第2章

薄氷の下のシャーデンフロイデ5

 那智と橙樺は夕食を取るためにファミレスに入った。


 初めは渋っていた橙樺だが、まだ時間が早いから客はあまりいないと説得するとなんとか了承してくれた。


 だが、見当違いも甚だしく、ファミレスはほとんど満席だった。

 放課後の学生が大半で、コーヒーをすすりながらパソコンのキーボードをたたいているビジネスマンがちらほらいた。


 2人は喫煙席に通された。


「姫代さん、すみません。こんなに客が多いとは思いませんでした。ここは都会なんでしたね」


「いいのよ、藤波くんのせいじゃないわ。私なら平気。ちょっと怖いけどね」


 注文を取りに来たのは運よくウェイトレスだった。

 橙樺はドレッシング抜きのサラダを、気が引けたが那智は和風ハンバーグとパンとスープのセットを頼んだ。


 橙樺はファミレスの雑然とした店内を見回して「へぇ」と感心の声を上げた。


「どうかしたんですか?」


「私、ファミレスに初めて入るのよ。だから、なんだか物珍しくて」


「そうなんですか。ベジタリアンってことは、毎日家でサラダばかり食べているんですか?」


「ええ。野菜以外の食べ物を口にしたら気分が悪くなって吐いてしまうの。私のことは気にしないで。野菜と水があれば生きていけるから」


「なんだか草食動物みたいですね」


「草食動物に例えたら私は何?」


「うーん……兎ですかね」


「兎? ふふふっ、私には似合わないわ。私は可愛らしくないもの」


「そんなことないですよ。姫代さんは綺麗ですよ。自信を持ってください」


 これは本心からの言葉だった。


 那智は女に偏見を持っていたが、橙樺という1人の人間によって覆された。

 彼女の美貌に魅入り、彼女の女性的な性質に陶酔していた。


 しかし、当の橙樺ははにかみ、空気が抜けるような溜め息を吐いた。


「自惚れているわけじゃないけれど、もっと醜く生まれてきたかったな。私に近付こうとする男には皆下心があるのよ。身体が目当てで、私の人間性を煙たがる。それでいて、私の魂さえも貪ろうとする。そんな先入観があるから男が怖いの」


「俺にも下心があると思いますか?」


「ふふふっ、どうかしら。だけど、藤波くんは優しいから。もし身体が目当てならとっくに襲われているわ。藤波くんが優しいストーカーでよかった」


 那智は苦笑した。


 無論、橙樺に近付いたのは身体が目当てではない。

 全裸にしてみたいと思ったことはあるが、別に何をしようとかいうやましい気持ちはない。


 白い鎖骨と婀娜な膨らみが脳裏に蘇り、那智はにやけそうになった。


 脳内のいやらしい妄想をかき消すように席を立つ。


 食事が運ばれてくる前にセルフサービスの飲み物を取りに行くことにした。


「姫代さん、水とお茶、どっちがいいですか?」


「水をお願い。あの……」


「わかってますよ。早く戻ってきます」


 そう言うと、橙樺はふっと頬を弛緩させた。


 水とお茶をコップに注いでテーブルに戻ると、ウェイトレスがサラダを届けに来ていた。

 先に食べるように勧めると、橙樺はマスクを外して無機質な機械のようにむしゃむしゃとサラダを食べた。


 間もなくして、和風ハンバーグとパンとスープのセットも届けられた。


 箸で焼きたてのハンバーグを割きつつ、那智は野菜しか食べられない人生を想像してみた。


 元より野菜はそこまで好きじゃない。

 あまり野菜を美味しいと思ったこともない。

 第一、そんなものばかり食べていて腹が膨れるのだろうか。

 ベジタリアンの気持ちは理解できないな。


 しかし、と那智は箸で挟んだ肉の欠片をなんとなく見つめた。


 人間は動物を殺して肉を作っている。

 親や学校の先生は生き物に感謝して食事をするように子供に教える。

 人間は「いただきます」と言って合掌し、その行為と引き換えに食事をする。


 人間にとってこの理不尽な取引は当たり前で――理不尽というのは、殺された動物にとってだ。

 近年では「いただきます」さえ言わない人間もいる。


 動物は一方的に殺されている。

 動物を殺すことはもはや無意識の領域になりつつある。

 俺の両親を殺した雪のように。


 俺は雪を憎悪している。

 雪を擬人化するのはおかしいかもしれないが、俺の怒りをぶつけられるのはもうそれしかないのだ。

 今年は雪が降ったら雪だるまを作ってぶち壊してやろうと思う。


 那智は密かな決意をその胸に秘め、動物の死体を黙々と咀嚼した。

 それはひどくまずく、なんだか血生臭く感じた。


 食後はコーヒーを注文した。


 橙樺は絵を描いていた。

 短時間でファミレスの店内を緻密に描き、その中にはコーヒーをすする那智もいた。


 ひとまず絵が完成すると、橙樺は不満に眉尻を下げた。


「どうかしたんですか?」


「私の絵はいつまで経っても完成しない、って今さらながら思ってね。私は色を識別できないから、せっかく描いた絵に色をつけることができない。私の世界を描いているんだから白黒のままでいい、白黒でも完成した絵なんだ、って自分に言い聞かせようとしても、どうしても納得できないのよね。この世界の色を見てみたいわ。はぁ、叶わない願いよね」


「全色盲を治す方法はないんですか?」


「ないわ。藤波くんの右目と同じよ。イラストレーターの夢は諦めた方がいいのかな」


「諦めないでください。姫代さんが描く人間は人間的です。素人が言うのもなんですが、姫代さんには才能がありますよ。色がなくても、姫代さんの絵には表情や感情があります。姫代さんの絵、俺は好きですよ」


「……ありがとう」


 コーヒーを飲み終えて、2人はレジで会計を済ませた。


 那智が払うと言い出したのだが、橙樺は首を縦に振ろうとしなかった。

 年上の面子があると言って彼女は聞かなかった。

 結局、押しに負けて那智は彼女に支払いを任せることにした。

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