第4章

雪女の右目6

 ぱんぱんに膨れ上がったコンビニのビニール袋を提げて、姫代橙樺ひめしろとうかはアパートのドアの鍵を開けた。


 手探りで照明のスイッチを押す。

 冷蔵庫の前にビニール袋を下ろす。

 空っぽの冷蔵庫の中にグリーンサラダとミネラルウォーターを詰め込んでいく。


 今夜の夕食を除いて、ぎりぎり冷蔵庫が閉まる。

 少し買いすぎてしまったかな。

 ううん、いいの。

 なくなったらどうせまた買いに行くことになるんだから、買い溜めておいて損はないわ。

 コンビニには……あまり行きたくない。


 橙樺はリビングのテーブルに放置していた画用紙をベッドの上にそっと移動させ、空いたテーブルにグリーンサラダとミネラルウォーターを置いた。

 それから、少し高めの温度に設定してエアコンをつけた。


 静寂で耳鳴りがしたため、DVDを起動して昨日の続きを鑑賞することにした。


 違和感のあるモノクロ映画。

 男女の恋愛を描いた映画だったが、男性恐怖症の橙樺に恋愛は無縁だった。


 付属のドレッシングもかけずに無味乾燥な野菜をもしゃもしゃと咀嚼する。

 ミネラルウォーターを口に含み、不快な塊を嚥下する。


 プラスチックの容器の底に張りついた最後のレタスを口内に放り込むと、映画はやっと佳境に入った。


 男女がキスを交わし、両腕を艶めかしく絡めて抱き合う。

 濡れ場になり、肌色が画面いっぱいに広がる。

 テレビから嬌声が響く。


 橙樺は耐えられなくなってテレビを消した。


 身体が震えている。

 やはりテレビの中の男にも過剰に反応してしまうようだ。

 これではうかうかテレビも見ていられない。


 ふと今日カフェに来店した少年が脳裏を過ぎった。


 金髪の不良みたいな子だったわね。

 右目に眼帯をつけていたけど、どうしたのかな?

 喧嘩でもしたのかな?

 ああ、私に勇気があれば尋ねられたのに。


 私は駄目だな。

 せっかく話しかけてくれたのに、あたふたしてまた逃げてしまった。


 橙樺は新しい画用紙を用意してテーブルの上に広げた。


 鉛筆で大まかな線を描く。

 大体の形が定まると、細かい線を書き足していく。

 新鮮な記憶を頼りに、鉛筆をさらさらと滑走させる。


 画用紙は凍った池だ。

 一本足で氷上を滑っていると、その軌跡が自ずと絵になっていく。


 あっという間に三十分が経過した。


 氷上に描かれたのは、哀愁を帯びた少年。

 物悲しそうな表情だが、橙樺の記憶違いではなかった。

 厨房から盗み見た彼は確かにこんな表情をしていた。


 しかし、橙樺は不満に唇を尖らせた。


 色のない絵なんて未完成だわ。

 彼の右目は何色なのかしら。

 いずれにせよ、私にはこの絵に色をつけることができない。


 不意にやるせなくなって、橙樺はボタンを外してシャツを脱ぎ捨てた。

 スキニーパンツも同様に床に放った。


 裸体に近しい姿でベッドに横たわる。

 背徳的な解放感が橙樺を舐める。


「彼と……また会えないかな」


 独り言は空疎な天井へと吸い込まれていった。

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