薄氷の下のシャーデンフロイデ6

 会計のやり取りを終えてファミレスを出ようとすると、橙樺は自動ドアの前でぴたりと止まった。


 開いた自動ドアの先には1人の女がいた。


「橙樺」


「久遠ちゃん……?」


「橙樺じゃん。上京してたんだ。いやぁ、久しぶりねぇ。今は何をしてるの?」


「カフェでウェイトレスを。久遠ちゃんは?」


「私は出版社のOL」


「出版社で働いているの? なんか格好いいね」


「全然。出版社といっても小規模でね。はぁ、東京に出てもモデルになれなかったし、仕事は退屈だし、男運はないし、もう散々って感じ。もうモデルの夢は諦めたの。橙樺はイラストレーターの夢をまだ追いかけてんの?」


「うん、どうしても諦め切れなくて」


 橙樺と女は5分ほど話し込んだ後、住所を交換した。

 どうやら橙樺の友達のようだ。


 高級感のあるベージュのピーコート、肉付きのいい脚を引き締める黒のストッキング、真っ赤なピンヒール。

 意匠を凝らした化粧、よくケアされた長い茶髪。


 女は煽情的な美人だった。

 彼女は橙樺とはまた異なる美貌を有する女だった。


 姫代さんは彼女のことが本当に好きなんだろうな、と那智は思った。


 生き生きとした橙樺の表情といったら、幸せそのものだった。

 彼女をこの表情にさせる力は那智にはなかった。


「橙樺、幸せそうね」


「えっ?」


「橙樺は変わったわ。表情が明るくなったっていうかさ」


「そ、そう? 藤波くんのおかげかな」


「彼氏のこと? ふーん、ちょっとヤンキーっぽいけど、なかなかイケメンな彼氏じゃん」


「えっ、藤波くんは――」


「あー、お腹空いた。私、そろそろ行くわね。まあ、近いうちにまた会いましょう。じゃあね」


「あっ、うん。ばいばい、久遠ちゃん」


 女は手を振り、ウェイトレスに案内されて先ほど2人が座っていた喫煙席に通された。

 橙樺は腑に落ちないといった表情のままファミレスを出た。


 俺は姫代さんの恋人だと誤解されてしまったようだ。

 姫代さんもそのことが引っかかっているのだろう。


「藤波くん、ごめんなさい。恋人と勘違いされちゃったみたい」


「全然構いませんよ。姫代さんの友達ですか?」


「ええ。まさかこんなところで久遠ちゃんと再会できるなんてね。ああ、紹介が遅れたわね。あの子の名前は白峰久遠。ねっ、美人でしょ?」


「はい。出版社のOLと言っていましたね。もしかしたら、これから縁があるかもしれません」


「えっ、どうして――」


 橙樺は尋ねかけて途中でその意味を理解した。


「なるほどね。藤波くんが小説家になったら、出版社と縁ができるものね」


「はい。もしそうなったら、姫代さんもイラストレーターとして白峰さんと一緒に働けるかもしれませんよ」


「そうね。それにしても、久遠ちゃん、また一段と綺麗になっていたわ。私も……男性恐怖症が治ったらあんな風におしゃれをしてみたいな」


 マフラーを首に巻きながら、橙樺は憂鬱な溜め息を吐いた。


 女は化粧と仮面の虚偽を纏いたがる生き物だが、橙樺には当てはまらない。

 彼女は化粧をしないし、着飾って仮面をつけようともしない。

 マスクという仮面で顔を隠しているが、それは美しくするためではない。

 己の本質を隠蔽しようとする現代の箱入り娘と同じだ。

 一般的な女の必需品である化粧と仮面を正の虚偽だとすると、彼女のそれは負の虚偽だ。


 橙樺は男を怖れている。

 ゆえに、無意識のうちに男を遠ざけようとする。

 要するに、男を惹き寄せないようにすればいいのだ。

 黒髪を短くし、マスクをつけ、スカートを履かず、男物のエンジニアブーツを履く。

 彼女の容姿を遠目から見れば、男のように見えなくもない。


 彼女は男性恐怖症のために美貌を隠蔽している。

 皮肉にもその右目は男避けに貢献している。


 横断歩道を渡ろうとすると、信号の青い光が点滅した。

 那智と橙樺は小走りで急いだ。


 通りは休日ということもあって活気があった。

 浅草寺で観察した人間たちと同じで、カップルや夫婦ばかりだった。


 街路樹はイルミネーションで華めき、クリスマスの訪れを今か今かと首を長くして待っている。

 カップルや夫婦は街路樹の鼓動の高鳴りに乗じて羽を伸ばす。


 橙樺は横を通り過ぎるカップルや夫婦――正確には男の方に怯えて、那智の方へと少しずつ接近しつつあった。


 手を繋いでみたい、と那智は思った。


「おしゃれなんかしなくても、姫代さんは十分魅力的ですよ。姫代さんは美人だと思います」


「……ありがとう。私のことを肯定してくれるのは藤波くんと久遠ちゃんだけだよ」


「イラストレーターになったら、もっとたくさんの人間が姫代さんのことを肯定してくれますよ。だから、夢を諦めないでください」


「わかっているわ。私の取り柄なんて絵を描くことくらいだもの。諦めないわ」


「それならよかった。姫代さん、今日は通りを歩いて帰りませんか?」


「今日は……人通りが多いわ。少し怖い」


「俺がそばにいます。アパートまで離れませんから」


「……いいわ。頑張ってみる」


 ポケットの中に突っ込んだ手は、橙樺の手を取ろうとして脱力した。

 その代わりに、那智は彼女の心を繋ぎ止めておくことにした。


「あの、姫代さん」


「何?」


「明日も会えますか? 姫代さんのアパートで」


「うん、いいわよ。好きな時間に来て。私、待っているから」


「はい」


 橙樺をアパートまで送り、那智は「さよなら」を言わずに立ち去った。

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