第3部 ストレンジャー

第1章

ストレンジャー1

 スマートフォンのアラームが耳元でやかましく騒ぎ、乱暴に意識を覚醒させる。

 重たい瞼をこじ開けてアラームを止める。


 白峰久遠しらみねくおんはOLである。


 高校を卒業してなんとか就職まで漕ぎつけたものの、そこは小規模な出版社だった。

 憧れの東京で働けるだけましだったが、なんともやり甲斐のない仕事ばかりさせられるのだ。

 オフィスワークのルーティンには辟易していた。


 パソコンのディスプレイと1日中睨み合い、1日中椅子に縛りつけられる。

 目の疲れと肩の凝りと闘うのが仕事と言っても過言ではないかもしれない。


 出版社のOLになってから2年が経った。

 長い長い2年だった。

 それまでの18年とは比べものにならないくらい長い二年だった。


 東京は息苦しい。

 特に通勤時間。

 人間で密集した電車の中で過ごす時間は長く、久遠にとって最も苦痛な時間だ。

 人間に押し潰される感覚は陵辱される感覚と似ているのではないか、と思う。


 久遠は早朝の暗くて冷えた部屋にエアコンをつけた。

 部屋が温まるまでしばらく布団にくるまり、いら立ち紛れに少し癖のある茶髪を掻きむしった。


 朝、何か理由があるわけでもなく久遠は機嫌が悪くなるたちであった。

 1人の時ならいいのだが、恋人がいる時は八つ当たりしてしまうこともあった。

 彼女は治したかったが、これは自分の意志で治せるものではなかった。


 洗面台で丹念に洗顔し、一度リビングに戻る。

 お気に入りの白のブラウス、黒のタイトスカート、同じく黒のストッキングを身につけ、再び洗面台の前に立つ。


 女の朝の支度で最も時間がかかるのは化粧だ。

 久遠もその例に漏れなかった。


 しかし、久遠は化粧にざっと1時間以上もの時間を費やす。

 工芸品に筆をかける職人も顔負けである。


 化粧に満足すると、久遠は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して半分まで一気に飲んだ。

 これが彼女の朝食だ。


 久遠は整った体型を維持するため熱心にダイエットをしている。

 朝食はミネラルウォーターのみで、オフィスで小腹が空けば休憩室でビスケットを齧る。


 高価な香水を首元に一振りし、ベージュのピーコートを羽織り、赤い光沢のあるピンヒールを履く。

 久遠は美しく着飾ることに腐心している。


 美人の基準や定義は曖昧なものであるが、久遠は間違いなく美人の部類に属していた。

 彼女もそう自負しており、美人という玉座で踏ん反り返っていた。


 子供の頃からそうだった。

 周囲にもてはやされてなんでもかんでも思い通りだった。

 周囲の人間は彼女の手のひらの上で踊らされていた。


 しかし、社会に出てみるとどうだろう。

 美人の玉座から引きずり下ろされることはなかったが、思い通りにことが進まなくなった。

 例えるなら、従順な下僕に裏切られたかのごとき屈辱であった。


 ああ、なんてつまらない日常なのでしょう。

 今、私は社会の手のひらの上で馬鹿みたいに踊らされている。

 踊りをやめたくてもやめられない。

 踊り続けなければ生活していけないもの。


 久遠には東京でモデルになるという夢があった。

 大学にも行きたかった。


 だが、家庭が貧乏だったということもあって大学には行けず、オーディションにも 落選し続けてモデルの夢も諦めた。


 子供の頃は夢を叶えるなんて容易いことだと思っていた。

 周囲に甘やかされて生じた最大の勘違いは、久遠を絶望の深淵に突き落とした。


 私は不幸な人間だわ。

 だって、不幸であることを知らされずに生きてきたんだもの。

 それどころか、幸せだと思い込んでいた。


 外を歩いていると視線が横薙ぎの雨のように降り注いでくる。

 久遠は自然と道行く人間の視線を惹きつける。


 今は孤独。

 子供の頃は……過去の話ばかりだけど、私には過去しかない。

 私が輝いていたのは過去の話。

 子供の頃は私を慕う人間が取り巻いていて、鬱陶しいくらいだった。


 でも、それがいなくなると寂しいものなのね。

 媚びてくる人間を見下していたけれど、今はそんな人間でもいいからそばにいてほしい。

 孤独ほど苦痛なことはないわ。


 恋人は数え切れないくらいいたが、ほとんど長続きしなかった。

 恋人の何人かが傲慢さを指摘したが、当の久遠は聞く耳持たずで、文句を言おうものなら即刻別れを切り出すのだった。


 孤独は久遠が自分で蒔いた種だったが、彼女は自分が悪いとはさらさら思っていなかった。

 彼女のこの性質も子供時代の弊害によるものであった。


 通勤ラッシュをやり過ごして、しがない出版社がある池袋に到着する。

 オフィスに出社する前に、久遠はいつも駅のトイレで化粧を直す。

 花がないオフィスでは、彼女はアイドル的存在だ。


 一輪の花は咲き誇らなければならない。

 小さな綻びもあってはならない。

 これが美人の運命だ。


 出社すると、同僚や上司の間に緊張の波紋が走る。

 そして、我先にと猫撫で声のような挨拶を浴びせる。

 久遠も負けじと声色を変えて挨拶を返す。

「おはよう、白峰さん」、「おはようございまぁす」といった具合に。


 久遠はデスクにつき、誰にも感付かれないように溜め息を吐いた。


 今日も虚偽に満ちた1日が始まる。

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