第2章
雪女の右目2
まどろみの中から顔を出すと、そこは白い世界だった。
焦点が合うようになると、それがただの天井であることがわかった。
上半身を起こそうとすると、腹部に静電気のような鋭い痛みが走った。
那智は再び枕に頭を沈めた。
ナイフで刺されたが、傷はそう深くないようだった。
ギャバジンのトレンチコートのおかげで命拾いした。
だが、右目はただでは済まなかったようだ。
右目を撫でると何かに覆われていることがわかった。
恐らく眼帯だろう。
間もなくして、二十代後半であろう看護師が病室に入ってきた。
ほのかに香水の匂いがした。
「君、歌舞伎町の路地裏で倒れていたのよ。一体何があったの? 喧嘩?」
「……まあ、そんなところですかね。話すと長くなります」
「ふーん。とにかく、これに懲りたらチンピラとは喧嘩をしないことね。歌舞伎町は特に治安が悪いんだから。昼だからよかったものの、子供が一人で歌舞伎町をうろつくものじゃないわ」
「夜はもっと治安が悪いんですか?」
「ええ。暴力団が規模を拡大したとかなんとかで、最近はそういう事件が多いのよ。君、この近くに住んでいるんじゃないの?」
「いいえ。東京は初めてなんです。歩いているうちに迷い込んでしまって」
「それは災難だったわね」
「はい?」
「災難だったわね、って言ったの」
那智は乾いた笑いを漏らした。
全くその通りだ。
路地裏の些細な出来事なんか無視してしまえばよかった。
傍観者のままでいたらここにいることはなかった。
那智はもう一度右目の眼帯をさらりと撫でた。
「俺の右目はどうなってしまったんですか? 失明してしまったんですか?」
「幸い失明には至らなかったけど、視力は大幅に低下してしまったわ。ほとんど世界が白くぼやけてしまうと思うわ。視力が戻ることもないでしょうね。眼球破裂の重傷よ。眼球を縫合するなんてなんだか気持ち悪いわね。想像するだけで吐き気がするわ」
「はははっ、毒舌ですね」
右目の視力をほとんど失ってしまったというのに、那智は意外にも落ち着いていた。
脱力から溜め息を吐き、今度は腹部に手のひらをあてがった。
シャツを捲り上げてみると、どす黒い血液の滲んだガーゼが貼られていた。
「腹部は大したことなかったわ。内臓は傷付いていないし、動作に多少の支障が出るくらいね。一応、縫合もしてあるわ。めったなことがない限り傷が開くこともないと思うわ」
「それならよかった」
「まあ、詳しいことは先生に聞いてちょうだい。じゃあ、先生を呼んでくるわね」
「はい。ありがとうございました」
看護師が病室から出ていくと、那智は痛む腹の傷を押さえてベッドから飛び起きた。
使い古したカントリーブーツを履き、ハンガーにかけられたトレンチコートに袖を通す。
最後にリュックを背負い、病室からそろりそろりと出ていく。
冗談じゃない。
右目の視力だけでなく金まで取られたのではたまらない。
腕時計をちらと見やると、既に午後四時を迎えていた。
特に何もすることはなかったが、那智は足早に病院から逃げ出した。
外は雨だった。
夕立のようだったが、雨脚は強かった。
傘なんて持っているはずもなく、那智はびしょ濡れになるのも構わず鈍色の雨の中に躍り出た。
今日は災難ばかりだ。
傍観者を一時的にやめて人間に干渉したせいだ。
これだから人間は嫌いなんだ。
偽善的な正義感を捨てなければならない、と思った。
俺はあの少年のことを何も知らない。
もし彼があのまま二人の不良に殺されていたとしても、俺には全く関係ない。
せいぜいニュースで耳にするかもしれないくらいだ。
耳にしたとしても、どうせ聞き流してしまうありふれたニュースだ。
俺があの少年を助けたのは、単なる自己満足のためだ。
逆に、あの少年を助けないという思考は、もう一人の俺――すなわち超自我が許さなかっただろう。
傍観者を一時的にやめたことで、俺は超自我に支配された。
ギャバジンのトレンチコートが雨を弾く。
ナイフに穿たれた穴から水が浸入し、シャツを濡らす。
水分を含んだ金髪が視界を邪魔する。
いら立ち紛れに前髪を乱暴にかき上げる。
あの少年は俺に騙されていたことになる。
だって、俺は本心から彼を助けたいと思っていなかったのだから。
半分は俺のためで、もう半分は醜悪なもののためだった。
俺はあの少年を見捨てて昼食を取るべきだったんだ。
ああ、腹が減った。
何か腹に入れるついでにそこで雨宿りをしていこう。
那智は雨を避けるように路地裏に入った。
路地裏といっても、そこにはいくつかの飲食店が軒を連ねていた。
昔ながらというよりは、単純に寂れていると表現した方がよさそうだった。
活気のない路地裏だ。
いや、そもそも路地裏は活気のある場所ではない。
死んだふりをして息を潜めているのが路地裏だ。
それが路地裏の美しさでもある。
しかし、どの飲食店も那智の気を引かなかった。
どれも惜しいといった具合で、空腹の前ではなんでもいいという妥協もあったのだが、この路地裏には彼の欲しているものはなかった。
那智が欲しているのは、温かい飲み物と甘い食べ物であった。
空腹ではあったが、まともな食事をしたい気分ではなかった。
路地裏の中ほどまで来ると、目当ての飲食店を見つけた。
カフェだ。
それは路地裏の中でも特にひっそりとしており、ドアの上に半円形の雨避けの屋根がなければ存在していることすら気付かなかっただろう。
一見死んでいるカフェ。
那智は不思議とこのカフェに惹かれた。
年季の入った木製のドアは黒いペンキでコーティングされており、その中心には傾いた「OPEN」の札がぶら下がっている。
ささくれた紐が今にもちぎれそうだったが、辛うじて札を落とさないように保っている。
雨避けの屋根にはカフェと書かれていたが、その隣の文字は掠れて読み取れなかった。
那智がこのカフェに惹かれたのは、名前がなかったからなのかもしれない。
とにかく、入ってみよう。
今は何より冷え切った身体を温めたい。
それから、カフェインで目を覚ましたい。
手術の際に麻酔でもかけられていたのだろう。
まつ毛の先に錘でもつけられたかのように瞼が垂れ下がってくる。
那智はかじかんだ手でドアを押した。
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