第4部 薄氷の下のシャーデンフロイデ

第1章

薄氷の下のシャーデンフロイデ1

 午前8時。

 約束の午前10時まであと2時間もあったが、那智は早々に身支度を整えてビジネスホテルをチェックアウトした。


 ビジネスホテルから30分も歩かないうちに、橙樺のアパートの前に着いた。


 まだ眠っているだろうか。

 早すぎたら迷惑だろうか。


 チャイムを押すか押さないか迷った挙句、結局那智はチャイムを押した。

 それから、怪しまれないように念のため名乗っておくことにした。


「藤波です」


 すると、部屋の中がどたどたと騒がしくなり、少ししてから橙樺の声が聞こえた。


「藤波くん、ごめんなさい! まだ支度できていないの! 寝癖もひどいし……鍵を開けるから玄関で待っていてくれる?」


「わかりました」


 返事をすると、鍵の開く音がした。

 那智はドアを開けて玄関に入り、後ろ手にドアを閉めた。


 しばらくして橙樺はシャツとスキニーパンツに着替えて現れた。

 なんとなく彼女がどんな格好でベッドの中にいたのか気になった。


 目の前の彼女は短めの黒髪も相まってやはり男装しているかのようだった。

 それでも彼女の美貌は揺るぎなかった。


「お待たせ。寒かったでしょう。さあ、入って」


 通されたリビングには暖房がついていた。

 カーゴパンツのポケットの中でかじかんでいた指先がじんわりと痛くなった。


「随分と早かったわね」


「すみません。目が冴えて寝付けなくなってしまって。まだ寝てました?」


「いいえ、ちょうど目が覚めたところよ。でも、びっくりしちゃった。まさかこんなに早いとは思わなかったから。お茶を淹れるわね。昨日、頑張ってコンビニでお茶とお弁当を買ってきたのよ」


「あっ、わざわざすみません。気を遣わなくてもよかったのに」


「いいのよ。お湯を沸かしてくるわね」


 キッチンに移動し、やかんに水道水を入れてガスコンロの火にかけた橙樺。

 普段は料理をするのかな、と思った。

 彼女が作ってくれたサンドイッチの味が思い出されて、口内に唾液が湧いた。


 やがて水が沸騰して、橙樺はいかにも和を感じさせる風貌の急須と小さな湯のみを2つ重ねて運んできた。


 お茶を喫している間、会話が交わされることはなかった。


 橙樺と一緒にいると心が安らぐ。

 年上の包容力とはまた異なる、あえて言うなれば、同類から感じ取る好意によるものだ。


 この安らぎは旅の終わりを示唆している。

 が、それは決して叶わないことだ。

 男性恐怖症の彼女が受け入れてくれるはずがない。

 この旅は死ぬまで終わらない。


 橙樺との別れが頭を過ぎり、那智は深い悲しみに襲われた。

 それを察した橙樺は訝しく思って首を傾げた。


「どうかした?」


「いや、なんでもないです。このお茶、美味しいですね」


「そうね。少し高いお茶だったから」


 身体が温まったところで、2人は早速アパートを出発した。


 ちなみに、橙樺はマスクをつけて黒色のマフラーを巻いた。

 せっかくの素顔が隠れてしまうことを残念に思ったが、彼女に限っては致し方ない。


 そういえば、行き先を告げられていなかったな。

 一体どこに行くんだろう?

 少なくとも、人間の多い場所ではないことは確かだ。


 姫代さんの特別な場所……想像もつかない。

 まあ、楽しみにしておこう。

 ああ、どんなに素晴らしい場所なんだろう。


 橙樺は人目を避けるように極力路地裏を歩いた。

 那智は彼女から少し距離を取ってついていった。


 電車には乗らなかった。

 いや、そもそも橙樺は人間が箱詰めにされる電車には乗れなかった。

 電車に限らず、その他の公共交通機関も利用できなかった。


 上京してきた時、橙樺は一度新幹線に乗ったことがある。

 運悪く隣に座ったのが中年のビジネスマンで、彼女は始終震えっぱなしだった。

 彼女の異変に気付いた男の親切心が裏目に出て、なおさら恐怖を煽った。

 肩に触られると涙が止まらなくなり、男はあらぬ疑いをかけられた。

 男には申しわけなかったが、男性恐怖症の彼女にはどうしようもないことだった。

 それ以来、彼女は電車に乗ったことがなかった。


 進むごとに人気がなくなっていく。

 橙樺の世界に入っていく。

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