薄氷の下のシャーデンフロイデ4

「期待されるほど大それた話じゃないですよ。事故もありふれたものでした。あの日、俺は家で留守番をしていました。今日よりも寒くて、夜のうちに雪が降って道路はすっかり凍結していました。両親は軽自動車で買い物に行っていたんです。家で何をするわけでもなくソファーの上で横になっていると、外から凄まじい衝撃音が聞こえてきました。胸騒ぎがして、俺は外に出ました。案の定、両親が乗っていた軽自動車は大型トラックと衝突して、ちょうど運転席と助手席の辺りが大きく陥没していました。硬くなった雪でタイヤが滑ってブレーキが利かなかったらしいです。その時は不思議と何も感じませんでした。ショックで脳内が真っ白になっていたのかもしれません」


 赤と白の景色がフラッシュバックする。

 つい先ほど喉を通ったものがせり上がってきて、嘔吐感に襲われる。


 那智はお茶で咀嚼物を再び胃の中に戻した。


「両親の遺体は葬式でも見られませんでした。とても子供に見せられる状態じゃないことは俺にもわかりました。後から聞いた話によると、大型トラックの運転手も亡くなっていたそうです。この交通事故は誰も悪くなかったんです。罪のなすりつけようがない、雪が悪かっただけです。俺の怒りは宙ぶらりんになりました。誰にも怒りをぶつけることができず、孤独になって心が荒みました。俺が不良になったのはその頃からです」


「…………」


 赤と白の光景がまたフラッシュバックする。

 雪の抉れた道路の上でグロテスクに混ざり合う血液と牛乳。

 那智が牛乳に激しい嫌悪を抱くようになったのはこれがきっかけだ。


「当時、俺は背が低かったんです。だから、両親は俺に毎日牛乳を飲ませました。牛乳は好きじゃなかったけど、背を伸ばすために嫌々飲みました。事故現場は血液と牛乳で彩られていました。その光景が脳裏に焼きついているんです。思い出すたびに吐き気を催します。そして、段々といら立ってくるんです。やり場のない怒りは人間に向けられました。俺は理不尽な不幸に見舞われたんだ、俺だって誰かに理不尽な因縁をつけて暴力を振るったっていいじゃないか――俺はろくでもない不良でした。関係ない人間に八つ当たりして、孤独の悪循環にはまってしまいました。俺は強がって孤独を望んだけど、本当は寂しかったんです」


 やり直せるものなら1からやり直したい。

 両親が死んだ直後でもいい。

 両親の死を受け入れたい。


 俺は両親の死を胸の奥の箱にしまい込んで鍵をかけてさらに鎖をきつく巻きつけている。

 俺は大人になるのが早すぎたんだ。


 沈痛な面持ちの橙樺。

 彼女は打ち明けられた那智の過去をその心で受け止めた。

 そして、自らの過去を振り返った。

 彼女の表情には晴れやかな面もあった。


「羨ましいわ」


 橙樺の言葉は、那智が予想していたものとは真逆だった。

 どうせ同情されるものだと思っていたが、彼女は羨望の眼差しをたたえて確かにそう言った。


 那智が眉をひそめると、橙樺は片手を煽いで思考のすれ違いを払拭した。


「ああ、勘違いしないで。決して馬鹿にしているわけじゃないのよ。わかったわ、藤波くんも過去を話してくれたことだし、私の過去も少しだけ話すわ」


 橙樺の過去――これは那智にとって魅力的な言葉だった。

 姫代橙樺の人生を小説にする上で過去は知っておかなくてはならないし、何より興味があった。


 橙樺は絶景のその先のさらに遠くを見つめていた。


 彼女の瞳には白黒の世界の他に何が映っているというのだろうか。


 那智にはわかるはずもなかった。


「小学3年生の時、両親が離婚したの。父のDVが原因だった。子育てに疲れたと言って、母は私を置いてアパートを出ていってしまった。その時、初めて母が私を愛していないことに気付いた。父は土木作業員で、仕事の帰りはパチンコで散財する毎日。いら立ちの矛先は私に向けられた。私ね、虐待されていたの。ひどいことをいっぱいされて、本気で自殺しようとしたこともあるわ。だけど、やっぱり怖くてできなかった。この右目も父のせいよ。ガラスの破片で傷付いて色が変わったの。男性恐怖症になったのも父のせい。高校を卒業するなり、私は父の金を盗んで家出したわ。東京に行き着いて今に至るというわけ」


