第2章

エスプレッソとニューヨークチーズケーキ2

 浅草を堪能した後、那智は電車に乗って新宿に舞い戻った。


 空から夜の帳が下りてきて、路地裏のカフェが閉店しやしないかと心配して足早になる。


 例のウェイトレスのことが引っかかって人間観察に集中できないでいた。

 浅草の散策を終えたらまたどこか遠くへ行こうと考えていたが、那智の足は勝手に新宿へと直行していた。

 路地裏のカフェの位置はうろ覚えだったが、一縷の記憶を手繰り寄せていくといとも簡単に辿り着いた。


 カフェはまだ開いていた。

 那智は唇をすぼめて白い吐息を吹いた。


 ベルを鳴らして入店すると、退廃的なマスターが「いらっしゃい」と興味なさげに挨拶した。

 が、客が昨日の眼帯の少年だとわかると表情をわずかに弛緩させた。


「お兄さん、また来てくれたんだね。それで、浅草はどうだったね?」


「浅草寺は素晴らしいところでした。ですが、肝心の人間はありふれていました。あまりにも人間的すぎる」


「面白いことを言うね。お兄さんにとって人間的すぎる人間ってのはどんなだい?」


「愛を知っている人間です。浅草は愛し合う人間で溢れていました。愛は人間にとって必要不可欠ですが、俺はそれを必要としない人間を観察したいんです」


「へぇ、私にはよくわからないよ。どうやらお兄さんは変わり者のようだ。まあ、座りな」


 那智は昨日と同じく石油ストーブに近いテーブル席に腰を下ろした。

 例のウェイトレスが肩を強ばらせながら水とおしぼりを持ってくると、小さく手を挙げて「注文いいですか?」と一言断った。

 もはやメニューを開くまでもなかった。


「エスプレッソとチーズケーキをお願いします」


 いつの間にか待ち焦がれていたこの時間。

 埃っぽく古臭い匂いを嗅いだ瞬間から至福の時間であった。


 那智の他に客は昨日も見かけた老人しかいなかった。

 空のコーヒーカップを退けて黙々と新聞に目を通していた。


 那智の視線はウェイトレスに注がれていた。

 視線は釘付けになり、瞬きをすることも逸らすこともできなかった。


 今日、この時のために生きていたような気がした。


 視線を察しているのか、ウェイトレスはちらちらと視線を上げては下げてを繰り返していた。

 マキネッタのボイラーで水が沸騰するまでの間、彼女はそわそわしていた。


 素顔を隠している鬱陶しいマスクを剥がしてやりたいと思った。

 また彼女を優しく全裸にしてみたいという気が起こった。


 雪のように白くて冷たさを感じさせる肌。

 顔面の上半分と首と手くらいしか肌は露出していなかったが、そこにはある種のエロスがあった。

 というよりも、那智の脳内で彼女の全身像がかき立てられて、より妖艶により淑然に仕上げられていた。


 エスプレッソが抽出されると、ウェイトレスは慣れた手つきでデミタスカップにそれを注いだ。

 トレイにミルクの透明な小瓶が載せられようとしたので、那智は思わず制止の声を上げた。


「ミルクはいりませんよ。俺はミルクが嫌いでしてね」


 ウェイトレスは何も反応しなかった。

 ただミルクの小瓶をはけて冷蔵庫からニューヨークチーズケーキを取り出した。


 ウェイトレスの瞳はメドゥーサの瞳だった。

 含羞の眼差しが那智を見つめると、彼は石にされたかのように硬直してしまった。


 たった一度でもいい、彼女の声を聞いてみたい。

 どんなに玲瓏な声音なんだろう。

 もしかしたら、彼女に声なんてないのかもしれない。

 彼女にとっては視線が声なのかもしれない。

 今日の彼女は瞳で俺に何か訴えようとしている。

 何かはわからないが、物言いたげだ。


 だが、話しかけても怖がられるだけだ。

 那智は彼女に話しかけられるのを待たなければならない。

 そんなことは何があってもあり得ないだろうが。


 エスプレッソをすする。

 途端に寒さで固まっていた身体が解ける。

 やはりエスプレッソの苦味はニューヨークチーズケーキと非常にマッチしている。

 2つで1つのセットと言っても過言ではない。

 それほどまでにエスプレッソとニューヨークチーズケーキは見事に調和している。


 厨房からウェイトレスの視線を感じたが、那智はわざと気付かないふりをしていた。

 どうせ視線を返したところで、彼女はすぐにそっぽを向いてしまうのだから。


 BGMは今日も陰々滅々たるものだった。

 ラジオのニュースによると、新宿でストーカー被害が多発しているとのことだった。

 どうやら狡猾なストーカーがこの辺りをうろついているらしい。

 とはいえ、カフェでくつろいでいる那智にはなんの関係もないことであった。

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