ストレンジャー7
橙樺はちびちびとミネラルウォーターを飲んだ。
アルコールに弱い女がゆっくりと少しずつ酒を飲むように。
その仕草はか弱い小動物のようで、那智の心をより一層強く惹きつけた。
橙樺には小動物的なところがある。
それでいて、ただの人間よりも高い位置にいる。
彼女は傍観者だ。
ただし、那智とは種類の異なる傍観者だ。
彼女は自ら高い位置に上がったわけではない。
彼女は周囲の人間によって高い位置に押し上げられたのだ。
彼女の意志でそこから下りることはできない。
もし下りたら彼女は待ち構えていた槍に貫かれて串刺しにされてしまう。
すると、橙樺は沈黙を紛らわせるようにこう言った。
「明日から休日だね。明日は何か予定があるの?」
「何も。強いて言うなら執筆をするくらいです。またカフェに行きたいところですが……明日は姫代さんはいないんでしょう?」
「ええ。休日はマスターが1人で接客してコーヒーを淹れるの。マスターはヘビースモーカーで重度のアルコール依存症だけど、コーヒーくらいなら淹れられるわ。ああ、あのカフェ、休日はメニューがコーヒーしかないのよ」
「へぇ、それは珍しいですね。それなら明日はカフェに行くのはやめておきます。姫代さんがいなくてエスプレッソとチーズケーキがないのなら行く意味がない」
「じゃあ、明日は私と出かけない? あっ、あの……いきなりで図々しかったらごめんなさい。二度も助けてもらったお礼に、私の特別な場所に連れていってあげようと思うのだけど」
「お言葉に甘えさせてもらいます。でも、いいんですか?」
「えっ、何が?」
「男性恐怖症なんでしょう?」
目を点にした後、橙樺はくすくすと笑いをこらえた。
男性恐怖症のことを配慮したつもりだったが、それは無用だったようだ。
「お気遣いありがとう。でも、気にしないで。こうして話すだけなら藤波くんは平気みたい」
「信頼されているようで何よりです。ストーカーと軽蔑されるかと思っていました」
「だって、もしストーカーなら助けたりしないでしょう?」
「はははっ、そうですね」
「じゃあ、明日の午前十時、ここでまた。別に遅れても構わないから」
「わかりました。今日はどうもお邪魔しました」
那智は玄関でカントリーブーツを履き、橙樺の部屋を後にした。
彼女は薄着のまま外まで見送ってくれた。
橙樺が控えめに手を振るのに手を振り返しながら、那智はしみじみと思った。
姫代さんには俺が手を振り返したのが見えているだろうか。
姫代さんの世界はモノクロ映画のように白黒で、俺の姿は夜の闇に塗り潰されているのではなかろうか。
いや、俺どころか何も見えていないのではなかろうか。
姫代さんの世界は常に暗くて、誰もいないのではないだろうか。
そんな世界に放り込まれたら、俺なら気が狂ってしまうかもしれない。
いくら傍観者で孤独といえども、観察する人間さえ存在しないというのはとても耐えられない。
那智は橙樺の世界を見上げて大きく息を吸い込んだ。
この空の下では自分という存在がひどくくだらないものに思えた。
彼女のように強い人間はこの世界にどれくらいいるのだろう、きっと俺が想像するよりずっと多いのだろうな、と自問自答してから、カントリーブーツの踵を鳴らして歩き出す。
いいさ、俺は自分を強いと思ったことなんて一度もない。
俺はちっぽけな存在さ。
傍観者なんてそんなものだ。
人間より高い位置にいても、人間より身分が高いとは限らない。
なんにせよ、だ。
何もない明日に予定ができたのは幸いだ。
さらに幸いなことに、姫代さんとまた会える。
ウェイトレスとしての彼女ではなく、姫代橙樺としての彼女とまた会える。
これが……デートなのかもしれない。
もしこれがデートなのだとしたら、初デートになる。
那智は奇異の視線を気にも留めず、横断歩道のど真ん中でステップを踏んだ。
自然と顔がにやけた。
傍からしたら異常者だと勘違いするだろう。
が、妄想に胸を膨らませる彼にはそんなことはどうでもよかった。
「姫代さん、か。やっと同類が見つかった」
吐息は橙樺の肌のように白く、儚く美しく消えていった。
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