エスプレッソとニューヨークチーズケーキ3

 平穏なティータイムの終わりは突然訪れた。


 ドアのベルが鳴ると、いきなり怒鳴り声が店内に響き渡った。

 何事かと思ってドアの方を見やると、そこには育ちの悪そうなスーツ姿の男がいた。

 怒鳴り声は携帯電話越しの相手に向けられたものだった。


 男は真ん中のテーブル席に体重を下ろすようにどっかと座り、不機嫌そうに鼻から息を吐いた。

 いら立っているのが隣の那智にもひしひしと伝わってきた。


 一方、ウェイトレスは怯えて足を竦ませていた。

 たとえ男性恐怖症でなかったとしても、いら立っている客に近付くのは躊躇われるだろう。

 彼女がひどく気の毒に思われた。


 ウェイトレスがおずおず水とおしぼりをテーブルに置くと、男は無造作に「コーヒー」と言い放った。

 彼女は素早く石油ストーブの上のやかんをひったくり、逃げるように厨房へと戻っていった。


 男の貧乏揺すりが視界の端をちらつく。

 オックスフォードシューズの解けた紐が生き物のように蠢く。


 できるだけ男の機嫌を刺激しないように手際よくコーヒーを淹れたウェイトレスは、微かにトレイを震わせながらそれを運んだ。


 ウェイトレスが段を上った時だった。

 彼女は躓いてトレイをひっくり返した。

 食器が割れ、コーヒーが床にぶちまけられた。

 飛沫が男の衣服にも飛び散り、彼は激高して立ち上がった。


「熱っ! てめぇ、何すんだよ! おい、どうしてくれんだよ、これ! クリーニング代は払ってもらうからな! おい、黙ってねぇで謝れよ! 土下座して謝れよ!」


 ウェイトレスは男の言いなりになって土下座した。

 その姿はあまりにも惨めで、無残な死体を目にするよりも那智の同情を誘った。


 しかし、那智はウェイトレスが転ぶ瞬間を目撃していた。


 ウェイトレスが転んだのは、男が足を引っかけたせいだ。

 彼女の足の下にさっと爪先を置くような形だった。

 巧妙な手口だが、目撃者がいたのでは咎められて当然だ。


 男が舌打ちをしてテーブルを蹴り、平伏したウェイトレスが肩をびくりと跳ねさせる。

 それでも飽き足らなかったのか、男は彼女の頭に靴底を押し当てた。


 那智は怒りが込み上げてくるのを感じた。

 短気な分、それが爆発するのは早かった。


「やめろ。謝ってんだろ、許してやれよ」


「ああ? てめぇには関係ないだろうが! 黙ってろや!」


 那智は太ももを思い切り蹴りつけられて椅子ごと転倒した。

 床に肩をぶつけて、鈍痛がじわりじわりとそこを熱くしていった。


 不良をやめて喧嘩をしないという決意はまたもや瓦解してしまった。

 那智の頭の中には歌舞伎町の出来事なんて微塵も残っていなかった。

 また性懲りのなく男に殴りかかっていった。


 歌舞伎町では自尊心と決意が拮抗して、結局は自尊心が勝ってしまったのだが、今回はそうではなかった。

 半分は自分のためで、もう半分はウェイトレスのためだった。

 醜悪なものが介入する余地はなかった。

 この仲裁はれっきとした仲裁で、偽善的な正義感はなかった。

 彼女に対する憐憫の情が那智を突き動かしていた。


 先ほどのお返しと言わんばかりに男を蹴り飛ばし、さらに脇腹を蹴ってから腹の上に跨る。

 2、3発顔面を殴ると、抵抗して絡みついてきた両腕が萎れる。


 那智は男の胸ぐらを掴み、首を持ち上げた。


「あんたが足を引っかけたのが見えたんだよ。安物のスラックスが汚れたくらいでごちゃごちゃ騒ぐな」


「てめぇ……殺すぞ……」


「やれるものならやってみろ」


 鼻血の垂れた顔面に唾を吐きかけ、那智は男を解放した。


「さっさと出ていけ。ああ、コーヒーの代金を忘れるな。さもなければ無銭飲食で警察を呼ぶぞ」


「くそっ……」


 男は千円札をテーブルにたたきつけ、ふらふらとドアから出ていった。


 怖る怖る厨房を一瞥して、那智は思わず二度見してしまった。

 驚いたことに、マスターの手は包丁にかけられていた。


 もしものことがあったら包丁を持ち出すつもりだったのだろうか。

 確かに、暴力沙汰になれば男には敵わない。

 しかも、ウェイトレスは男性恐怖症ときている。


 マスターに任せておけばよかったのかもしれないが、いずれにせよ俺が耐えられなかっただろう。

 胸くその悪い場面を黙って見過ごせるほど俺は腐っていない。

 正しいことをしたとは思わないが、俺はこれで満足している。


 那智は倒れた椅子を起こして座った。

 ひどく居心地が悪かった。


 ウェイトレスは床に尻をつけてすすり泣いていた。

 彼女を慰めてやりたかったが、那智にはできなかった。


 いっそのこと女に生まれてくればよかった、と心底思った。


 マスターは包丁から手を離し、ガスコンロの火で煙草の先端を炙った。

 それから、一息吸って灰を落とした。


「お兄さん、面倒をかけてすまなかったね。お代は結構だよ」


「いや、そんな――」


「いいんだよ。その娘を助けてもらった礼くらいさせておくれ」


「……わかりました。あの――」


「その娘なら平気さ。そっとしておいてやりな」


 頷きを返し、那智は残りのエスプレッソとチーズケーキを口にした。

 先ほどまであんなに美味しかったのに、今はひどく味気なかった。


 やがてウェイトレスは雑巾で床の掃除を始めた。

 彼女はまるで継母と姉たちにこき使われるシンデレラのようだった。

 那智は王子になりたかったが、ガラスの靴はどこにも見当たらなかった。

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