 那智は愕然とした。

 橙樺はさらりと話したが、内容はさらりと聞き流せるようなものではなかった。


 やっぱり姫代さんは同類なんかじゃない。

 俺なんかと比較できないくらい不幸だ。

 俺は恵まれていたんだ。

 俺は両親に愛されていた。

 姫代さんは誰にも愛されなかった。


 俺は誰にも愛されない苦痛を理解できない。

 いや、姫代さんの前で理解していると軽はずみなことは言えない。


 橙樺は視線の先を那智に移してにこりと微笑みかけた。


「藤波くんと一緒にいると安心するわ。ヤマアラシのジレンマはご存知?」


「耳にしたことはあります」


「ヤマアラシはショーペンハウエルの寓話を元にフロイトが考案した話よ。2匹のヤマアラシは温め合おうと寄り添うけれど、お互いの針で身体を傷付け合ってしまう。離れすぎても寒いから、2匹のヤマアラシは適度な距離を取って身体を温め合ったの。これは、人間も適度な距離を取ったら関係がうまくいく、ってことを意味しているの。きっと私たちはヤマアラシなのよ。近付きたくても近付けない。でも、そばにいて温め合うことはできる。友達にも恋人にもなれない――そんな特別な関係なのよ」


「そう、ですね。俺もその通りだと思います」


 那智は弁当の残りを口内にかき込んだ。

 それから、さっさと執筆を再開した。


 長らく沈思黙考しているうちに、夕日が街を暖色に染め上げた。

 それとは対照的に、空気は冷たく鋭くなっていった。


 街が色をつけていたのは須臾の間で、ほどなくして舞台の照明を徐々に弱めていくように暗くなった。


 この色の変化も橙樺は感じられない。

 ただ世界が暗くなっていくだけだ。


「藤波くん、そろそろ帰りましょう。もう何も見えないわ」


「階段、大丈夫ですか? 落ちないように気をつけてください」


「ええ、ありがとう」


 橙樺の手を握って支えてあげたかったが、それはできなかった。

 彼女の手を握る勇気はあっても、それはできなかった。


 橙樺は壁を頼りに慎重に階段を下りていく。

 彼女の足元には闇が立ち込めている。

 1歩でも足を踏み外したら奈落の底へと一直線だ。


「夜は怖いですか?」


「怖いわ。夜は孤独よ。何も見えない。何も聞こえない。誰もいない。無に急き立てられて眠ると、無の中に落ちる」


「白黒の世界は怖いですか?」


「怖いわ。ずっと退屈なモノクロ映画を見せつけられているみたい。登場人物は主人公の私だけ。暗闇の中でテレビのノイズをじっと見つめているの。つまらない人生でしょう?」


「…………」


「でも、藤波くんと出会って私の人生は変わりつつある。藤波くんは私の世界の登場人物よ。藤波くんはミステリアスな旅人。今は私のそばにいてくれるけど、いつか私を置いてどこかに行ってしまう旅人。私の人生を変えて藤波くんは去ってしまうのね」


 那智は階段の上で立ち止まり、危なっかしい足取りで進む橙樺を見下ろした。


 俺は一体何がしたい?

 姫代さんと別れた後はどうする?

 姫代さんの人生を小説にしてどうする?

 姫代さんを原稿に残してどうする?

 死ぬまで引きずるのか?

 死ぬ時も姫代さんのことを思いながら死ぬのか?

 俺はなんのために姫代さんのそばにいる?


 階段を下り切って、橙樺は不安そうに周囲をぐるぐる見回した。


「藤波くん、どこ?」


「ここにいますよ」


 まだそばにいますよ――那智は内心でそう言い換えた。

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