薄氷の下のシャーデンフロイデ3
「姫代さん、俺はやっぱりあなたを幸せにできそうにない」
「えっ?」
「い、いや、小説の中の話です。このままいくとバッドエンドになってしまいそうなんです。どうしてもハッピーエンドが思いつかなくて」
「そう」
橙樺は聞いているのか聞いていないのか有耶無耶な返事をして作業を再開した。
横目でちらりと見やると、彼女は少し残念そうに視線を伏せていた。
気のせいだったのかもしれないが。
寒空の下、二人は白い吐息で雲を作りながらそれぞれ執筆と描画に夢中になって励んだ。
あっという間に昼になり、どちらからともなく休憩を取ることにした。
昼食は橙樺が昨日のうちに買っておいてくれた弁当。
一方、彼女はグリーンサラダのみ。
プラスチックの容器にはドレッシングすらついていなかった。
那智は温かい飲み物を買ってくるついでに何か追加で買ってこようかと何度か提案したが、彼女は何故か頑なにそれを断った。
「私、ベジタリアンなの。野菜以外の食事を取らないから平気よ。実を言うと、コーヒーも飲めないの。カフェのウェイトレスなのにね」
「はははっ、確かに。でも、なんか姫代さんらしいですね。それなら温かいお茶を買いに行ってきます」
「ありがとう。あの……早めに戻ってきて」
「はい」
橙樺の言葉の意図はわからなかったが、彼女に必要とされているようでちょっと嬉しかった。
公団の近くに設置されていた自動販売機で温かいお茶のペットボトルを2本買い、那智は階段を1段ずつ飛ばして上った。
戻る前にドアの隙間から屋上を覗いてみた。
鉛筆を指でくるくる弄んで待っている橙樺はなんだかそわそわしていた。
彼女は孤独に恐怖しているようだった。
那智も同じであった。
彼女がいないと胸がざわついた。
「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとう。あっ、今の表情、いいよ」
「えっ、どの表情ですか?」
「穏やかな表情。柔らかいけど、ちょっと悲しそう。いくつもの感情が混ざり合った美しい表情」
「それ、俺の表情ですか?」
「そうよ。藤波くんは表情が豊かね」
俺の表情が豊か?
それは……知らなかった。
そういえば、自分の表情なんて意識したこともなかった。
傍観者は観察する側で、観察される側になることはないと思ってきた。
でも、それは違った。
橙樺に気付かされることはたくさんあった。
彼女は鏡のような存在だった。
彼女と一緒にいると、まるで虚像と向かい合っているかのようだった。
弁当を箸でつついていると、公団の遥か上を旅客機が飛んだ。
疎らな雲の上を轟音が響き渡り、澄み切った冷たい空気がびりびりと震撼した。
那智は箸を止めて呆然とそれを感じていた。
「姫代さん、もしあの旅客機が墜落したらどうします?」
「どうしたの、急に?」
「いや、なんとなく思っただけです。もしあの旅客機に誰か大切な人間が乗っていたとして、それがそのまま墜落したらどうします?」
特に意味のない質問だった。
この質問で橙樺から何かを得ようという意図はなかった。
これは彼女に向けられた独り言に過ぎなかった。
橙樺は旅客機に乗り込んでいく友達を思い浮かべた。
あの旅客機には唯一の友達が乗っている。
そして、これからこの東京に墜落しようとしている。
あまりにも突飛な出来事だ。
そもそも彼女は旅客機に乗っていないし、旅客機が墜落するなんてめったにないことだ。
「えっと、ごめんなさい。現実味がなくて想像もつかないわ」
「そう、現実味がないことなんです。かといって、実際にこの空で起こり得る話です。可能性はゼロに近いと断言できるほど低くはない」
「確かに、これまで何度も事故は起こっているわね。あり得ない話じゃないわ。それで、何が言いたいの?」
「現実味のないことが起こった時、人間は変わるものなんです。あの事件以来、俺の人生も変わった。いや、人生を狂わされた」
那智が過去を話そうと思ったのも、ただの気まぐれであった。
過去を話せる相手は橙樺しかいなかった。
彼女と別れる前にこの肩の荷を少しでも軽くしておきたかった。
「小学6年生の時、俺は交通事故で両親を亡くしました。もちろん俺みたいに幼くして両親を亡くした子供はこの世界に数え切れないくらいいます。同情してほしいわけじゃないんです。ただ、その時に俺が感じたことを聞いてほしいんです」
「うん、聞かせて。私も聞きたい」
真剣な碧眼が話の続きを促した。
やはり橙樺に話してよかったと思った。
那智は一呼吸置いて口を開いた。
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