第5部 冷たい右目

第1章

冷たい右目1

 早朝。まだ夜が明けないうちから那智は粛然たる街を歩いていた。


 東京の街は氷の世界だった。


 アスファルトやコンクリートには霜が降りて凍っている。

 陸橋はつるつるしていて滑りやすく、まさに氷上。

 スケートでもできそうだ。


 コインパーキングに駐車された自動車の窓にも霜が付着している。

 ワイパーの1振りや2振りでは取れないだろう。


 通行人と出くわすこともなく、那智はアパートに到着した。

 橙樺の部屋のチャイムを鳴らすと、ほとんど間髪入れずにドアが開けられた。


「おはようございます、姫代さん」


「おはよう、藤波くん。今日も早いわね」


「姫代さんの方こそ。すみません、今日もよく眠れなかったんです」


「私もよ。さあ、入って」


 キッチンでは既に湯が沸かされていた。

 橙樺もあまり寝付けなかったのだろう。


 リビングで待っていると、橙樺はインスタントのコーヒーを淹れてくれた。

 カフェでよく注文するニューヨークチーズケーキも出された。


「昨日も買い物に行ったんですか?」


「ええ。男性恐怖症を治せるように少しずつ男の人に慣れていかないとね。そのためにも1日に一度は外出することにしたのよ。藤波くんのおかげで勇気が出たの」


「俺は何もしてないですよ」


「いいえ、藤波くんのおかげよ。だって、藤波くんと出会わなかったら男性恐怖症を治そうだなんて思わなかったもの」


 それから2人は執筆と描画に精を出した。


 2人で集まったからといって別段何か共同作業をしようというわけではなかった。

 それぞれの作業に集中して、他愛もない話をすることもなかった。


 ただ2人で一緒にいるだけでよかった。

 同じ部屋に2人きりでいるだけでよかった。


 俺と姫代さんはヤマアラシだ。

 今まで孤独だった分、急速に距離が縮まったが、針のせいで一定の距離が空いている。

 それでも俺たちは温め合えている。


 昼食は橙樺がサンドイッチを作ってくれた。


 普段、橙樺は料理をしないが、カフェでサンドイッチくらいは作る。

 他にはホットケーキやワッフルといった比較的簡単な料理ならしたことがある。

 ベジタリアンは料理をする必要がないのだ。


 橙樺は相変わらずグリーンサラダを美味しくもまずくもなさそうに咀嚼していた。

 彼女にとって食事とは、空腹を満たさなければならない面倒な行為に過ぎなかった。

 那智のように手作りのサンドイッチを味わうことはできなかった。


「姫代さん、今夜も外食しませんか? 野菜が美味しいことで有名なレストランを見つけたんです。行ってみませんか?」


「別に構わないけど……私、味付けされていない野菜しか食べられないの」


「試しに食べてみてくれませんか? 一口でもいいんです。姫代さんが美味しそうに食事する姿を見たい。あっ、今日の会計は俺が持ちますからね。俺にも男の面子があります」


「ふふふっ、それならお言葉に甘えて。藤波くんと出会ってから挑戦することが増えたわ」


 少しずつ姫代さんのことがわかってきた。

 やっぱり姫代さんは俺とは対極の場所にいる。

 俺は死に向かっているが、姫代さんは生きようとしている。

 どんなに辛くて苦しくても死に物狂いで生きようとしている。


 俺が惹かれているのは姫代さんの強さなのかもしれない。

 姫代さんは眩しい光だ。


 暗闇を歩いてきた俺はその光に誘われてこの街にやって来た。

 姫代さんのおかげで生きようという希望が湧きつつある。


 まだ生きていたい。

 まだ死にたくない。

 もう孤独でいたくない。


 橙樺のことを理解していくと同時に、那智は自分のことも理解しつつあった。

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