第2部 エスプレッソとニューヨークチーズケーキ

第1章

エスプレッソとニューヨークチーズケーキ1

「すみませーん、注文いいですかー」


 女子高生が間延びした声を張り上げて、橙樺は伝票を挟んだバインダーとボールペンを両手に厨房を出た。


 放課後になり、たまたまこのカフェを見つけたのだろう。日陰の路地裏のカフェに入るなんて都会人にしては酔狂だが、2人は恋愛の話に花を咲かせるごく一般的な女子高生であった。


 新規の客だったが、女ということもあって気が楽だった。

 相手が男だとどうしても緊張してしまうが、相手が女だと気兼ねすることがなかった。


「カプチーノとモンブラン」


「私もカプチーノで。えーっと、それから……ガトーショコラ」


「あれ、ダイエット中じゃなかったっけ?」


「いいのいいの。夕食を抜けば平気だって。あっ、そうそう、聞いてよ。夕食を抜いてたら2週間で3キロも痩せたんだけど」


「マジ? 私もやろっかなぁ。でも、夜中とかお腹空かない?」


「早く寝なよ。まだ彼氏と長電話してんの?」


「そう、眠くなってきても切るに切れなくてさぁ。明日もデートなんだ」


「いいなぁ、ラブラブで。私はデートどころか電話すらかかってこないんですけど。学校では一緒に弁当を食べるくらいだしさ」


「なんか冷めてるね。倦怠期なんじゃない? まあ、私たちもいつまで続くかわかんないよ。ほら、私って、熱しやすくて冷めやすいから。気に入らなくなったら速攻で捨てるわ」


「あははっ、ひっどい!」


 注文と会話の境目が曖昧で、橙樺はその場に立ち尽くしてしまっていた。


 会話が途切れたところで、はっとして厨房へと急ぐ。


 マスターは相変わらず換気扇の前で煙草を吸っていた。


 黒く焦げた灰皿、その上に積載された煙草、煤で汚れたタイルの壁。


 マスターはヘビースモーカーだ。

 おまけに、重度のアルコール依存症ときている。

 酒瓶がないと落ち着かない様子で、子供の一人遊びのおもちゃのように常に手元にはそれがある。


 廃人のようだが、橙樺はマスターに感謝している。

 男性恐怖症の橙樺が働ける職場は非常に限られており、最近では飲食店も経営不振で従業員の数が減らされている。

 このカフェも赤字になりつつあったが、今は橙樺1人がほとんどの業務を回してそれなりの給料をもらっている状況だ。


 マスターはマスターで橙樺に助けられている。

 本来ならカフェの経営を続けられる体調ではないが、橙樺がよく働くおかげでなんとかやっていけている。


 カプチーノを淹れていると、女子高生の会話が耳に入ってきた。

 ひそひそ話していたが、静まり返った厨房には丸聞こえだった。


「ねぇ、あの店員さんの右目、青くない?」


「うんうん、私もちょっと気になってたの。日本人だよね? っていうか、外国人でもあり得なくない?」


「確かに。あれ、本物の瞳なのかな? もしそうだとしたら、ちょっと気持ち悪くない?」


「うん。でも、もしかしたら、カラーコンタクトかもしれないよ。中二病をこじらせてかっこつけてるだけとか。それはそれで痛いけどね」


 橙樺は俯き加減になり、長いまつ毛を伏せた。


 気持ち悪いだとか、中二病だとか、化け物だとか、エイリアンだとか。

 今まで耳が痛くなるほど言われ続けてきたが、いつまで経っても慣れない。

 多少の耐性はついたが、陰口のナイフは容赦なく心を傷付ける。


 小学生の時分、橙樺はクラスメイトのほとんどからいじめを受けていた。

 肉体的な暴力にさらされたり、罵詈雑言を浴びせられたり、無視されたり。

 中学校でも高校でもいじめは続いた。


 自殺を試みたこともあるが、怖じ気付いて結局はできなかった。

 何もできなかった。


 だが、唯一の友達はいつも味方してくれた。


 私とは対極にいる友達。

 可愛くてクラスの人気者。

 今頃どこで何をしているのかな。

 いつかまた会いたいな。


 橙樺は止めていた手を再び動かした。

 マスターは灰皿に煙草の先端を押しつけて潰し、ぐいと勢いよく酒瓶を仰いだ。


「好きに言わせておきな。右目の色が違うくらいじゃ大した話の種になりゃしないよ。じきに話題も変わるさ」


「…………」


 マスターの慰めの言葉が少し嬉しかった。

 心の掠り傷が少しだけ癒された。


 カプチーノ2杯とモンブランとガトーショコラをトレイに載せ、橙樺は慎重にテーブル席まで運んだ。


 足元は黒い靄がかかっているように暗いため、注意しなければテーブル席に上がる段に躓いてトレイをひっくり返してしまいかねない。

 このカフェのウェイトレスになりたての頃は何度かやらかしたものだ。


 カプチーノ2杯とモンブランとガトーショコラを届けると、二人の女子高生はくすくすと笑いを漏らした。

 さっと厨房に引っ込むと、「やっぱり気味悪いね」という陰口が耳についた。


 これが私の日常。

 人間に忌み嫌われながら、男に恐怖しながら、足元のおぼつかない世界にびくびくしながら、それでも私は生きている。


 橙樺は閉塞感という真綿にじわじわ首を絞められながら生活していた。

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