雪女の右目3

 小さなベルがちりんとなる。

 酒焼け声が「いらっしゃい」と歓迎する。


 酒焼け声の主は、四十代手前であろう女のマスターだった。

 厚化粧が老化を隠蔽して美人の面影を残しているが、明らかにデカダンが染みついていた。

 那智は彼女に会釈をして奥まった席に移動した。


 奥の席を選んだのは、今時珍しい円筒状の石油ストーブが近かったからだ。

 席に着くと、ウェイトレスが水と熱いおしぼりを運んできてくれた。

 那智は水を少し口に含み、おしぼりで入念に手を拭って顔面の水滴を拭き取った。


 カフェは薄暗かった。

 光源は天井から吊り下げられた裸電球と石油ストーブのみで、窓もなかった。


 那智はメニューを手に取り、暗がりの中で左目を凝らした。

 画用紙のような素材のメニューには褐色の染みがあった。

 誰かがコーヒーをこぼしたのだろう。


「あの、注文いいですか」


 誰に言うでもなくそう言うと、ウェイトレスがそそくさと注文を取りに来た。


「エスプレッソとチーズケーキをお願いします」


 注文を聞き届けると、ウェイトレスは無言のままにまたそそくさと厨房に引っ込んでしまった。

 やけに無愛想なウェイトレスだった。


 マスターは厨房の換気扇の前で煙草を吸っていた。

 手元には酒瓶があり、瓶の口には紅がこびりついていた。

 那智の左目の視力がいいということもあったが、彼が座った席は床よりも一段高いところにあったため、厨房は丸見えだった。


「はぁ……」


 疲労と足元の気持ち悪さから溜め息が漏れた。


 カントリーブーツの中まで水が染み込んでおり、靴下は濡れ雑巾のようになっている。

 履き心地は最悪だ。


 那智は気晴らしに店内を見回した。


 那智の他に、分厚いレンズの眼鏡をかけて新聞を読んでいる老人と優雅にダージリンをすすっている婦人がいた。

 いかにも常連といった顔ぶれだ。


 テーブル席は三つ。

 椅子は対面するように二つ設置されており、予備の椅子が隅の方に追いやられている。

 カウンター席は五つ。

 背の高い椅子で、回転するようになっている。


 カウンターと厨房の衝立の間には古ぼけた書架がある。

 そこに陳列された漫画や雑誌は色褪せており、匂いを嗅いだらコーヒー臭そうだ。


 カウンターにはラジオがどっしりと構えている。

 那智はラジオには詳しくないが、どうやら年代物らしい。


 惜しいな、と那智は思った。

 ジャズ、せめてクラシックがかかっていたら完璧だった。

 BGMがラジオのニュースというのは、なんとも時代錯誤しているように思えた。


 しばらくラジオのニュースに耳を傾けていると、歌舞伎町で一人の少年が殺害されたという報道が流れた。

 一瞬、路地裏で助けた少年のことが思い浮かんだ。

 が、石油ストーブの上のやかんが金切り声を上げてそんな気がかりを霧散させた。


 ウェイトレスがやかんを端の方にずらしに来て、ふと彼女と目が合った。

 刹那、那智は瞠目した。


 ウェイトレスの双眸は対になっていなかった。

 というのは、普通、虹彩というものは両目とも同じ色だ。


 例えば、那智の虹彩は濃褐色で両目ともそうだ。

 当然のことだ――少なくとも、彼はそう思っていた。


 ところが、このウェイトレスに当然は当てはまらなかった。

 左目は日本人離れした緑がかった薄褐色の瞳、右目は夏の澄んだ青空のような碧眼であった。


 ウェイトレスは即座に視線を逸らして厨房に隠れてしまったが、那智の脳裏には彼女の双眸が焼きついていた。


 なんて美しいのだろう。

 しかし、あれは本物の瞳なのだろうか。

 カラーコンタクトの可能性もある。

 もしカラーコンタクトなら、あのウェイトレスは中二病をこじらせていることになる。

 だが、彼女は目立ちたがりのようには見えない。

 どちらかといえば、内向的のように見える。


 那智は厨房でせかせか働くウェイトレスに興味をそそられた。


 年上であることは間違いないが、年はそう離れていない。

 二十歳くらいだろうか。

 肩の辺りで切り揃えられた艶やかな黒髪。

 背は高めで、四肢はほっそりとしていてたおやかだ。


 白いシャツの上にはエプロンをつけており、美脚を際立たせているのは黒のスキニーパンツ。

 足元は男物のエンジニアブーツ。

 一言で表現するなら、隙のない服装だ。


 女の中には冬であっても肌を見せつけたがる者もいるが、このウェイトレスはそれとは対照的に肌を包み隠している。

 ただ、せっせと那智の視界を忙しく行き来する白い手がその全貌を物語っている。


 那智はこのウェイトレスの全裸を見てみたいと思った。

 下心がないというのはおかしいかもしれないが、本当にそうなのだ。

 例えるなら、そう、石膏像の全裸を鑑賞する心境に似ていた。


 正直、エスプレッソはせいぜいインスタントで出されるものだと思っていた。

 が、厨房のガスコンロではマキネッタが火にかけられていた。


 ウェイトレスは抽出された重油のような液体をデミタスカップに注ぎ、冷蔵庫からチーズケーキの載せられた皿を取り出した。

 さすがにチーズケーキはどこかのケーキ屋で買ってきたものだろう。


 ウェイトレスがエスプレッソとチーズケーキをトレイで運んできて、那智はごくりと唾を飲んだ。

 彼女は相変わらず無言で去っていった。


 生クリームとラムレーズンの添えられたニューヨークチーズケーキは、那智の好物だった。

 彼はチーズケーキの中でも特にニューヨークチーズケーキが好きだ。


 エスプレッソにはミルクの入った透明な小瓶がついてきた。

 那智は顔をしかめて手の甲でそれを遠ざけた。


 ミルクは大嫌いだ。

 それに、エスプレッソにミルクなんてナンセンスだ。

 エスプレッソは深煎りのコーヒーの味を嗜む飲み物だ。

 わざわざミルクで薄めるなんてもったいない。


 那智は濛々と立ち上る湯気を一息で吹き飛ばし、それがまた立ち上る前にエスプレッソに口をつけた。

 まだ熱かったが、舌を火傷するほどではなかった。


 美味しい。

 やはり本格的な器具で淹れたエスプレッソは一味違う。


 フォークでチーズケーキの先端を一口サイズに切り、生クリームを絡めて口に運ぶ。

 ついでにラムレーズンを奥歯で噛み潰すと、チーズケーキと生クリームの甘さの中にラム酒の風味とレーズンの酸っぱさが広がる。


 ニューヨークチーズケーキとラムレーズンの相性がこんなにも抜群だったとは知らなかった。

 濃厚なニューヨークチーズケーキはエスプレッソにもよく合う。

 俺はこのカフェで至高の組み合わせを選んだ。


 エスプレッソを飲み干すと、身体の芯から温まってきた。

 が、チーズケーキはまだ半分も残っていた。


 那智はメニューをもう一度開き、コーヒーをもう一杯注文することにした。

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