第2章

ストレンジャー2

 目が覚めると、午前10時が目前に迫っていた。


 那智は寝ぼけ眼をこする暇もなく出かける支度をした。


 午前10時はホテルのチェックアウトの時間だった。

 それとは別に、那智には行くべき場所があった。


 通勤ラッシュを大幅に過ぎたがらんどうな時間帯。

 人間観察にも飽きてきて、もはやどうでもよくなってしまった。

 東京を訪れてから、那智は例のウェイトレスに夢中になっていた。


 鼓膜を振動させるバイパスの騒音。

 排気ガスに侵されて淀んだ空気。

 足早に長い横断歩道を歩く人間。


 改めてここが東京なのだと実感した。

 あのカフェでは東京にいることなんて関係なかった。


 あのウェイトレスとの出会いが旅の自由を停滞させていた。

 あのウェイトレスとの出会いが那智を自由でなくしていた。


 複雑な心境を一蹴して路地裏のカフェに入店する。

 が、客は誰もいない。


 ウェイトレスはコーヒーカップを洗い、マスターは換気扇の前で喫煙していた。

 この光景も見慣れてきた。

 安心感すら覚えるようになった。


 那智はエスプレッソとチーズケーキを注文し、原稿をテーブルの上に広げた。


 今日は1日中ここに居座り、ウェイトレスを観察しながら執筆するつもりだった。

 普遍的な人間を何人も観察するより、特殊な彼女を1人観察する方がよほど有意義だ。


 ここには東京の喧騒はない。

 ひたすら閑寂で、世界から切り離されている。

 どんなカフェよりもカフェらしく、那智が那智らしくいられる場所だ。


 ウェイトレスがトレイを運んできた。

 エスプレッソとチーズケーキをテーブルに移しても、彼女はすぐには厨房に戻らなかった。

 見上げると、彼女は何か物言いたげに口をぱくぱくさせていた。


 那智はウェイトレスが口を開くのを待った。

 あるいは何も言わずに厨房に姿を眩ませるのを待った。

 恐らく後者だろうな、と彼はたかをくくっていた。


 しかし、ウェイトレスは口を開いた。


「あ、あの……昨日はありがとう……」


 そう言うなり、ウェイトレスは脱兎のごとく逃げ出した。


 那智は唖然としていた。


 彼女の声は想像通りだった。

 清澄な水のように透き通っていて、素朴でありながらも鼓膜に浸透する声だった。


 何より那智は男性恐怖症の彼女から話しかけられたことに驚いていた。


 今ほど幸せだと思ったことはない。

 今ほど生きていてよかったと思ったことはない。

 俺は彼女の声を聞くために遥々東京までやって来たのかもしれない。


 視線がかち合うと、彼女は羞恥に長いまつ毛を伏せた。

 彼女が俯くと前髪が上気した頬にかかって色っぽかった。

 欲が出て彼女の顔を拝みたくなったが、やはりマスクが邪魔をするのであった。


 彼女の声の余韻が耳の中で反響していたが、ラジオのニュースがそれをかき消した。


 新宿でまたストーカー被害があっただとか、歌舞伎町で大量のドラッグが押収されただとか、居酒屋で暴力事件があっただとか。

 ラジオから流れてくるのはどれも気分を滅入らせるような暗いニュースばかりだった。


 それから那智は本当に1日中カフェに居座った。


 昼食は生ハム、レタス、チーズのサンドイッチ。

 ウェイトレスの手作りで、出来上がるまでの過程を見届けていたためか、やけに美味しく感じられた。

 ティータイムを挟み、夕食もサンドイッチを食べた。


 このカフェには窓がないため、昼も夜もわからなかった。

 壁にかけられた時計だけが頼りだった。


 執筆は捗った。

 那智の中で彼女の像が完成し、プロットもまとまった。


 とはいえ、依然として彼女のことは何も知らなかった。

 恐怖の仮面が剥がれかかって、彼女の人間性に纏わりついていた靄が薄れてきた。


 マスターは呆れた溜め息を吐いた。


「お兄さんも暇な人だね。そんなにここを気に入ってくれたのかい?」


「ええ。特に行くあてもないので、しばらく新宿に滞在しようかと思っているんです。このカフェも気に入りましたし」


「そうかい、それは嬉しいね。まあ、旅の途中で立ち止まってみるのも悪くないさね。どこに行っても同じ、歩き回っても疲れるだけだ」


「全くその通りですね。俺も……疲れました」


「さて、そろそろ閉店だ。私が言うのもなんだけど、お兄さん、食事が偏りすぎだよ」


「はははっ、その言葉、そのままお返ししますよ」


 那智が席を立つ前に、ウェイトレスはテーブルを拭きに来た。

 彼女との距離がほんのわずかに縮まったような気がした。

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