ストレンジャー6
那智は思い切ってこんな質問をすることにした。
この質問をするにはそれなりの勇気が必要だった。
「姫代さん、あなたはどうして生きているんですか? いえ、この聞き方には語弊があるかもしれませんね。聞き直します。姫代さん、あなたはどうしていくつもの障害を持ちながら生きることができるんですか?」
別段深い意味はなかった。
ただ単純に疑問をぶつけてみたに過ぎなかった。
意外にも橙樺は悩まなかった。
「もちろん自殺も考えたわ。生きるのが辛くて、死んでしまいたいと何度思ったことか。でも、いざ死のうとすると怖くてできなかった。どんな障害よりも死ぬことの方が怖かった。それに、私にはイラストレーターになるという夢があったから。きっとそれが私の生きている理由なんだと思うわ。色を認識できない私にイラストレーターは無理かもしれないけど、どうしても諦められないの。ほら、この欠陥品の絵たちを見て。絵の具に彩られて美しくなるのを待っている。自分が描いた絵には愛着が湧くものなのよ」
「わかります。俺も自分が書いた小説は身体の一部みたいだと思っているんです。確かに、愛着が湧きますね」
「藤波くんの夢は小説家になること?」
「はい。俺にはもう小説しかありませんから。孤独のうちに誰も信用できなくなって、さらに孤独の森の奥深くまで進んでいる――そんな感じです」
「いかにも小説的な表現ね。じゃあ、藤波くんが小説家になったら表紙の絵は私が担当しようかしら」
「是非ともお願いします」
ここで那智は急におかしくなって噴き出した。
橙樺が怪訝そうに「どうしたの?」と尋ねたが、彼は心行くまで笑った。
こんなに笑ったのは初めてだった。
笑いが治まると、那智は咳払いをして頭を掻いた。
「す、すみません。姫代さんを寡黙な方だと思っていたので、饒舌になるとなんだか面白くて。姫代さんは本当に絵がお好きなんですね」
「私には絵しかないもの。そんなことより、私って饒舌かしら?」
「俺の想像よりは、です」
そう言うと、橙樺は微笑んだ。
「こんなに誰かとしゃべったのは初めて。友達ともこんなにしゃべったことはないのに。やっぱり藤波くんは不思議な人ね」
橙樺が笑うところを初めて見た。
マスク越しにではあったが、彼女の笑顔は柔和で魅力的であった。
彼女の美しさを描写するのは、那智には力不足だった。
那智はどうにかして橙樺のマスクを外してやろうと企んだ。
そこで思いついたのは、なかなかの名案だった。
「姫代さん、何か飲み物をいただけませんか?」
「ああ、ごめんなさい。私ったら、気が利かなくて。ミネラルウォーターしかないんだけど、いいかしら? 普段は来客なんてないから、コーヒーも紅茶もお茶もないのよ」
「構いませんよ」
橙樺はキッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを2本取ってきた。
喉は全くと言っていいほど渇いていなかったが、彼女に飲み物を飲ませてマスクを外させようという魂胆だった。
那智はミネラルウォーターを一口含み、橙樺の顔色を窺った。
彼女は大分落ち着いているようだった。
この際だ、姫代さんに小説のことを打ち明けてしまおう。
そうすれば姫代さんのことをもっと理解できるかもしれない。
こそこそしなくても正式に姫代さんを観察できるようになるかもしれない。
「姫代さん、もう一つお願いがあるんです」
「何?」
「俺、姫代さんの人生に興味があるんです。あなたの人生を小説にさせてください」
橙樺は困惑した。
日陰の人生に突如として眩い光が差し込んできたのであった。
彼女は戸惑いに頷くことも首を振ることもできなかった。
「わ、私の人生なんか書いてもきっとつまらないわ。不幸な人生だもの」
「それでも構いません。小説の中であなたを幸せにしてみたい」
そう言うと、橙樺はほんのり頬を赤らめた。
「……本当に私なんかの人生でいいの?」
「姫代さんの人生がいいんです」
「私の……人生……」
含羞の微笑を浮かべて、橙樺は小さく首を動かして頷いた。
「わかったわ。じゃあ、私も藤波くんのことを描いてもいい? 私、もっと人間を描いてみたいの。モデルは藤波くんくらいしかいないから」
「もちろんいいですよ」
安心して気を許してくれたのか、橙樺はマスクを外してペットボトルに口をつけた。
紅潮した頬、すっと通った鼻筋、血色のいい唇。
橙樺の表情は恥じらいに歪んでいたが、それさえも可憐だった。
那智は未だかつてここまでの美貌を有する女と邂逅したことがなかった。
感動に茫然自失としてしまうほどだ。
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