ストレンジャー4

 彼女の部屋は整然としていた。

 家具は必要最低限のものしか揃っておらず、生活感がなかった。


 ぱっと見回して気になるものといえば、テーブルの上の2枚の画用紙くらいだった。

 それは2枚とも那智の絵であった。


 俺は彼女の記憶に残ることができたんだな。

 それにしても、写実的な絵だ。

 表情の機微がきちんと描かれている。

 まるで鏡を見ているかのようだ。


 彼女はベッドの端に腰かけ、那智はテーブルの前に正座した。

 しばらくの沈黙の後、彼女は手の甲で瞼を拭い、開かれた胸元を隠すようにして両腕を組んだ。


「また助けられちゃったね……ありがとう」


 彼女に涙声で礼を述べられて、那智は罪悪感に駆られた。

 皮肉にもストーカー紛いの行為が彼女を助けることになったからだ。


「俺にはお礼を言われる資格なんてないですよ。俺、あなたのことをもっと知りたくて後をつけていたんです。俺もあの男と変わりませんよ」


「でも、君のおかげで私は助かった。君が後をつけてくれてなかったら……とにかく、ありがとう」


「……どういたしまして」


 どうにも釈然としなかったが、今は素直に喜んでおくことにした。


「あの、自己紹介、しない? お礼と言ってはなんだけど、私のことを知りたいならなんでも教えてあげる。私なんかでよければだけど……」


 図らずも幸運は舞い込んできた。

 これは那智にとって最大の収獲になりそうだった。


「はい、是非お願いします。俺は藤波那智といいます」


「藤波くん、でいい?」


「はい」


「私は姫代橙樺。よろしくね」


「こちらこそよろしくお願いします」


 姫代橙樺――那智はこの名前を脳内で反芻した。


 感動にも似た不思議な感覚。

 心のどこかで、彼女の名前を知ることもなく死んでいくのではないかと思っていたからだ。


 橙樺はチェスターコートを脱ごうと手をかけたが、途中でやめた。


「あの、着替えたいから、その……」


「壁の方を向いておきます」


「……うん、ありがとう」


 静やかな衣擦れの音。

 背後で彼女が着替えている――そう思うと、興奮が那智を高ぶらせた。

 彼は必死に冷静さを保とうと努めた。


 振り返りたい。

 白い裸を見たい。


 だが、それは姫代さんの信頼を失うことに繋がる。

 せっかく姫代さんに近付けたんだ、こんなところで台無しにしたくない。


 何か気を紛らわせるものはないかと視線を彷徨わせていると、棚の上に真新しい絵の具の箱と何種類もの筆を見つけた。

 その下には画用紙が山積みにされていた。


 姫代さんは絵を描くのが趣味のようだ。

 素人目に見ても上手だ。

 プロになっていてもおかしくはない。

 それなのに、姫代さんはどうしてカフェでウェイトレスをしているんだろう?


「着替え終わったわ」


 そう言われて振り返ると、橙樺はばつが悪そうに俯いた。

 彼女は先ほどと何も変わらなかった。

 ただ、チェスターコートを脱いでシャツに弾け飛んだはずのボタンがついているくらいであった。


「私、あまり服を持ってないの。おしゃれをするのが怖くて、どうしても無難な格好になってしまうの」


 那智が思うに、橙樺に無難という言葉は似つかわしくなかった。

 男装の麗人という表現が相応しいかどうかはわからないが、少なくともそれに近いものがあった。


 確かに、橙樺がマスクを外して化粧をして着飾ったら、男は一輪の花を好む蜂のように惹き寄せられてしまうだろう。

 それは彼女にとって望ましいことではない。


「あの、なんでも聞いて。遠慮しなくていいから」


「はい。この絵、俺ですよね?」


「あっ……!」


 橙樺はまずいものを見られてしまったといった具合に声を上げた。

 先ほどの一件のせいで気が回らなかったのだろう。


「ごめんなさい……勝手に描いてしまって……」


「そんな、謝らないでください。むしろ、絵に描いてもらえるなんて嬉しいですよ」


「……そう、ありがとう。ああ、私も一つ質問してもいい? どうしても気になることがあるの」


「どうぞ。なんでしょう?」


「どうして右目に眼帯をつけているの? 怪我をしたの?」


「ああ、これは……はははっ、恥ずかしい話、東京に着いて早々迷ってしまいましてね。歌舞伎町で2人の不良にやられてしまったんです」


「喧嘩?」


「いえ、少年を助けようとして余計な正義感を振るったのがいけなかったんです。俺はその場を知らんぷりして通り過ぎるべきだった」


「でも、藤波くんは助けた。私の時みたいに。藤波くんは優しいのね」


「えっ……?」


 那智は驚きに目を見開いた。


「俺は……優しくなんかないです。俺も元はろくでもない不良で、助ける側じゃありませんでした。罪を償うってわけじゃないですけど、きっと俺は自分のために誰かを助けているんですよ」


「それならなおさら優しいよ。人間は弱い生き物だから、弱者が虐げられていても誰も助けようとしない。それどころか、虐げる側に加勢する。助けてくれるのはごく一握りの人間。藤波くんもそのうちの一人よ」


 那智は脳内で首を横に振った。


 違う。

 俺はごく一握りの人間なんかじゃない。

 俺は姫代さんに対して憐憫を感じたから助けたわけじゃない。

 確かに、カフェでの一件では憐憫が俺を突き動かしたが、今回は違う。


 俺は純粋に姫代さんを助けたかったんだ。

 俺は姫代さんのために怒ったんだ。

 俺のためじゃない。

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