第5章
雪女の右目7
翌朝、那智は熱いシャワーを浴びた。
ロビーで自動販売機の缶コーヒーを一服し、チェックアウトを済ませた。
今日はわざと通勤ラッシュを過ぎた時間帯に新宿駅に行ったものの、那智は迷宮のようなそこでしばらく彷徨った。
誰の助けも借りるものかと意固地になっていたが、さすがに一時間もすると痺れを切らして駅員に浅草までの行き方を尋ねた。
丸ノ内線に五駅乗車し、赤坂見附駅で銀座線に乗り換えた。
それから十四駅乗車し、浅草駅に到着した。
駅員から行き方を教わった時はどうなることかと思ったが、案外わかりやすい道のりだった。
浅草駅を出てスクランブル交差点を渡る。
「雷門」と書かれた巨大な提灯の下をくぐる。
こればかりはさすがに東京に疎い那智でも知っている。
まだ朝だというのに、仲見世通りは観光客や外国人で賑わっていた。
小腹が空いたので、那智はきびだんごと冷やし抹茶を朝食代わりにすることにした。
朝は基本的に食欲が湧かないのだが、小ぶりなきびだんごならいくらでも食べられそうだった。
カップルや夫婦ばかりだ。
逆に、那智のように一人でいる者はいなかった。
ましてや一人できびだんごと冷やし抹茶を黙々と食べている者はこの浅草にはいなかった。
通りは手を繋ぎ寄り添い合っている者たちでごった返していた。
女が食べ物をねだれば男が買ってやる。
夫婦は慣れたもので、穏やかな微笑みだけで会話をしているようである。
外国人は片言の日本語で食べ物を注文し、何度か言い直してやっと店員に通じる。
那智は結婚するつもりはない。
女性経験はないし、恋人がほしいとも思わない。
傍からすればただの僻みだと思うかもしれないが、彼は女を毛嫌いしている。
俺はどうにも女という生き物が苦手だ。
人間は男と女の2種類に大別されるわけだが、俺はこの2種類を全く性質の異なる生き物だと思っている。
俺は女の化粧と仮面が嫌いだ。
女は虚偽で構成されているのではないかというくらい虚偽を纏いたがる。
これは外面的なことだけではなく、内面的なことも含まれている。
人間は誰しもがなんらかの虚偽を纏っているが、女は特にその傾向が強いと思う。
この虚偽は超自我の上に君臨する醜悪なものに直結している。
あと何年生きようか、と那智は思案した。
この旅がいつまで続けられるかはわからない。
家を売却して大金を得たが、収入がなければいつかは野垂れ死んでしまう。
仮に小説家になれたとしても、大した収入は期待できない。
それに、俺は長生きすることを望んでいない。
二十代のうちに死ねたらいいと思う。
人生なんてそんなにいいものじゃない。
ああ、俺は傍観者のまま孤独に死んでいくんだろうな。
両端の見世物小屋に閉じ込められた巨人のような阿形と吽形が佇立する宝蔵門を通り抜けると、左手に五重塔がそそり立っているのが見える。
手水舎は参拝者で溢れ返っていたが、一応ここで身を清めていくことにする。
神社愛好家の那智はこれまで旅のついでに数多くの神社を巡ってきたが、その中でもここの手水舎は珍しかった。
水盤の中心には龍神像が聳立しており、その足元の龍たちの口から水がちょろちょろと流れている。
天井には荘厳な墨絵の龍が描かれている。
龍にまつわる手水舎はそう珍しくもないが、ここまで神聖なものを目の当たりにするのは初めてだ。
手水舎で身を清めるにはいくつか作法がある。
那智は信心深くないが、こういう作法にはきっちりしている。
まずは右手で柄杓を取り、水をすくって左手にかける。
次に柄杓を左手に持ち替え、水を右手にかける。
もう一度柄杓を右手に持ち替え、左手を皿の代わりにして水を注ぎ口をすすぐ。
それから、さらに左手に水をかける。
最後に柄杓を垂直に立てて柄の部分を洗い流し、元の位置に戻す。
常香炉で他の参拝者が焚いた線香の煙を浴び、身についた穢れを浄化する。
これで神の御前に立つには申し分ない。
財布の中に余っていた五円玉を本堂の賽銭箱に投げ込む。
神社と同様に二礼、二拍手、一礼をしそうになるが、合掌して踏み留まる。
願うことなんて何もない。
小説家になるという夢は俺が成就させることだ。
神に願うまでもない。
強いて願うなら……そうだな、あのウェイトレスの記憶に残りたい。
それだけでいい。
謙虚な願いを心の中で呟き、一礼して踵を返す。
「はぁ、人間が多いな」
ひとまず那智は人間がひしめき合う浅草を散策することにした。
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