雪女の右目4

「すみません、追加で注文してもいいですか」


 今度はウェイトレスに向かってそう言うと、彼女は眉を歪めて困惑の表情を形作った。

 そんな露骨に嫌がることはないだろう、という気持ちと共に、ちょっと意地悪したい気持ちが湧き起こった。


 ウェイトレスは団栗を両手で抱きしめる栗鼠のように伝票を挟んだバインダーとボールペンを手にして待った。


「コーヒーをお願いします。あと、この近くに何か名所はありませんか? 人間を観察するのが趣味でしてね、旅をしているんです」


 ウェイトレスは黙り込んでいた。

 視線をあちこちに彷徨させて、ゆっくりと後退っていった。

 挙動不審は明らかに恐怖によるものだった。


「あの……」


 那智は困り果ててしまった。


 ウェイトレスの反応を窺おうと思っていたが、それどころではなかった。

 彼女は小刻みに身体を震わせてバインダーとボールペンを取り落とした。


 何も怖がらせるようなことをしたつもりはない。

 確かに、意地悪をしてやろうと考えついたことだが、実際はその範疇ではない。


 金髪と眼帯のせいで喧嘩をしてきた不良だと勘違いされてしまったのだろうか?

 あながち間違っていないが、何もしていないのにここまで怯えるはずがない。


 すると、見かねたマスターが煙を吐き出しながら鼻を鳴らした。


「お兄さん、その娘は男性恐怖症なんだよ。何も答えやしないよ」


「男性恐怖症?」


「そのままの意味さ。男が怖いんだとさ。話しかけられたり近付かれたりするだけで身体が震えるんだよ」


「なるほど」


 那智は納得すると同時に、悪いことをしたと思った。

 ウェイトレスに謝ろうとしたが、彼女は既に石油ストーブの上のやかんと共に厨房に逃げ込んでしまっていた。


「お兄さん、よかったら私が代わりに答えるよ」


「お願いします」


「この近くの名所、ねぇ。人間なら腐るほどいるから、どこに行っても観察には困らないだろうさ。でも、それは見飽きたんだろう?」


「まあ、そうですね。どうせなら名所で人間を観察したいですね」


「この辺りには何もないからねぇ。歌舞伎町はどうだい? 治安は悪いが、夜の歓楽街はいいものだよ。ああ、お兄さん、未成年かい?」


「はい」


「じゃあ、やめておいた方がいいね。酒が飲めないんじゃつまらない」


 仮に未成年ではなかったとしても、歌舞伎町に足を踏み入れることは二度とないだろう。

 たとえどんなに殷賑を極めているとしても、だ。

 左目の視力まで失いたくない。


「他におすすめの名所はないですか?」


「そうだねぇ……無難に浅草の浅草寺を勧めておくかねぇ。ただし、今日はやめておいた方がいい。雨だと参拝者が少ないからね。行くなら明日にしな」


「ありがとうございます。明日、行ってみます」


 芳醇な香りが漂い、ウェイトレスが気まずそうにコーヒーを持ってきた。

 改めて謝ろうかとも思ったが、また怖がらせてしまいかねないのでやめておくことにした。

 彼女は身を引きながらコーヒーをテーブルの上に置き、さっと衝立の後ろに身を翻した。


 見れば見るほど美しいウェイトレスだ。

 マスクで顔面を隠しているが、滲み出る美貌は隠せていない。


 なんというのだろう、男っぽい格好をしているが、華奢な身体つきと一挙一動は全くもって女らしい。

 倒錯美とでもいうのだろうか、彼女にはそういったものがある。


 コーヒーをすすり残りのチーズケーキを片付けながら、那智の視線はウェイトレスに釘付けになっていた。

 もはやコーヒーとチーズケーキなんてどうでもよかった。


 腹は膨れて身体は温まった。

 欲求が満たされて余裕ができたためか、彼女に対して醜悪な欲望が顔を覗かせた。


 彼女に近付きたい。

 彼女の素顔を見たい。

 彼女のことを知りたい。


 ウェイトレスの瞳は何も語らない。

 異形の瞳が呈するのは、人間、特に男に対する恐怖のみだ。


 那智は大抵の人間の内心を瞳から推測してきた。

 正確には、瞳の機微だ。


 瞳には人間の内心が顕著に表れるものだ。

 それにもかかわらず、神秘的な瞳は彼女の内心に関する一切の情報を外界から遮断していた。

 ゆえに、那智は彼女という人間に心酔して見惚れてしまっていた。


 一人の人間にここまで惹かれたのは初めてだ。

 だが、このウェイトレスとはこれきりだ。

 このカフェを出たら、彼女とはもう二度と会うことはないだろう。

 旅は一期一会、出会いと別れは付き物だ。


 那智は無性に悲しくなった。

 彼女と結婚して家庭を築くという妄想に耽り、それが決して叶わないことに打ちひしがれた。


 途端にコーヒーがまずくなった。

 味覚が機能しなくなり、ただの苦い液体が舌の味蕾を冷やかした。


 那智はチーズケーキを平らげ、咀嚼しかけていたそれを生ぬるいコーヒーで胃の中に流し込んだ。


「ごちそうさまでした」


 財布を取り出しかけて、那智ははっとした。


 ウェイトレスは代金を受け取ってくれるだろうか。

 もしかしたら、もう厨房に引き籠ってしまっているかもしれない。


 しかし、ウェイトレスは空のトレイを胸に抱えて持ってきた。

 彼女は両手でトレイを突き出してきた。

 代金を載せろ、ということだろう。


 那智は伝票を挟んだバインダーと千円札をトレイの上に載せた。

 ウェイトレスは伝票を確認し、エプロンのポケットから小銭を手のひらに広げた。


 おつりの載せられたトレイを再び突き出されて、思わず苦笑いが浮かぶ。


 なんとも滑稽極まりない二度手間なやり取りだ。

 こうも徹底されると、むしろすがすがしい。


 ぺこりと小さくお辞儀したウェイトレスは、例のごとく厨房へと駆け込んだ。

 那智が席を立つと、食器を片付けて布巾でテーブルを拭いた。


「お兄さん、ありがとうね。縁があったらまたいらっしゃい」


「はい。コーヒー、美味しかったです」


 那智は名前のないカフェを後にした。


 雨は止んで、雲間からビル群の窓に夕日が差し込んでいた。

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