薄氷の下のシャーデンフロイデ2

 30分ほど歩くと、林立した公団に取り囲まれた。


 橙樺はその中で最も高い公団の階段をはしゃぐ子供のように軽やかに駆け上がっていった。

 那智は橙樺を追いかけながら不審に思った。


 ここが姫代さんの特別な場所?

 立派だがなんの変哲もない公団だ。

 もしかして、姫代さんの唯一の友達に会いに行くのだろうか?


 しかし、那智の推測は的外れだった。

 橙樺はどの部屋のドアの前でも立ち止まらず、屋上まで上り切った。


 橙樺は息を弾ませながら金網のそばに立った。

 那智は彼女の隣に並び、思わずはっと息を飲んだ。


 絶景――この景色を一言で表すにはこの言葉がぴったりであった。


 団地さえも臨める公団の屋上から見渡す東京。

 やはりこの街で暮らす人間とものには生き急いでいる節があった。

 空疎な生きる意味から逃れようとして、死んでいた。

 死んだ景色というものは美しいもので、那智は東京の死体に目を奪われていた。


 この絶景も橙樺の瞳には白黒に映る。

 那智はこの絶景を左目にしか映せない。


 俺と姫代さんには大切なものが欠けている。

 どうしようもなくなって、救いの手を求めて手を伸ばしていた。

 それでも誰も助けてくれなくて。

 いつしか俺は手を伸ばすのをやめた。

 姫代さんはまだ手を伸ばし続けている。


 今の俺には姫代さんの手を掴めない。

 右目の視力のない同類なんかに手を取られても傷を舐め合うことしかできない。


 いや、姫代さんの苦痛を知ったかぶるのは失礼だ。

 同類と一括りにすることはできない。


 俺は人間に怖れられて目の上のたんこぶのように扱われてきた。

 姫代さんは人間を怖れて邪険にされてきた。

 俺と姫代さんはやっぱり対極の立場にいるんだ。


 頬を生温かい液体が伝った。

 指で触れると、それが涙であることがわかった。


 どうして涙が流れるんだ。

 悲しくなんて……ない、多分。

 きっと、無性に悲しいんだ。

 やっぱり悲しいんだ。

 何が悲しいのかもわからないのに、ひたすら悲しい。


 那智は絶景を見下ろしながら溢れ出る涙を拭った。


「ふ、藤波くん? どうしたの?」


「なんでもないです……ただ……悲しいんです……」


 時折、何を感じているわけでもないのにふと涙することがある。

 その瞬間は突然訪れるようで、実はきちんと定まっている。

 ちょうど器がなみなみになってこぼれるように。


 橙樺はただ黙ってそばにいてくれた。

 むしろ、それで助かった。

 下手に慰められたら、彼女の体温を欲してしまうかもしれなかった。


 那智は瞬きをして鼻をすすった。


「取り乱してすみません……たまにあるんです。涙を溜める器には限度があるんですよ。どんなに強がっていても、涙はこぼれるものなんですよ」


「わかるよ。私もそうだから」


 橙樺はそう言ってからリュックを下ろした。

 中から画用紙と鉛筆を取り出して、悪戯な微笑みを浮かべた。


「藤波くん、そのままじっとしていて。泣き顔を描きたいから」


「えっ、やめてくださいよ。恥ずかしいですって」


「お願い、藤波くんの表情を描き尽くしてみたいの」


「俺なんかの表情でいいんですか? 絵にしたって面白くないですよ」


「藤波くんだって私なんかの人生を小説にしようとしているわ」


 そう言い返されてはなす術がなかった。

 那智は言われた通り身動き一つしなかった。


 橙樺は鉛筆をさらさらと画用紙に走らせる。

 しなやかな手に操られた鉛筆は踊っているかのようだ。

 今、鉛筆は彼女の指と化している。


 小説家は書き、イラストレーターは描く。

 こう考えてみると、俺と姫代さんは似たような夢を追いかけているのかもしれない。

 安定した生活の送れない職業だが、俺たちは金よりも大切なものを追いかけている。


 俺たちはよりよく生きようとしている。

 時には振り返りながら、時には躓きながら。


 橙樺を見つめていたら時間はあっという間に過ぎた。


 描き上がった絵は悲しみに涙を流す眼帯の少年だった。

 どうして泣いているのだろう、と那智に想像させるくらいだから、彼女の絵は本当によくできていた。


 金網の前に胡坐をかき、那智はリュックの中から原稿とボールペンを抜き出した。


「ごめんなさい。でも、素敵な絵ができたわ」


「それはよかったですね。ところで、ここにはよく来るんですか?」


「ええ。見晴らしはいいし、人気はないし、絵を描くには絶好の場所よ。きっと執筆も捗るわ」


 隣に膝を曲げて尻をついた橙樺。

 今度は横顔でも描くつもりなのだろう。


 モデルは意外にも緊張するもので、不動の像になろうとすると身体が力んで不自然になってしまう。

 そこで、那智は執筆に意識を集中させることにした。


 橙樺が路地裏で転倒する場面が思い浮かんだ。

 あまりにも突拍子がないのでおかしくなったが、想像はさらに続いた。


 路地裏で転倒した彼女は、氷像のごとくばらばらに砕け散ってしまった。

 氷の欠片となった彼女はどんどん割れて細かくなっていき、街中に飛散した。

 やがて彼女だった欠片たちは空へと舞い上がり、雪になって街に降り注いだ。彼女は雪女の化身だった、という結末が彼女の最後だ。


 主人公との別れで物語はあっさり終わってしまった。


 那智は頭を振って結末を考え直す。


 だが、なかなかしっくりくる結末は思いつかなかった。

 どれもバッドエンドばかりで、到底ハッピーエンドにはなりそうもなかった。

 同時に、この物語にはバッドエンドが相応しいような気がした。

 小説の中で橙樺を幸せにすると言ったが、ハッピーエンドにしたら陳腐になってしまいそうな気がした。

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