第3章
薄氷の下のシャーデンフロイデ7
バーで1杯飲んで酒気を帯びていた。
たった1杯のジントニックでは、胸中に渦巻くわだかまりを解消することはできなかった。
久遠はマンションに帰ってくるなり、冷蔵庫を開けて缶ビールのプルタブを開封した。
炭酸が噴き出す。
1滴もこぼさないように白い泡を唇ですくう。
冷たいビールが凍えた身に染みる。
冬にアイスクリームを食べる感覚に似ている。
ある1つの方向――ここでは冷たいという方向に一途に進んでいるようで快いのだ。
久遠はいら立っていた。
いら立ちの原因はわかっていた。
彼女は抑えようのないむしゃくしゃと共にビールを飲み込んだ。
このいら立ちを治めるには1本の缶ビールでは足りなかった。
いや、たとえ缶ビールを何本飲んだとしても治められないだろう。
アルコールごときでこのいら立ちを打ち消すことはできなかった。
「ぷはぁっ……まさかファミレスで橙樺と出くわすなんて……ああ、ファミレスなんかに行くんじゃなかった!」
いら立ちの原因は橙樺だった。
晴れやかな表情を思い出すと虫酸が走った。
昔はいじめられてばっかりだったくせに、彼氏まで作っちゃってさ。
生意気にまだ夢を追いかけている。
どうして私が失ったものを橙樺が持っているのよ。
あいつは何も手に入れちゃいけないのよ。
あいつは私より不幸でいなくちゃいけないのよ。
だって、あいつの不幸で私は幸せになっていたんだから。
そうよ、あいつが不幸になれば私はまた幸せになれるのよ。
酔った勢いとはいえ、久遠は醜悪な感情の亡者となっていた。
2本目の缶ビールを取ろうと手を伸ばしたが、冷蔵庫の中にはもう何も残っていなかった。
ただ賞味期限の切れた杏仁豆腐がぽつんと隅の方でうずくまっているのみであった。
食後のデザートに買っておいたのを忘れていたのだろう。
この杏仁豆腐が未来の自分の末路のような気がした。
不安の雲が広がり、内心を翳らせた。
久遠はベッドの上の枕を激しく殴りつけた。
髪を振り乱して、気が済むまで殴り続けた。
言うまでもなく気が済むことはなかったが、久遠は疲れてベッドの上にうつ伏せになった。
「もう嫌……どうしてこうなってしまったの……? 私はただ幸せでいたいだけなのよ……いつから不幸になってしまったの……?」
そう、私が不幸になったのは高校を卒業してから。
橙樺と別れて1人になった日から。
全部あいつが悪いのよ。
いつもそうだった。
橙樺は都合のいい操り人形だった。
濡れ衣を着せても彼女は文句1つ言わなかった。
いや、言えなかった。
久遠は彼女をいいように利用していた。
橙樺は私がいないと何もできなかった。
私が助けてあげないと何もできなかった。
あいつは弱くて無力で憐れで惨めで、私と友達になるには身分違いだった。
私は優越感のためにあいつの友達になってあげたのよ。
それなのに、この仕打ちは何?
どうして私とあいつをまた引き合わせたの?
なんてむごい再会なんでしょう!
今の私はまるで昔のあいつじゃない!
今のあいつはまるで昔の私じゃない!
こんなこと、あってはいけない!
絶対に許さない!
「友達だなんて……ああ、橙樺が憎たらしい! 全部ぶち壊してやるわ! 私はあんたの幸せを許さない!」
久遠はベッドの上にたたきつけたスマートフォンをひったくり、元恋人に電話をかけた。
ろれつの回らない滅茶苦茶な口調で愚痴をぶちまけた後、コンビニへと駆けていった。
大量に買った缶ビールで酔い潰れて、彼女は冷たい床の上で眠りについた。
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