりだった。

 味付けも薄く雰囲気もいいということで申し分なかった。


 コース料理を注文して間もなく、2人のテーブルに前菜が届けられた。


 スモークサーモン、トマト、胡瓜のカナッペ。

 ベジタリアンの橙樺は、スモークサーモンもフランスパンも食べられない。

 ましてや甘酸っぱいフルーツのようなトマトも苦手である。


 橙樺は一口サイズのカナッペを指で掴み、口に運ぶのを躊躇っていた。

 野菜以外の食べ物を口にしたら気分が悪くなって吐いてしまう、と耳にしていたため、那智は緊張していた。


 前菜で無理なようならこのデートは悲惨なことになってしまう。

 俺の気配りが足りなかったと諦めるしかない。

 姫代さんに無理をさせてまで野菜以外の食べ物を食べさせるわけにはいかない。


 しかし、橙樺は思い切ってカナッペを口に入れた。

 食感や味を確かめるようにゆっくり咀嚼し、ごくりと飲み込んだ。


「美味しい……」


「平気なんですか?」


「多分。前みたいに気持ち悪くならないもの。ああ、野菜以外の食べ物を美味しいと思えたのは初めて」


「最後に野菜以外の食べ物を口にしたのはいつなんですか?」


「うーん、いつだったかしら。もう忘れてしまったわ」


「いつの間にか治っていたのかもしれませんね」


「そうね。気付けて本当によかったわ」


 橙樺はカナッペをもう1つひょいと口に入れて表情を綻ばせた。

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