第3章

ストレンジャー8

 マンションの部屋に帰ってくるなり、久遠は冷蔵庫を開けた。


 もうくたくただった。

 酔いが回っているせいもあり、意識がふわふわしていた。

 心地のいい浮遊感が久遠をとぐろのように取り巻いていた。


 明日から休日。

 久遠が働く出版社では毎週のように飲み会が催される。


 働く楽しみというものは、週に一度羽目を外すためにある。

 オフィスの退屈で窒息しそうになるのだ、息抜きは必要不可欠だ。


 久遠は酒癖が悪い。

 酔っ払うと感情的になりがちで、自制心が利かなくなることもある。


 久遠は冷蔵庫の缶ビールを引っ掴んでプルタブをこじ開けた。

 二次会のカラオケでも何杯か酒を飲んだが、日頃の鬱憤を晴らすにはまだまだ飲み足りなかった。


 一息にビールを飲み干すと、顔がかっと熱くなった。

 視界がぐにゃりと歪曲し、千鳥足になってベッドに倒れた。


「あー、目が回るー……ちょっと小腹が空いたわね。ピザでも注文しようかしら」


 散らかった部屋の隅からちらしを引っ張り出してきて、久遠は早速スマートフォンでピザ屋に電話をかけた。


「あっ、もしもし? 今すぐピザを持ってきて。種類? なんでもいいわよ。とにかく、美味しいのを持ってきなさい! 5分以内ね! 5分以内に持ってこなかったらただにさせるわよ! んー? 住所ー? はいはい、わかったわよ。わかったからごちゃごちゃ言わないで」


 ろれつの回らない口で住所を告げると、通話はぷつりと切られた。

 久遠は舌打ちし、手持ち無沙汰にテレビをつけた。


 大して面白い番組をやっていない、チャンネルをニュースに切り替える。

 ニュースはニュースで辛気くさい事件ばかりでうんざりさせられる。


 速報が入り、巷で噂のストーカーがぼこぼこにされた状態で発見された、という報道にはいい気味だと思ったが、それ以外はなんの面白みもないニュースばかりだった。


 久遠はぐったりしてテレビを消した。


「遅いー! もう5分は経ったんですけどー! ただで食べるピザも冷めたら美味しくないわ!」


 久遠は勝手に決めた5分のタイムリミットを過ぎていらいらしていたが、そもそも彼女が電話したピザ屋からこのマンションまで配達するには渋滞にはまらなくても5分以上はかかる。

 金曜日のこの時間帯は道路が混雑しやすい。

 小回りの利くバイクでもさすがに15分はかかるだろう。


 それに、このご時世、遅刻してもピザはただにはならない。

 我儘なお姫様が命令したとしても、だ。


 うたた寝をしているとチャイムが鳴った。

 5分を大幅に遅れたことと眠りから覚まされたことにいら立った久遠は、ピザをただにしろと駄々をこねた。

 根負けした店員は呆れてさっさと帰っていった。


 しめしめとピザを頬張りつつ、2本目の缶ビールのプルタブを開封する。


 冷蔵庫を開けた時点で、ダイエットのことなんか毛頭気にかけていなかった。

 というより、酔って余計なことを一時的に忘れてしまっていた。


 そのための酒だ。

 こうでもしないと仕事なんかやっていられない。

 酒がなければとてもではないがこの社会は生きていけない。

 酔っていなければストレスの重圧に押し潰されてしまう。


 最後のピザの一欠片に手をかけたところで、久遠は泥酔の大波に飲まれて瞼を閉じた。

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