ストレンジャー5

 橙樺は顔を上げて那智の眼帯に注目した。


「ごめんなさい、話が逸れてしまったわね。右目はすぐに治るの?」


「残念ながらもう治りません。眼球破裂で、瞼の腫れが引いても視力が回復することはありません」


「えっ、そんな……」


「平気ですよ。まだ左目が残ってます」


「それはそうだけど……悲しくないの?」


「悲しいですよ。自分の一部がなくなるのはやり切れません。でも、いいんです。残った左目のおかげでこうしてあなたを見ることができる」


「……そう。他に聞きたいことはある?」


「はい。その右目はどうされたんですか?」


 そう尋ねると、心なしか橙樺は表情を翳らせた。


「これは虹彩異色症といってね、先天的な場合もあるんだけど、私のは後天的なの。小学3年生の時、虹彩を怪我しちゃってね。子供の頃はよくいじめられたわ。化け物だとかエイリアンだとか言われたり、無視されたりした。大人にも気味悪がられて、ずっと孤独だった」


「それは……気の毒な話ですね」


「でも、こんな私にも友達が1人いたのよ。可愛くてクラスの人気者でね、私とは別世界にいる子だった。彼女はいじめっ子から私を庇ってくれた。彼女はクラスの人気者だったし、彼女のことが好きな子も多かったから、いじめっ子も彼女の前では私に手出しできなかった。高校を卒業してからはどこにいるのかわからないんだけどね」


 友達、か――那智は内心でぽつりと呟いた。


 俺には友達なんていなかった。

 友達なんて、俺には必要ない――そうやって強がってきたけど、やっぱり寂しかった。


 そういえば、こうして誰かの家に入るのは初めてだ。

 誰かの部屋でくつろぐのも新鮮だ。


「絵がたくさんありますね。絵を描くのが趣味なんですか?」


「ええ。イラストレーターになるのが夢なの」


「へぇ。絵を見せてもらってもいいですか?」


「い、いいけど、ちょっと恥ずかしいな。あまり自信がないわ」


 那智は立ち上がり、絵の具のチューブが入ったずっしりと重い箱と筆の束の下から何枚もの画用紙を抜き取った。


 橙樺が好んで描くのは風景画だった。

 ビル群、浅草寺の五重塔、六本木ヒルズ、どこかの屋上から見下ろした街並み。

 何枚という絵の中に人間の絵は1枚しかなかった。


「これが姫代さんの友達ですか?」


「そうよ。美人でしょ?」


「はい。とてもうまく描けてますね」


 しかし、那智はある違和感に気がついた。


 どの絵にも色がない。

鉛筆で線が描かれているだけで、どの絵もモノクロ写真のように殺風景だ。

とても完成した絵とは言い難い。


「どうして色をつけないんですか? 色をつけたらもっとよくなるのに」


 橙樺は首を左右に振って否定を表した。


「この絵たちは私の世界なのよ。私には色をつけることができないの」


 橙樺の言っていることの意味がわからなかった。

 那智は曖昧に首を傾げて疑問を示した。


「ごめんなさい、言い方が悪かったわね。私、色が認識できないの」


「色が認識できない?」


「ええ。一色型色覚異常――いわゆる全色盲。これは先天的で、私は生まれてから一度も色を見たことがないの。私の世界は白黒なの。視力もかなり低くて、コンタクトをつけないと何も見えないんだ。コンタクトをつけていても暗かったり明るすぎると何も見えなくなるの。だから、昨日もお客さんの足に気付かなくて……」


 那智は驚いた。

 が、それは橙樺が全色盲であることに対する驚きではなかった。


 男性恐怖症、虹彩異色症、全色盲。

 姫代さんはいくつもの障害を抱えているのに、生きている。

 いじめられても、無視されても、孤独でも、生きている。

 俺と同じように生きている。


 か弱い印象だった橙樺が突然たくましく思えるようになった。

 障害と闘いながら生きている橙樺が眩しかった。


 俺は右目の視力を失ったが、姫代さんは生まれつき両目の視力がほとんどない。

 姫代さんの世界には色もないし、虹彩異色症の右目のせいで人間から虐げられてきた。

 男性恐怖症にはさぞ苦しめられてきたことだろう。


 それでも姫代さんは生きている。

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