第3章

雪女の右目5

 新宿の小規模なビジネスホテル。


 那智は原稿の上でボールペンを走らせていた。


 那智が旅をしようと決意したのは、小説を執筆するためでもあった。

 彼はいつしか小説家を志していた。

 不良となり、孤独になり、傍観者となり、人間が嫌いになり、そんな人間を小説にしたいと思うようになった。


 ちなみに、那智は幸運にも左利きである。


 小説を執筆する上で左利きでよかったと思う。

 何故なら、ボールペンのインクが小指の横や原稿を汚すことがないからである。


 もし右利きだったら、一行書き終えるたびにインクが乾くのを待たなければならない。

 さもなければ、せっかく紡ぎ出した文章が霞んで原稿が台無しになってしまう。


 右手には、コンビニで買ってきた夕食のサンドイッチ。

 最近はまっている具材は、ハム、レタス、チーズ。

 一文書き終えると休憩がてらに一口頬張り、喉に潤いがほしくなると缶コーヒーを呷る。

 カフェで飲んだコーヒーと比べると劣っているのが目立ったが、これはこれで素朴でいい。


 椅子に深く腰を沈めて、那智は例のウェイトレスに思いを馳せた。


 カフェを出てからずっとあのウェイトレスが脳内を浮遊している。

 異色の右目が俺のことを見つめ続けている。

 ああ、今日は執筆が捗らないな。

 きっとあのウェイトレスに思考を邪魔されているせいだ。


 那智はサンドイッチを食べ終えて、ティッシュで唇を拭いた。

 残りのコーヒーは執筆をしながら気長に飲むことにした。


 あのウェイトレスの人間性がわからない。

 男性恐怖症という仮面が、彼女の人間性をかき消してしまっている。

 推測に浮かび上がる人間性はどれも男性恐怖症絡みで、とても彼女の本来の人間性とは言い難い。


 かといって、男性恐怖症になる以前の彼女の人間性が残っているとは限らない。

 あれが彼女の人間性であるとも言える。


 とにかく、彼女の恐怖以外の感情を見てみたい。


 特に意味もなく唸っていると、那智はふとあることを思いついた。


 そうだ、あのウェイトレスの人生を小説にするのはどうだろう。

 俺はあのウェイトレスのことを何も知らないが、大まかな人間性さえ掴むことができればあとは想像を付け足すだけでいい。

 我ながら名案だ。


 那智は今まで書いていた原稿を丸めてごみ箱に投げ捨てた。


 あんなもの、これから書く小説に比べたら駄作だ。

 さて、まずはプロットから取りかかろう……といきたいところだが、いささか情報が足りなさすぎる。もう少し脳内で構想を練った方がいい。


 那智は硬いベッドの上に身を投げ出した。


 浅草でウェイトレスの人間性を形成できる着想が得られたらいいんだが――


 想像と妄想の碧海に溺れて、那智はそのまま眠りに落ちた。

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